二十三話
「――――――」
低い声色がユエの耳元をかすめる。 遠い昔に聞いたような懐かしい声色に、ユエは思わず目を開けた。 そこにいたのは。
「・・・・・・だれ?」 黄金色の瞳を何度も瞬かせ、ユエは不思議そうに小首をかしげる。 彼女の目の前、頭二つ分ほどの高さに、一人の青年の姿が浮かんでいた。 夜明けの空のような深い藍色の直垂を身につけており、その表面には薄い光沢が施されている。裾には錦糸で刺繍された蓮の花が彩られており、一目で上質なものだとわかった。背中ほどまで伸びた白銀の髪は右耳の下あたりで一つ縛りにされており、深い朱色の結紐はどこかユエの髪結いの紐と同じ色合いのものだった。 男は何も答えずまぶたを伏せると、やや細めの腕を宙に振るう。その動きに合わせ、霧散していた光がユエの下へ戻っていった。まばたきの間に光は消え、霞んでいたユエの身体はすっかり元の姿へと戻っていた。 「あれ? どうして、私、鏡を割ったのに」 「やっぱりわからないよね。君も僕も、あの頃とは随分と変わっちゃったから」 少しだけ残念そうに微笑えみながら、男は自身の髪の毛をつまんでみせた。 同じなのは結い紐だけではない。髪の色もそうだが、その瞳もまたユエと同じ黄金色をしていたのだ。その瞳がユエをまっすぐ見つめている。 その眼差しには見覚えがあった。 「嘘、そんな」
ユエは口元に手を当て、なにかをこらえるような表情を浮かべた。押さえ込んだ指先がかすかに震えている。 黄金色の瞳は大きく見開かれ、目の前の男を見つめ返していた。 その瞳に答えるように男は微笑みかける。 少女を騙すためではない、心からの笑みを浮かべていた。 「嘘じゃないよ。僕は本間善光、一度死んで、色々あって、またこんな姿で生きている。それでももう一度君と会えるなんて思っていなかった・・・・・・三つ編み、上手に結えるようになったね」 「あ、あ」 思い出の中で、夢で見るだけたった男の姿がこんなに近くにある。あれほど焦がれた彼の顔が、また目の前にある。 言葉を発することさえできない彼女を善光は優しく抱きしめた。 「僕の嘘を、ずっと信じてくれてありがとう」 「・・・・・・っ!!」 先程までとは違う涙が、黄金色の瞳から溢れてくる。華奢な手のひらは男の背中に腕を回し、すがりつくように抱き返した。最初はかすかな嗚咽だったそれは、男がユエの体を抱き寄せ、頭を撫ぜた途端に崩壊した。 数百年の間、彼女の心を止めていたものがゆっくりと頬を流れ落ちていく。 男はその涙すらも愛おしいと言うように、彼女が泣き止むまでずっと見守っていた。 * 彼女の涙が枯れた頃、格子戸の向こうではすっかり嵐も止んでいた。空全体を覆っていた厚い雲は風に流され、雲一つない快晴へと変わっている。森に隠れていた鳥たちも姿を現し、軽快な鳴き声を響かせていた。 「それにしても、どうして善光がここにいるの? それにその格好・・・・・・善光は死んじゃったんじゃなかったの?」 ようやく落ち着いたユエは、泣きはらした目をこすりながら男に尋ねた。 男は黄金色の瞳を横にずらし、口元をもごもごと動かしている。 「あ〜うん、気になるよね。話せば長くなるんだけど」 「そこからは私が説明しますよ」 「うわっ、ちょっと梨恵、痛っ!」 天野が声をかけると、ユエは飛び跳ねるように後ずさった。善光の方ばかりに気がいってしまい、天野の存在を完全に忘れていたらしい。 当の天野はそんなユエの様子は気にせず、持っていた本で思い切り善光の頭を叩いた。 「まったくもう、いくら待ってても一向に出てこないんだから。このいくじなしの馬鹿主! こっちがどれだけヒヤヒヤしたと思ってるの!?」
「いたた、ごめんって、もうやめてったら!」 分厚いハードカバーの角を使い、天野が的確に善光の頭を叩く。逃げようにもユエが着物の袖を掴んでいるためそれもかなわない。天野はこれ幸いとばかりに腕を振るい、主と慕うはずの相手を本で叩きつけた。 「えっと・・・・・・」 親しそうな二人に、ユエは戸惑うような表情を浮かべる。 それに気づいた天野がようやく腕を止める。 「あ、ごめんなさい。まず彼がどうしてこんな姿になっているのか、ですね」 頭をなぜる善光の目元にはうっすらと涙がうかんでいた。 天野はわざとらしく咳払いをすると、ずれたメガネを整えながら話し始めた。 「数百年前、本間善光が貴方から疫を貰い受けました。そこまではわかりますね」 ユエは静かにうなずいた。 「その時、実はもう一つ、彼は貴方から貰い受けたものがあるんです」 再びページをめくる音が社の中に響いた。天野が読み上げたのは、彼女が『蛇足』といった、善光がユエの元を去った後の話だ。 善光がユエから貰い受けたもう一つのもの。それは前の土地神・オヤヒロ様が持っていた、疫を体内に取り込み浄化する力だった。 ユエの頃には疫の量が多すぎてほとんど効果はなかったが、それでも土地神の力は彼女の体に残っていたらしい。その力が大量の疫とともにわずかに善光にも入っていたのだ。 旅の途中でそれに気づいた善光は、ユエの物語を書く傍らに旅先の病人から疫を貰い受け、病気を治していた。本人はユエの存在を世に示すために使っていたが、人々は力を使う本人、すなわち善光を崇め、敬うようになった。 ―――それこそ、本当の神様のように。 「僕にとっては不本意だったけどね」 善光はため息をつきながら髪をかきあげる。かつてユエがつけた右腕と頬の黒ずみは影も形もなくなっていた。神格化した彼には生前の疫の影響は残らなかったようだ。 「その信仰は彼が亡くなった後も続き、ついには神社が建立するまでになった・・・・・・それが私、天野梨絵が生まれた神社なんです。神主の娘として生まれた私は幼い頃に彼と出会い、こうしてユエさんと出会うに至った、というわけですね」 「へ、へえ・・・・・・?」 ユエは何度も目を瞬かせながら、あいまいな返事をした。彼女にとっては半ば、いや、ほとんど再会を諦めていた人間が同族になって現れたのだ。困惑するのも無理はない。 「けれど、良いことばかりではありませんでした」 天野はずれたメガネをかけ直しながらそう言葉を続けた。茶色がかった黒い瞳に影が宿る。 「彼は神様として目覚めた当時、人間だった頃の記憶をほとんど失っていました。その記憶は少しずつ取り戻したのですが、完全に戻る頃には随分と長い時間が経っていて・・・・・・彼がようやく貴方を思いだした時には、ユエさんのことを知る人間はいなくなっていました。そして彼自身も、神社の場所はもちろん貴方の名前も忘れてしまっていたんです」 たしかにユエのように、迎えにこないとわかっている相手を待ちつづけるのは辛いことだろう。それが一年、十年、百年と続けばなおさらだ。 だが善光もまた、それと同じ時間を生き続けてきたのだ。あれほど会いたいと願った相手が今も生き続けているとわかっていながら会うことができない。 いや、会えるはずもなかった。ユエは善光のことを忘れ、新しい神様として、新しい関係を築き上げている。それを邪魔するようなことは絶対にあってはならないのだ。 ましてやそれを強く願い、一生を捧げたのもまた、善光自身であったのだから。 「私が初めて会った時の彼は抜け殻のようでした。周囲の人間など目もくれず、ただひたすら物語を書いていたんです。名前も忘れてしまった、貴方の物語を。もう誰にも読ませてあげられないのに」 「・・・・・・」
「だから私は、彼の書いたお話を編纂し、ひとつの物語としてまとめたのがこの本です。貴方の居場所を知っている誰かがこの物語を読んでくれると信じて」 天野は持っていた本をユエの前に差し出す。 表紙には黒地に乳白色の蓮の花が描かれているが、よくよく見れば善光の衣装に刺繍されたものによく似ている。 そして、その端に小さく描かれた金色の蝶も。 「あ」 「案外やってみるものですね」 口を開けたユエの表情に、天野はしたり顔で笑みを浮かべた。 善光もまた、頭を掻きながら、困ったような笑みを浮かべた。 その懐から取り出したのは、さきほど梨絵がユエに向かって投げていた細い棒状のものだった。持ち手には黒い染みの跡が無数に残っており、片方の棒の先が妙に毛羽立っている。 「僕が生前使っていた筆だ。さすがもう使えないけど、一応僕の御神体の一つかな。ちゃんと残っていてよかったよ。そのおかげで消えかかった君を助けることができたからね」 そう言って善光は筆をしまい、改めてユエの前にまっすぐ向き直った。頭一つ分の高さからユエの瞳を見つめ、丁寧に編まれた三つ編みを撫でる。 「改めて、遅くなってごめんね? 君を迎えにきたよ」 口をつぐんだままのユエに向けて、手を伸ばす。 「もう君と別れた時の僕じゃないけど、一緒に来てくれる?」 「・・・・・・馬鹿!」 ユエは差し出された手を振り払い、自分から善光の体に抱きついた。 存在を確かめるように背中に回した手を強く握りながら、満面の笑みを男に向けた。 「おかえりなさい、善光」 「ただいま、ユエ」
善光は最愛の彼女の顔に唇を寄せる。それに答えるユエもまた、まんざらではない表情を浮かべた。 少女の幸せのためにこの地を立ち去った青年と、その青年を待ち続けた少女。 その願いは歴史の中に埋もれ、激流に惑わされながらも、ようやく実を結ぶこととなった。 「お二人共、雨は止んだみたいですよ。また降り出さないうちに出発してしまいましょう」 いつの間に席を外していたのだろう。社の入口から天野が顔を出す。開かれた扉の向こうには、青く晴れ渡った空の一変が見えた。 「・・・・・・」
「ほら、ユエ」
背後から善光に促され、ユエはゆっくりと歩みを進めた。駒下駄の音色が淡い光の方へと誘うように軽快に音を鳴らす。 「う、わあ」 久しぶりに出た境内の風景に、ユエは目を見張った。 境内をぐるりと囲っていた朱色の壁はもう何十年も前になくなっていた。ぎしぎしと不気味な音を奏でるしめ縄も、それを飾っていた楼門も、今はわずかな木片と瓦のかけらを残すばかりだ。 草木のしげる境内には枯れた古池の代わりに無数の水溜りができており、赤子の手のひらのような小さな紅葉が浮かんでいた。ユエが一歩足を踏み入れるたびに波紋が大きく揺らめく。 社の瓦の屋根は一部が崩れ落ち、柱の重心はわずかにかしいでいた。欠けた瓦の先から点々と雨粒がこぼれ落ちる。社の隅に隠れるように立っていたあの書物庫も、今ではいくつかの柱の破片と屋根の残骸がわずかに残るだけになっていた。中に収められた書物の大半は風化し、屋根の下敷きとなっている。天野たちの迎えがもう少し遅ければ、ユエの住んでいた社も同じように押しつぶれていただろう。苔むした瓦の破片の上で、一匹の雨がえるが喉を震わせ鳴いていた。 先程の雨のせいか、それともこれが最後の別れだからか。 見慣れたはずのその景色が、ユエには今まで見た中でひときわ輝いて見えた。 天野はかつて楼門があった場所に立ち、ユエが来るのを待っていた。すっと伸びた姿勢の佇まいは景色によく溶け込んでいた。 ユエがようやく天野の元まで来ると、眼下に続く苔むした石の階段が見えた。岩石を削ることなくそのまま使った石畳は多少舗装の跡が見えるものの、善光たちが生きていた時代とほとんど変わりなくそこに在った。丸みを帯びた石は雨に濡れ、てらてらと輝いている。 「さあ、行きましょう」 そう言うと、天野はユエに手を差し出した。善光よりも細く華奢な手のひらが、ユエの手に触れようとする。 「っ!」 「どうしましたか?」
差し出された手に思わず一歩後ろにのけぞり、その拍子に水たまりを踏んでしまう。朱色の駒下駄に泥がはねた。 天野が首をかしげ、ユエのほうを見つめた。 今はとうになくなった、彼女の疫の力。かつてのユエは疫病神として一人の少女の顔と、二人の男の手と腕をただれさせた。その時の肉の焼ける匂いが、苦痛に歪む顔が、ユエの頭の中で鮮明に蘇る。 ユエは自身の手をじっと見つめた。天野もユエも、手袋をはめていない。互いにまっさらな、ぬくもりさえ感じられるような素の肌だ。もしユエに疫の力が残っていたら、伸ばされた白い手はすぐにただれてしまうだろう。 「あ、う」 人に触れるということを極端に避けてきたユエは天野の好意にすがることができず、その場から動けなくなってしまった。 「大丈夫だよ、ユエ」
血の気を失うユエに、諭すような口調で善光が話しかけてくる。その優しい声色は、ユエの耳元のすぐ近くで聞こえてきた。 「善光?」 振り向くと、善光がユエのすぐ後ろで宙に浮かんでいた。たなびく白髪が天露に照らされ瞬いてみえる。 「君はもう疫病神じゃないんだ、ほら」 「!」 善光がユエの右手首を思いきり掴む。過去の情景が一瞬だけよみがえり、体がこわばるのを感じた。もちろん彼の腕に疫の影は浮かばない。 「ね?」 「あ・・・・・・」
またたきの間に善光は飛び去り、天野のすぐとなりに寄り添った。 「さあ、一緒にいこう」 「ユエさん」 天野が再びユエに向けて手を差し伸べる。子を待つ母のように穏やかな表情が、ユエの不安を少しだけ和らげた。 ユエは所在無さげに互いの手を見比べたあと、さらに半歩ほど天野のそばに近づく。 「さっきはひどいことを言ってごめんなさい」 ユエが静かに頭を下げる。片方の三つ編みが動きに合わせ、さらりと揺れる。視界の端にうつるそれが、こわばるユエの心に少しだけ勇気を与えた。 目を瞬かせる天野の手のひらに、自分の手をそっと重ねる。 「私を、善光たちの神社に連れていって」 言葉とともに、ユエは精一杯の笑みを浮かべてみせた。 触れた手は無論、白く暖かなままだった。 一瞬だけあっけにとられていた天野は、途端に破顔し、重ねられた手を握り返した。 暖かで、力強いぬくもりに、ユエはまた少しだけ泣きそうになった。 かつて疫病神と呼ばれた少女はたどたどしい足取りで石畳をおりる。 それをささえる天野も、また二人を見守る善光も、ともに同じ道を歩んだ。 それはこれから始まる彼らの新しい関係の始まりでもあった。 やがてその姿も見えなくなるころ。 一羽の黒いカラスが、主のいなくなった神社から飛び去った。 それは山の景色を惜しむようにゆるりと旋回したあと、空の向こうへと消えていった。 |