十六話
久しぶりに登る山道は思っていたよりも過酷なものだった。 外遊びもしていなかったせいで獣道を通る体力がなく、途中から階段を使わなくてはならなかった。そのせいで以前よりも時間がかかり、神社にたどり着いたのは夜になってからだった。 「やっと、着いた」 楓は神社の目の前まで足を進めると、そのまま力なく座り込んだ。とたんに秋口の寒さが一気に押し寄せ、楓の身体を冷たい夜風が襲う。すぐに戻るつもりでいたので当然寒さに対する準備などしておらず、楓の手足はずいぶんと冷えてしまった。三つ編みはすでにほどけかかっており、汗が引いてきてもなかなか立ち上がることができずにいる。 「オヤヒロ様のお社・・・・・・御使い様はこの中に入っていった。ここに姉さまがいるのかな?」 楓はポツリとつぶやき、境内の方へ目を向けた。重くのしかかる暗闇の恐怖に、体から冷や汗が滲んでくる。夜の境内は恐ろしい程静かで、楓の息遣いでさえうるさく聞こえるくらいだ。わずかな月明かりが照らすのは石畳と灯篭くらいなものだから、幼い楓の目には散らばる落ち葉さえ不気味に見えてしまう。 それでも楓は、境内に背を向けて前を向いた。目の前にはオヤヒロ様の御神体が安置されている社の扉がある。手入れされていないからか、くぼみのところに少しほこりがたまっていた。 楓は埃かぶった扉に手をかけると、ゆっくりと力をこめた。 「ん、くっ、げほ、ごほ!」 立て付けが悪い木の扉は不気味にきしみながらも楓を招き入れた。思い切り開いた勢いで扉のほこりが宙を舞い、楓は思い切りむせてしまう。涙目になりながらかぶったほこりを払うと、中へと足を進めた。 社の中は想像していたよりも殺風景だった。入口からまっすぐ突き当たったところに板を組み合わせただけの簡素な台が設置されており、上には青銅色の鏡と数本のロウソク、それと小さな香炉がいくつか台の上に置かれている。仮にも神様を祭っているというのに、楓の目にはずいぶんと質素に思えた。 ロウソクはついておらず、格子戸から漏れる月明かりだけが部屋の中を照らしていた。 「オヤヒロ様、姉さま! ・・・・・・誰もいないの?」 薄暗い部屋の中、楓は必死に声をかける。だが応える声もなく、ただ夜の静けさだけが社の中に満ちているばかりだった。 (どうしよう) 楓は周囲に目を配りながらため息をついた。これから戻ろうにも山を下るほどの体力は残っていないし、戻ったところで怒られるのは目に見えている。今後の楓に対する監視の目はずいぶんと厳しくなるだろう。 それならもう少しこの場にとどまって姉の手がかりを掴みたい。そう思った楓がもう一歩足を踏み出したとき、ふと、部屋の空気に違和感を感じた。 「これ、なんの匂い?」 独特の香りが鼻腔をくすぐる。熟れすぎた果実のようなひどく甘ったるい匂いだ。 「どこかで嗅いだことがあるような・・・・・・もしかして線香の香りかな? でもこんなに強い香りだったっけ」 楓はなるべく慎重に足を動かしながら、台の前に歩み寄った。薄暗いせいでよく見えないが、ロウソクや香炉が使われていた形跡がなく、香炉に至っては灰すら溜まっていなかった。だが楓が台の方に近づくたび、香りは一層強くなる。 ふと目に止まったのは、台の上に置かれた鏡だった。青銅でできたそれはちょうど大人の手のひらくらいの大きさで、いびつな形をした木の枠の中にはめ込まれている。周りの枠には美しい絹の糸で編まれた結紐が飾られており、手入れがされていない社の中で唯一きれいなままだった。丹念に磨かれた丸い鏡からは、写りこんだ楓の顔がこちらを見つめている。 「もしかしてこの匂い、この鏡の中から出てきてるの?」 楓が顔を近づけると、鏡から確かに甘い匂いを感じた。間違いない、この香りは確かにこの鏡から出てきているようだ。 「やっぱり! この鏡って、たしかオヤヒロ様の御神体だよね。どうしてこんな匂いがするんだろう」 おそるおそる鏡に向けて指を伸ばす。 その指が鏡に触れる瞬間、鏡の中の楓が唐突に口を開いた。 『あなた、だあれ?』 「・・・・・・え?」 楓は思わず声を上げた。 声は楓の口からではなく鏡の中から聞こえてきたのだ。 まさかそんなはずはあるまいと思ったとき、鏡の中の楓が大きく微笑んだ。 「っ、あ」 小さな悲鳴がこぼれた瞬間に鏡の中の楓がどんどん近づいてきた。薄ぼんやりとしていた輪郭は徐々にはっきりとした形を持って勢いよく飛び出してくる。熟れすぎた果実のような香りが社の空気を一気に満たしていった。 「・・・・・・っ!?」 月明かりよりもまばゆい光が室内を照らしていく。突然の光に目がくらみ、楓は思わず目をつぶった。閉ざした視界のすみで何かが床の上に降り立った。 「あなたはだあれ?」 目を開けると、暗闇の中に一人の少女が佇んでいた。肩口まで伸びた白銀の髪が夜風に広がる。黒檀色に染められた小袖とすみれ色の袴には、それぞれ金糸で蝶の刺繍が描かれていた。足の先には赤い駒下駄を履いており、一歩足を動かすたびに軽快な音を奏でている。黄金色に輝く大きな瞳はどこかぼんやりとした目つきで微笑みを浮かべていた。少女の全身からはほのかに光が放たれており、彼女が人間ではないことはひと目でわかった。 だが、何より楓の目を引いたのはその顔立ちだ。 「姉さま・・・・・・まさか、姉さま、なの?」 楓は信じられない気持ちでいっぱいになった。 目の前の少女は、由縁と瓜二つの顔立ちをしていたのだ。艶やかな黒髪は真っ白に変色し、丸く大きな瞳は黄金色になって暗闇の中に浮かび上がっている。それでも楓とよく似た風貌の彼女は、間違いなく由縁だった。 しかし目の前の少女は理解できないといった様子で首をかしげた。 「ねえさま? だあれそれ。わたしは、ゆえ、だよ」 「そんな、姉さま。私だよ、楓だよ! 姉さまに会いに来たんだよ」 楓はすがるように姉に詰め寄った。 けれど彼女は首をかしげるばかりだ。姉と同じ名前を語っているにもかかわらず楓のことは覚えていないらしい。 「あいにきた?」 「姉さま、私がわからないの?」 「ん〜、わかんない」 真っ白な髪の姉は、元気よく答えた。どれだけ楓が問いただそうとも、結局楓のことを思い出すことはなかった。 (姉さま、なんで、いったいどうしちゃったの? ああ、こんなことならあの時、姉さまを引き止めていればよかった・・・・・・) 楓はとうとう頭を抱えて膝から崩れ落ちてしまった。山道を歩いてきた疲れと突然の展開に、幼い体が耐え切れなくなったのだ。楓の視界がどんどん色を失っていく。 その姿を見て何を思ったのか、真っ白な髪の少女が楓に近づいてきた。駒下駄の音色が軽快に床を蹴り、楓のすぐ目の前で止まる。額に手を当てた楓に向けて少女は舌足らずな口調で声をかけてきた。 「あたま、いたいの?」 「え?」 「わたしがなおしてあげる」 頭を上げた楓の左頬に、由縁の右手が触れる。 ひんやりとした指の心地を感じた瞬間、楓の頬に激痛が走った。 「―――――――あああああああああああああああああああああああ!!」 |