一話
もう秋だというのに、自分はなぜこんなに汗をかいているのだろう。 青年は額に腕を押し付け、流れる額の汗を拭った。石綿の入った手甲の布地に汗がじんわりと染み込んでいく。麻でできた直垂(ひたたれ)の着物はぴたりと青年の背中に張り付き、動きにくさと気持ち悪さを感じさせた。 山の中でひたすら石段を登る。年季の入った階段はところどころ苔むし、崩れそうになっている。その場所を避けながら、青年は懸命に足を動かした。 「ふう、やっぱ重いなあ。もうちょっと荷物を減らしてくるべきだったかな」 自身の背負ったかごに、ちらりと目を向ける。かごの中には巻物や書物が所狭しと詰められ、肩の肉に食い込むほど重くのしかかっていた。その上腰には巾着ぶくろをつけており、愛用のすずりと筆、さらに昨日拾ってきた大量の栗がみっちりと詰まっている。青年が一歩足を踏み出すたびに藤色の巾着ぶくろが重そうな音を立てた。 もう半年以上はこの道を登ってきただろうか。夏の暑い盛りも雪の深い頃にも登りつめたおかげで足腰はだいぶ鍛えられたと自負している。それでも今日はとりわけ荷物を持ちこみ過ぎたようだ。 だが、だからといってその辺りに放り投げられるような品物ではない。彼にとっては栗の一粒も落としてはならない大切なものなのだ。 「早く行かないと、また怒られちゃうよ」 青年はそうつぶやくと、ずれた肩紐を背負い直した。 さらに半刻ほど登り続けると、ようやく山の頂上が見えてきた。 「や、やっと、着いた」 青年は石段を最後まで登りきると、その場に力なく座り込んだ。直垂のすそが揺れ、ほてった体に山中の涼しい空気が送り込まれる。汗に濡れた皮膚の暑さが少しだけ和らいだように感じた。 青年を一番に出迎えたのは、自身の何倍もある神社の楼門だった。 二階建ての巨大なそれは、おそらく青年の生まれよりずっと昔から存在していたものだろう。瓦はところどころ剥げ、赤い塗装の塗られた柱は地の木版が見えるほど朽ちてしまっている。完成時はさぞ立派な楼門であっただろうが、今は見る影もない。 また、楼門の中の通路にはどっしりとした野太いしめ縄がつながれていた。大人数人分ほどの重さがありそうなそれは、まるで巨大な蛇のようにも見える。時折ぎしぎしと不吉な音を立てて揺れるさまは、大蛇が獲物を狙って舌なめずりしているかのような緊張感を持たせた。 また、隣接する赤い塀には御札のような白い紙きれがいくつも貼られていた。おそらくなにか文字が描かれていたのだろうが、年季の入ったそれは雨風にさらされて白く色褪せていた。 「ずいぶんと遅かったな、善光(ぜんこう)」 どこからかそんな声が聞こえてきた。少ししわがれたような、年齢を重ねた男の声だ。 青年が目を向けると、楼門の屋根から、誰かがひょっこりと顔をのぞかせた。 純白の羽を持った、白いカラスだった。 善光と名を呼ばれた青年は、肩で息をしながらも少し不満げに唇を尖らせた。 「・・・・・・あのねえ、セン。僕たち人間は、君みたいに空を飛んでいくことはできないんだよ。それに今日は荷物がいっぱいあるんだから、時間がかかって当たり前でしょう?」 青年の言葉を理解したかのように、カラスはふん、と鼻息を鳴らした。そして、少し黄色みがかった乳白色のくちばしを開き、先ほどと同じ男の声で青年に語りかけてきた。 「人間のくせに、言い訳など見苦しいぞ。それと、私は千鳥(ちどり)だと言っているだろう。主以外にその名で呼ぶことは許さん」 白いカラス、もとい千鳥はそういうと翼を広げてくちばしを大きく開いた。威嚇をするようなその動作は、人間でいえば怒っているということだろう。このカラスは表情が乏しい代わりに、偉そうな物言いと動作で伝えてくるのだ。 善光はやれやれといった様子で片手をあげた。 「はいはい、ごめんね。僕もう疲れちゃったから、いい加減中に入ってもいいかな?」 「フン・・・・・主がお持ちだ、さっさと来い」 それだけ言い残すと、白いカラスは門の向こう側へと飛び立っていった。青く澄み渡った空を羽ばたく姿は、やがて建物の向こう側へと消えていった。 「どうせなら少しくらい手伝ってくれればいいのに。相変わらず意地悪な鳥だなあ」 善光は文句を言いながら、下ろしていたかごを背負い直した。相変わらずかごの荷物は重く肩にのしかかってくるが、これが最後のひとふんばりになるだろう。そう自身を奮い立たせ、善光は楼門へと足をすすめる。 彼が門をくぐりぬける間も、野太いしめ縄はぎしぎしと嫌な音を立てていた。 門を抜けると、境内の中は一面を落ち葉に覆われていた。 庭のすみに置かれた小さな池には、赤子の手のひらのような紅葉がいくつも浮かんでいる。水面に無数の波紋を広げながら、また一枚、また一枚と赤い葉が舞い降りていた。門からまっすぐ伸びる石畳の上にもそれは広がり、終着点である本殿まで真っ赤な道が続いていた。 その本殿の前に、十二歳くらいの小柄な少女の姿が見えた。境内に入ってきた善光に気付かぬまま、石畳の上にしゃがみこんでいる。少女は落ち葉を拾っては宙へと放り、紅葉がはらはらと舞う様を眺めていた。 その人影に向かって、善光が声をかける。 「ユエ、遅くなってごめんね」 ユエと呼びかけられた少女は、くるりと善光の方へ振り向いた。善光の姿をとらえると、幼い顔立ちがほどけるように笑みを浮かべる。 「善光、いらっしゃい!」 少女は善光の元まで駆け寄り、その体へ向かって勢いよく抱きついた。 それほど長身でもない善光と比べてもユエの身長は善光の腹ほどの小ささだった。ゆるく編まれた三つ編みはまるで尻尾のようで、彼女の動きに合わせて元気よく弾んでいた。 「わ、急に抱きつくと危ないよ」 「えへへ、だってずっと善光のこと待ってたんだもん」 ころころと鈴の鳴るような声色でユエが微笑えんだ。 「ユエ・・・・・・!」 愛らしい表情に善光の心中が暖かい気持ちになる。自身の来訪を心待ちにしてくれた少女に、思わず胸が高まった。 だが次の言葉で、それは勘違いであることに気づかされる。 「それで善光、おみやげは!?」 ユエは、期待のこもった眼差しで善光を見つめてくる。少女の一言に、舞い上がっていた気持ちが、がくりと落ちた。 (なるほど、僕じゃなくてお土産のほうか・・・・・・) 乾いた苦笑を浮かべながら、善光は巾着ふくろに手を伸ばす。手探りで栗を数粒ほど取り出すと、桔梗色の手袋に包まれた手のひらに乗せてやった。 「わあ!! 栗だ!!」
ユエの大きな瞳が手のひらに向いた途端、少女の口から歓声が上がった。 「昨日の帰り道に拾ってきたんだ。まだたくさんあるから、落ち葉を集めて焼き栗にしよう」 「やった! 焼き栗だいすき!」 どんどん栗を乗せてやると、ユエはうさぎのように飛び跳ねて喜んでいた。彼女の履いている紅色の駒下駄も、カラコロと楽しそうに音を立てている。 「まったく、現金なんだから」 そう苦笑いを浮かべる善光も、そこまで悪い気はしていない。 なにせあの笑顔を見るため、いつも余分に荷物を増やしてくるのだから。 その間に善光は荷物を置き、社の裏手からホウキを取り出してきた。境内に散らばる落ち葉の量を見れば、たき火に必要な量を集めるのにそう時間はかからないだろう。身体は疲れていたが、少女のはしゃぐ様子を見れば、休むよりも早く焼き栗を作ってやりたい気持ちの方が勝った。 落ち葉を集めると、早々に焼き栗を作り始めた。 たき火が燃える様を、ユエは待ちきれない様子で眺めている。小枝がパキリと爆ぜるたびに、ユエの瞳の中でも炎が爆ぜた。 「・・・・・・」
「ユエ、そんなにじっと見てなくても栗は逃げないよ」 あまりに熱心に見つめているので善光は少し呆れたように声をかけた。ユエはぷっくりと頬をふくらませ、善光の方を上目遣いで見つめてくる。 「だって〜早く食べたいんだもん」 「まだ火をつけたばかりじゃないか。もうちょっとの辛抱だよ」 「う〜」 しばらくむくれていたユエだったが、すぐに機嫌もよくなり、体を左右に揺らしながら歌を歌い始めた。 「くり〜くり〜まだかな〜♪」 (ユエったらもう、しょうがないなあ) 善光はそんなユエの様子に、あきれ半分、微笑ましさ半分で見つめていた。 たき火の光が当たり、ユエの髪が、丸い頬が、紅葉にも負けないくらい赤く輝いている。 善光は時折たき火に枝をくれてやりながら穏やかに過ぎる時間を味わった。 「・・・・・・っ、と」 その時、地面に散らばっていた落ち葉が舞い上がる。ひときわ強い秋風が、二人の間を通り過ぎた。よほど集中しているのか、ユエはたき火をじっと見つめたまま少しも動かずにいた。 はらはらと舞い上がった紅葉は善光たちの頭上へとゆっくり降りてくる。そのうちの一枚が、ユエの髪にふわりと舞い下りた。 葉の先が髪に触れる。 瞬間、木の葉が音もなく散った。 「――――――」
善光は息をのみ、瞳を見開く。一瞬で灰になった紅葉は、秋風にさらわれて消えてしまった。 「くり、くり、く〜り〜り〜♪」 「・・・・・・」
陽気な歌はまだ続いている。ユエ自身は今の出来事に気付いておらず、棒でたき火の中をつついて遊んでいた。 いや、もし気が付いていたとしても、きっと彼女は平然としているだろう。 なにせユエにとってはごく当たり前の事なのだ。 静まり返った境内の中に鈴の音のような声色が響き渡る。 お土産にはしゃぎ、陽気に歌を歌うユエの姿は、まさしく普通の女の子だった。 ただ違うのは、絹のようになめらかな白銀の髪と、黄金に輝く大きな瞳を持っていること。 そして、自身に触れた生き物すべてに『疫』を移す死の力を持っていること。 ユエは昔、この神社に封印された化け物。 ・・・・・・疫病神だった。 |