十七話


 

 左頬から肉の焼ける様な嫌な音がした。それと同時に熱く熱した鉄板を押し付けられたような熱が顔に伝わり、楓は思わず後ろにのけぞった。その拍子に由縁の手が楓の頬を離れる。 

「あ、あああ・・・・・・!! 

「あれえ、おかしいなあ。いたいとこは、こうしたらなおったのに」 

 由縁が不思議そうに小首をかしげる。その間にも楓の左頬は、少女の手が離れてからも嫌な音を立てて燻っていた。押さえつけた手のひらがただれていく皮膚の感触を生々しく伝えてくる。灼熱の痛みは徐々に広がっていき、やがて顔の左半分を覆い切るまで侵食を続けた。左まぶたは皮膚にくっついて離すことができず、この左目はもう二度と光を見ることはできなくなった。 

「ふむ、騒々しいと思ったら、神主の娘ではないか。なにゆえ主の社に入り込んだのだ」 

 痛みに歯を食いしばりながら床を這う楓に、頭上から声が降りてきた。 

「あなたは、御使い様!? 

「あ、センちゃん」 

 顔を上げると、格子戸の隙間から真っ白なカラスが現れた。闇夜に浮かび上がるその様は、まさしく思い出の中の御使いそのものだった。主と呼ばれた姉は格子戸から舞い降りた白いカラスに親しげに近づき、問いを投げかける。 

「センちゃん、おかしいの。いたいところさわったのに、あのこ、ぜんぜんよくならないの」 

「む、あの娘に触れたのですか? 今の主は、前の主の体とは違います。以前のように疫をもらうことは出来ません。それどころか、逆に疫を渡すことになりますぞ」 

「なっ・・・・・・!? 

 楓が目を見開く。由縁は幼い所作で顔を歪め、頭をかかえた。 

「ん、んう。わたし、むずかしいこと、わかんない」 

「良いのです。この娘が無断で社に入ったのが悪い。全てはこの者の自業自得ですよ」 

「じごー、じとく」 

「そうです。だから、貴方様が気にすることではありません」 

「そっかあ、わかった!」 

 由縁は薄ぼんやりとした笑みを浮かべ、気の抜けた返事をした。他意はないとはいえ自分が触れたせいで苦しんでいる者がいるのになんとも思わないのか。いや、その事実すら今の由縁には把握できていないのかもしれない。見た目は優しい姉にそっくりだというのに、あまりの変貌ぶりに胸の奥がひどく痛んだ。 

「御使い様・・・・・・姉さまに何をしたの」 

 かすれた楓の問いかけに、白いカラスはじろりと視線を向ける。 

「何をした、とは」 

「とぼけないで。姉さまがこうなってしまったのは、オヤヒロ様のせいでしょう? ねえ、何をしたの。オヤヒロ様はどこにいっちゃったのよ」 

「・・・・・・お前は、なにも知らないのか」 

 真っ白なカラスが、首を何度も動かしながらまじまじと楓を見つめてきた。琥珀色の獰猛な瞳にはどこか人間らしい、あえて言うならば哀れみの混じった静かな感情が燃えているようにも思えた。 

「娘よ。お前はさきほど主がどこにいるのかと聞いたな。お前たちの話すオヤヒロ様なら、先程からずっとここにおられるぞ?」 

「え」 

 白いカラスは悠然と翼を広げ、真っ白な髪の少女に向けて恭しく一礼をする。少女の方はカラスの所作に、首をかしげて眺めていた。 

「この方はもはやお前の姉ではない。我が主であり、お前たちの崇めるオヤヒロ様だ」

「――――」 

 息をのんだ楓に、御使いは容赦なく言葉を浴びせてくる。低く重くのしかかるような声色は、確かな怒りを孕んでいた。 

「娘よ、お前の姉は何故この社に来たのだと思う?」 

「そ、んなの、知らない。私、具合が悪くて寝てたから」 

「お前の姉は主の中に溜まった疫を封じ込めるため・・・・・・主への供物として身を捧げるためにやってきたのだ」 

 息を飲んだ楓に御使いのカラスは畳みかけるように言葉を投げかけた。

「主は人間たちから疫をもらいつづけ、その膨大な量の疫によって自我を失いかけていた。事実、抑えていたはずの疫がもれはじめ、村中に甚大な被害をもたらした」 

 御使いの言葉に、楓はようやく甘ったるい匂いの正体に気がついた。昨年の秋頃、この地一帯を苦しめた病に。姉とともに村から消えていった、あの甘い芳香を。

「それが、あの流行り病?」 

「そうだ、それを食い止めるためには生贄となる人間と同化し、疫の力を封じ込める必要があった。そしてその贄役として、お前の姉が選ばれたのだ」 

「嘘、そんなこと」 

「無論、最初は主も嫌がった。心優しい主は最後まで自身でどうにかしようとなさったのだ。だがやがて疫の侵食が進んで疫すべてが村中に溢れることを悟ると、やむなく娘の身体と同化する道を選んだのだ・・・・・・その結果がこれだ」 

「あう?」 

 カラスが振り向いた先には、真っ白な髪の少女が目をぱちぱちと瞬かせていた。そこには楓たちの話についていけず、今どうして自分が見つめられているかもわからないほど幼い姉の姿があった。 

「疫を娘の身体に封じ、どうにか流行病も収めることが出来た。だが、同化した反動で互いの記憶を失ってしまったのだ。今の主はまるで自我を持ったばかりの幼子のようだ。言葉も拙く、以前の記憶もほとんどない。そのうえ触れた生き物全てに疫をうつす祟り神となってしまった。これでは疫をもらい受けるどころか、逆に村人に疫を振りまいてしまうだろう。今のお前のようにな」 

「そんな・・・・・・じゃあ、じゃあ姉さまは」 

 ふう、とカラスのくちばしから、ため息が漏れる音が聞こえた。 

「ここにおられるはお前の姉の抜け殻だ。もうどこにもいないのだ。お前の姉は神として、これから長い時を生き続けることになる。たとえお前が死んでしまっても、疫病神として人々から忌み嫌われて生きていくしかないのだ。まったく人間は愚かなものだな。救いを求め、依存しすぎた先で害を与える存在を作り出すとは」 

「ひどい・・・・・・っひ!」 

「ひどい? お前がそれをいうのか人間め。元々はお前たちが持ち出してきた疫ではないか。いや、それを言うなら主を崇め始めたところからお前たちは間違っていたのだ。我々はただの土地神としてこの地で平穏に過ごしていた。はるか昔に村人を助けたのも主の気まぐれだ。それを救いの神だのなんだのと勝手に崇めたのはお前たちの方だろうが!」 

 楓の口から何気なくこぼれた一言に、カラスは何よりも早く反応した。一瞬の間に楓との間をつめ、乳白色のくちばしを押し付けるようにしながら眼前につめよる。 

「あ、う」 

「挙句には主が祟り神になりかけていると知るや、娘を贄に疫を無理やり抑えこませた。今まで散々我らにすがり頼ってきたにもかかわらずな! もはやお前たちなど人ではない。卑しくも醜いお前たちこそ、とんだ疫病神ではないか!」 

 御使いの怒号は低く蠢き、まるで落雷のように楓の心臓に突き刺さった。御使いの言うとおり、疫は元々人間たちの不浄によって生み出されたものであり、オヤヒロ様本人から生まれたものではない。それを見てみるふりをして神様になすりつけようなど、自分たち人間はなんと傲慢な生き物だろう。 

 それでも、この事実は楓にとって信じがたいものであった。 

 今まで世話をしてくれた父が、村人が、こんなものを隠していたなんて。

残された右目の視界が揺らいでいく。 

「センちゃん、おおきなこえ、メッ、だよ?」 

 白いカラスの隣に座った姉が床を軽く叩いて咎める。会話の意味はわからずとも荒げた声の調子はわかるのだろう。途端に御使いは先ほどの剣幕が嘘のように身を引き締め、自分の主に対して頭(こうべ)をたれた。 

「申し訳ありません、主よ。話はもう終わりますので・・・・・・そういうことだ。もうお前が求めていた姉はもういない。さっさと村に帰るのだな」 

「う、あ」 

「我らにかまうな・・・・・・どうか主とともに静かに過ごさせてくれ」 

 懇願するかのような御使いの言葉に、とうとうこらえきれなかった感情が爆発した。 

「う、うああああああああああああああ!! 

 楓は涙をこらえながら、楼門へむけて走り出した。左頬はまだ鈍い痛みが続き、目を開けることもできない。何度も転びそうになりながらも、楓は走り続けた。止まってしまえば動けなくなってしまうだろう。このこらえきれない感情を抱えたまま立ち止まりたくはなかった。 

 楓の味わった痛みは疫によって付けられた傷だけではない。唐突に告げられた肉親との別れは、楓にとって何よりも深い傷跡をつけた。 

 山中を駆け下りる楓の泣き声は、あの遠い夏に鳴くセミのように林の中に物悲しく響き続けた。

 

                    *

 

  村に帰った楓を出迎えたのは、村人たちの怯えた表情だった。

 翌朝、石段の途中で倒れていた楓を村人の一人が発見した。いなくなった楓を心配し、村人総出で探していたらしい。息があることに安堵し、村人は楓を起こそうと肩に手をかけた。

 だが顔の左半分がひどくただれているのを見ると、悲鳴を上げて逃げてしまったそうだ。不審に思った他の村人も楓の顔を見て、祟りだなんだと一様に怯え始めた。それがオヤヒロ様のせいであることを知ると、父はすぐさま都から高名な神主を呼び、オヤヒロ様を神社から出ないよう神社の門と壁に封印を施した。美しい朱色の壁一面に無数のお札が張り巡らされ、門には子ども一人飲み込んだかのようなしめ縄がかけられる。その様子を眺めながら、楓は静かに涙を流した。

 それ以来、楓はまるで腫れ物に触れるかのように扱われた。疫をもらったかわいそうな子、触ったら自分たちも祟られる。そんな噂話が立つようにもなり、次第に人々から隠れるように過ごすことが増えていた。

 また一つ季節が巡った今も、楓は部屋の中に閉じこもったままだ。格子戸から伸びる夕焼けは、寝そべった楓の身体を惨めに照らし出した。ざらついた畳の感触が楓の頬を何度も撫ぜた。指先で弄ぶ髪はただれた左顔を隠すために伸ばされ、畳の上を四方に這うように広がっている。丸みを帯びていた手のひらはいつからか膨らみが消え、長くほっそりとしたものへと成長していた。

 ただ一つ変わらないのは、楓の左顔だ。

 楓の顔は元に戻ることはなく、醜くただれたままになってしまった。赤くなっていた皮膚は炭のように黒く染まり、ものを咀嚼するたびに口元が不気味に歪む。まぶたの皮膚はすっかり固まって、楓の左目が開くことは二度となくなった。

「・・・・・・」

 楓は残された右目で、じっと手のひらを見つめた。その手に握っているのは姉に渡されたべっ甲の櫛だ。夕日に照らされて光沢を放つそれはいくつか歯が欠けてしまっている、神社に忍び込んだあの日、楓が疫を受けて倒れた時に壊れてしまったのだ。無事な歯にも数ヶ所亀裂が入っており、髪をとかせばまた一つ二つと歯がかけてしまうだろう。それでも楓は、その櫛を手放すことができなかった。

 この櫛もまた、あの夜が夢ではなかったと証明するものだったからだ。

「姉さま、ごめんなさい」

 楓の口から、これまで何度も繰り返した言葉がこぼれ落ちた。

 流れていく時間の中で考えるのはやはり姉のことだ。由縁は皆を助けるために自分の身を犠牲にした。けれど村人たちはそんな姉の存在を恐れ続けている。その上すべてを失い赤子のようになった彼女は、訳も分からぬままにあの神社へ幽閉されているのだ。

(御使い様は話していた、たとえ私が死んでしまっても神である彼らはずっと生き続けるって。でももし姉さまが生きていたら、そんな自分を望むのかな)

 たとえ由縁が神様になろうとも、体は間違いなく由縁のものだ。ということは、姉もまた、神様の一部となって生き続けることになる。父も自分も、誰も自分を知る人がいない世界。そんな世界を生き続けることは、はたして姉にとって幸せなことなのだろうか。元人間であった姉には耐え難いものではないのだろうか。そんな苦しみを自分の知らないところでずっと味わうことになるのは、あまりにも酷い話ではないだろうか。

(なら、どうすればいい? どうすれば姉さまを助けてあげられるの)

 楓は無力な自分に歯をくいしばった。

 そんなときに思い出したのは、昔に聞いた姉の言葉だった。

『・・・・・・物語はね、親から子へ引き継がれ、永遠に伝えられてゆくものなの。お話を伝えた人は死んでしまっても、その想いは誰かの心の中で、ずっと生き続ける。今もオヤヒロ様がここにいらっしゃるのも、ご先祖様が感謝の気持ちを忘れずに私たちの代まで伝えてくださったからよ』

 

『私たちが忘れない限り、神様はずっとここにいらっしゃるわ』

 

「忘れない限り・・・・・・」

 楓は胸元に手を当てて拳を握った。鼓動を立てるのは自身の心臓か、それとも姉から受け継いだ物語か。手のひらを叩く音に意識を集中させながら、楓はゆっくりと片目を伏せる。

(誰かが忘れない限り、神様はずっと生き続ける。なら、もし誰からも忘れられてしまえば、神様は死ぬことができるのかな)

 顔を上げれば格子戸の隙間からは変わらず陽が差し込み、肌寒い風を室内へと運んでくる。わずかに覗いた空は今までと変わらず青く透明で、薄暗い部屋にこもった醜い頬を照らした。

 格子戸の向こうには相変わらずオヤヒロ様の神社が見える。てらてらと瞬くそれはきっと、あの神社の瓦だ。あの日と同じように、今も姉はあの場所にいるのだろう。そう思うだけで楓の小さな鼓動がざわめくのを感じた。

 母から姉へ、姉から自身へ受け継いだ物語がこの胸の中で脈打っている。その息の根を止めることは姉の思いへの冒涜かもしれないが、それでももうかまわない。

 おそらくこれは一種の賭けだ。それも、とても長い時間と労力を要する。

 けれどやってみる価値はあるかもしれない。

 由縁はもうどこにもいないのだ。父と村人と神様の手によって姉は殺された。

 ならも、う一度自分が殺したところで、何も変わりはしないだろう。

「姉さま、待ってて。必ず私が姉さまを自由にしてみせるから」

 楓は顔をあげると、祈るように両手を重ね合わせた。

(ごめんなさい、姉さま)

 楓の口元がゆっくりと弧を描く。

 醜く歪んだ頬に、一筋の雫が流れた。




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2014,09,07