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序
生ぬるい静けさが体中を包んでいるのがわかった。 「貴方は、とても長い時間を過ごしてきた」 雨に濡れた髪からぽたりと雫が滴る。パンツスーツの紺色が薄暗い室内によくなじんでいた。 天野梨恵(あまのりえ)は、ささくれの目立つ床の上で背筋を伸ばして座り込んでいた。外から漏れる大粒の雨音は絶えず聞こえ、轟音を鳴らす雷光は丁寧に編みこまれた黒髪を何度も照らしている。 「時の流れは残酷なもの。思い出も、記憶も、その激流によって軽々と奪われてしまうものです。なにより貴方自身も、長い時間の中で歴史の片隅に忘れられてしまった・・・・・・」 天野は話を続けながら、雨粒に濡れた銀縁のメガネを丁寧に拭いた。 薄暗い室内に彼女以外の人影はない。問いかけの言葉も、薄暗い室内の中に虚しく溶けていった。 それでも天野は、確かにその存在を感じていた。目に見えないそれはじっと息をひそめ、現れた異端者を観察している。その姿はまるで獲物を品定めする蛇のようにも、はたまた外敵に怯えるカエルのようにも思えた。 「けれど、忘れない者もいたのです」 天野はメガネをかけ直すと、すっと前を見据えた。 凛とした声に応えるように雷雨が轟く。轟音の地鳴りは、長い年月を重ねた建物を大きく揺らした。 雷光に照らされながら、天野はプラスチックケースから一冊の本を取り出した。 分厚いそれは、黒字に乳白色の蓮の花が描かれたハードカバーだった。誰が見ても非常に手のこんだ一冊だとわかるだろう。天野の細い指が滑るようにゆっくりと表紙をなぞる。 雨に濡れた髪が、肩にはらりと落ちる。それすら厭わずに、天野は言葉を紡いだ。 「これは、その者が残した物語。このお話がきっと貴方と私をつなげてくれるでしょう。どうかしばらく耳を貸してください・・・・・・『この物語は』」 天野はゆっくりと表紙を開いた。透き通るような声色が、文字列を読み上げていく。天野の言葉に答える声はない。 だが天野には、見えない視線が、少しだけ興味を示したように天野に向けられたのを感じた。視界の端でそれを捉え、天野は言葉を続ける。 外の雷鳴は一層轟き、建物のきしみもいっそうひどくわなないだ。まるでこの建物全体が、天野の言葉に怯えているようだ。 止まっていた時間が、ゆっくりと動き始めていた。 「『これは、今は昔のお話。一人の男と少女が織り成す、不思議な縁(えにし)の物語でございます!』」 ひときわ強い雷光が落ちる。雨風はいっそう強まり、雷鳴は激しく地面を揺らす。 見えぬ姿もまた、怯えるように身をすくませた。 |