二話
二人の出会いは半年ほど前に遡る。 その日はたらいをひっくり返したような、ひどい大雨だった。 「まいったなあ。まさかこんなに降るなんて」 善光は楼門のすき間から空を眺め、小さくため息を着いた。 彼の見上げた先には、灰色がかった厚い雲が空を覆い、大粒の雨をしとどに降らせている。さらにはそのすき間を縫うように雷光が輝き、地を揺るがすほどに善光の近くまで落ちてきた。ずしりと腹にくる地響きに善光は何度も身をすくめる。 たしかに雨も雷も天からの恵みでありありがたいものだろう。だが、旅の途中で迷子になった善光にとって、この雷雨ははた迷惑なものだった。 「しばらく待っててもやみそうにないな。ここに一晩泊まるしかないのか・・・・・・」 善光は雨に濡れた体をぬぐいながら、背後を振り返る。門の向こうには、妙にさびれた社殿がそびえ立っていた。楼門よりもさらにひとまわり大きなそれは、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がり、少し不気味だ。背筋をなぞる悪寒は決して雨だけのせいではないだろう。 ここまで善光が悩んでいるのには訳がある。 この山にのぼる前、善光は山の麓で一人の老婆に出会った。 道を歩いてる途中にすれ違った老婆は、軽く会釈をして去ろうとする善光の腕をいきなりつかんできたのだ。 善光があっけにとられていると、老婆は耳元でこんな話をしてきたのだ。 『あの山へは、決して足を踏み入れてはいかん。山の頂上には使われなくなった神社があって、はるか昔に悪い神様が封印された場所でもあるんじゃ。迷い込んだ人間は、みんなひどい目に合うんじゃよ』 山姥のようにしわがれた顔に、その顔を長い白髪で半分隠した風貌が、いかにも怪しげだったのも一因だろう。老婆の低いしわがれた声と話しぶりに、善光はすっかり引き込まれてしまった。それだけ早口で話し終えると、老婆はフンと鼻を鳴らして腕を離し、善光が歩いてきた道の方へと去っていった。 「その神社って、きっとここだよね・・・・・・はあ」 善光はがっくりと肩を落とした。雨水で濡れた衣服が、なおさら青年の体を重くさせる。 別にこの神社に来るつもりはなかった。ただ旅の途中で道に迷った挙句、雨が降りだした時に見つけたのがこの神社だったというわけだ。おかげで雨をしのぐことは出来たが、この一帯をただよう言いようのない空気に身を震わせることになるとは善光自身も思っていなかった。 とはいえ、ずっと楼門の下にいるわけにもいかない。春を迎えたばかりのこの時期はまだまだ肌寒い。先程から何度も冷たい雨風が吹き、雨に濡れた善光を少しずつ凍えさせていた。 「・・・・・・」
善光は境内の中をざっと見回した。雨に遮られてよく見えないが、楼門の大きさに比べて、敷地はそんなに広くはないらしい。境内の庭には、小ぶりな木が数本と、門の近くに小さな池があるだけで、ほかは何も見当たらない。向かって左隣には、社より一回り小さな蔵のようなものが建てられていた。おそらく、何か物置のようなものなのだろう。小さな格子戸が一つだけ付いた、簡素な建物だった。 頭上では、まるで追い立てるようにしめ縄の軋む音が聞こえる。 「さすがに社の中で寝るわけにはいかないよね」 困ったように頭をかけば、濡れた髪から雫が滴り落ちる。水滴は雨に交じり、足元の水溜まりに小さな波紋を残して消えていった。 自分は、ただでさえ出入り禁止の場所に立ち入っているのだ。失礼をしている中で、さらに雨に濡れた体で社内に入るのはいかがなものだろう。たとえ普通の神が祀られていたとしても、きっといい顔はしない。ましてやそれが悪神ならば、本当に祟られてしまうかもしれない。 しばらく悩んだ挙句、善光はようやく決断を下した。 「よし、今日はあの蔵に泊まろう! あそこなら泊まってもバチは当たらないよね」 善光は自身を奮い立たせるように何度も頷いた。蔵の中くらいなら、神様も文句は言わないだろう。簡素な割に壁には漆喰(しっくい)が塗られており、わりと頑丈に作られているようだ。今日のような大荒れの嵐でもしのげるだろう。 蔵へ向かう前に、善光は社殿に向かって丁寧にお参りをした。 「僕はあそこで寝ますので、どうか一晩見逃してください。明日の朝まで、無事に過ごせますように・・・・・・それっ!!」
言葉の中に本心をちらつかせながら、善光は土砂降りの雨の中を脇目もふらずに走り出した。もうさんざん雨に当たったあとだが、これが最後と思えば、ずぶ濡れの袴も随分と軽く思える。 月夜も出ぬ薄暗い中、善光は水溜りのはねる音を聴きながら、ただただ必死に走り続けた。 だからこそ彼は最後まで気づかなかった。 ほんの少し開いた社殿の扉から、二つの目玉が覗いていたことに。 * 蔵につくと、善光はおそるおそる扉に手をかけた。 きしみを上げながら開く扉に安堵の息をつく。 「良かった、これで錠が閉まってたらどうしようかと思ったよ」 ほっと胸をなで下ろすと、善光はさっそく中に入りこんだ。 ほこりのまじった匂いがずぶ濡れの青年を出迎える。はるか頭上にある格子戸からは雨風の音が聞こえてくるが、さすがに建物の中まで入ってくることはなかった。入口の戸を閉めると、あたりは真っ暗になった。 善光は軽く雨水を拭うと、手袋の上辺をはずして荷物の中をあさりはじめた。指先の感触を確かめながら、手探りで平たい皿のような燭台と太めのロウソクを一つずつ、そして、手のひらほどの火打ち石を二つ取り出した。石の表面が乾いていることを確かめると、善光は燭台にロウソクを取り付けて火打ち石をこすり合わせた。 カチ、カチ、と乾いた音が蔵の天井まで反響する。石の表面にほんのりと火がともると、すかさずロウソクの先にそれを押し付けた。 橙色の明かりが揺らめきながらゆるりと辺りを照らし出す。 「やれやれ、やっと一息ってとこかな」 善光はどっかりと床に座り込み、ほう、とため息をひとつ付いた。濡れてしまった上着を脱ぎ、荷物から取り出した手ぬぐいで濡れた頭を拭う。たとえロウソクの明かりでも火は火。灯火に向けた指先がじんわりと暖かくなっていく感覚に、善光は目を細めた。 「それにしても、この蔵にはずいぶんと書物があるなあ」 手ぬぐいの隙間から顔を覗かせ、辺りをゆっくりと見回す。ロウソクの明かりに照らされた先に、いくつもの書物棚の影が浮かび上がっていた。その一段一段にはこれでもかというほどの巻物や木の板に書かれた木簡(もっかん)、さらには地方では珍しい紙でできた書物まで詰め込まれている。上方までロウソクを掲げても、天井どころか棚の先すら見えない状態だった。 善光は少しだけ身体をよじり、近場にあった書物を一冊抜き出した。髪の水滴が落ちないよう注意を払いながらロウソクの火に書物をかざす。少々古い字体ではあるが、善光でもどうにか読むことのできる内容だった 「村人の名前や作物の収穫高、その年にどんなことがあったかも書いてある・・・・・・悪い神様が封印されるまでは、この神社は村を統括する場所でもあったんだね」 善光は熱心に指を動かし、書物の文字を追い続けた。 元々彼は書物を読むのが好きで、都にいた頃は叔父の家で大量の巻物を読ませてもらったこともある。そんな善光にとってこの蔵は、ある意味宝の山だった。さらに都合のいい事に朝まで時間はたっぷりとある。都では読めない珍しい内容の書物もきっと中にはあるだろう。 気がつけば善光は、自分が曰くつきの神社にいることも忘れて黙々と書物を読み進めていた。 |