二十二話


雨足の音は絶えず吹き付け、格子戸のすき間から吹き込んでくる。

 天野の細い指先が静かに表紙を閉じた。黒檀色の表紙が雷光に照らされ、描かれた蓮の花が暗闇に浮かびあがっている。

「これが私の知る物語の顛末です。まだ話は続きますが・・・・・・蛇足でしょうね。貴方にとっては」

 やや震え気味の声は緊張か、恐怖か、それともまた別の感情か。

 天野が顔を上げると、格子戸から再び雷が瞬いた。一拍置いて訪れる轟音に、ささくれだった床の板がその身を震わせる。びりびりと身を焦がす衝撃を天野は静かにやりすごした。

メガネのレンズが雷光に反射して何度も瞬く。轟音が尾を引いて空へ帰る頃、天野はやや挑発するような口調で声をかけた。

「隠れてもムダですよ、最初から見えていましたから。林を抜け、山道を登り、この社を訪れた時から・・・・・・たとえ鏡の中に身を隠していても」

 その瞬間、社の空気が一変した。

 天野と向き合う位置に飾られた、年代物の御鏡が突如として光を放つ。

 天井から部屋全体に凄まじい圧力がかかり、闇を切り裂くような轟音が静寂を裂く。スーツをまとった細い体はささくれだった床板の上へと押しつけられた。

「っ!」

 肺を押しつぶすような圧力はすぐに消え去った。楽になった体は新鮮な空気を欲して呼吸を繰り返す。

 天野はゆっくりと息を整えながらメガネの位置を直し、前を見据えた。乱れた髪のひと房が白い頬に張り付いている。

 その頬が、初めて笑みを浮かべた。

「やっと、出てきてくれましたね・・・・・・ユエさん」

 天野は安堵にも似た声色とともに目を細める。

 視線の先は、数歩先にある古い御鏡。

 その手前には一つの人影が浮かんでいた。

「・・・・・・」

 澄んだ水のようなかすかな香りが狭い室内に漂う。

 現れた人影は、妙齢の女性の姿をしていた。

 よく通った鼻筋に、息を飲むほどに白い肌。そして、それよりもはるかに色をなくした白銀の髪が腰あたりまで伸びている。まぶたの下から覗く瞳は黄金色に輝き、まるで二つの月が闇夜に浮かんでいるようだ。

 かつての彼女を知る人ならば、さぞ驚くことだろう。数百年の時を経た少女はすっかり大人びた姿に成長していた。丸かった頬は膨らみをなくし、袖口からのぞく手足はすらりと伸びて存在を主張している。その表情は固く、天野へ厳しい視線を向けている。長髪の端に結ばれた三つ編みだけが、彼女が物語のユエだということを証明していた。

 金色の蝶が刺繍された装束は、うっすらと透かしのかかった豪華なものに変わっており、髪と目の色も相まって彼女の神格性を高めている。その上に羽織った着物だけは元の色がわからないほど古い年代物だった。

「貴方のことを、ずっと探していました」

 天野は床に落ちていた本を手に取ると、彼女に向けてゆっくりと歩み寄った。うっすらとグロスを塗った唇が流暢な言葉を紡ぐ。

「お願いします、どうか私と一緒に来てください。楼門の封印もこの数百年の間に朽ち果て、疫の力も貴方の体には残っていないでしょう。今の貴方はこの社から自由に出ることができるんです、だから」

「善光は」

 天野が言葉を続けようとしたとき、ユエが口を開けた。暗闇の中でもまっすぐに響わたる、澄んだ声色だった。

「あの人は、死んだの?」

 天野はすぐに答えなかった。そんな彼女にユエは静かに背を向ける。

 向かった先は、自身の御神体である御鏡の棚だ。ユエはそれ以上自分から話すことはなく、鏡を持ち上げ、手のひらで軽くホコリをはらう。

 天野は置き去りにされた手を引き寄せ、所在無さげに視線を泳がせる。

「・・・・・・この物語の原型は数百年前に成立したものです。それを私が編纂し、一つの本にまとめました。おそらく、貴方が知っていることとほぼ差異はないでしょう」

 ユエは振り向かなかった。御鏡を高く持ち、自身の顔をのぞいている。薄ぼんやりと浮かんだ表情は、まっすぐ天野の方を見つめていた。

 鏡越しに答えを急かされた天野は、唇をかみしめ、言いよどみながらも言葉を返した。

「・・・・・この物語が成立した年、たしかに彼は、本間善光は亡くなりました。ですが」

「十人目」

「え?」

 振り向いたユエはひどく穏やかな表情をしていた。整った顔立ちは確かに笑みを浮かべているのに、その表情は天野をひどく不安にさせる。光り輝く黄金色から、まったく感情が読み取れないせいもあるかもしれない。

「ありがとう。その言葉をずっと待っていたの」

「ユエさん?」

 二つの月をまぶたに隠し、ユエは胸元に持った御鏡をそっと撫でた。先代のオヤヒロ様から伝えられた、彼女自身の寄り代でもある御鏡だ。

 ユエは大事そうにそれを抱き寄せたあと、御鏡をおもむろに床へと叩きつけた。

「ユエさん、何を!?

「・・・・・・っ!」

 床に当たった御鏡は無残に散らばり、割れた破片からはするどい光が飛び散った。その光は瞬く間に社の中を埋め尽くし、天野とユエのあいだに光の壁を作り上げる。

 遮られた先に立つユエの身体が、足元からもやがかかったようにかすれていくのが見えた。

 それでも穏やかな、どこか晴れやかな表情を浮かべ、ユエはその場に立ち尽くしていた。

「どうして・・・・・・その鏡を壊せば、自分が死んでしまうことぐらいわかっていたでしょう。なのになぜ」

 腕で目元を覆いながら、天野は必死に声をかけた。先ほどよりも強い、立っているのもやっとなほど強力な力が全身にのしかかってくる。

 実体を持ち得ない神様にとって、御神体は存在の要だ。信仰の不足と、その要である御神体を壊したことにより、ユエの命は終わりを迎えようとしている。それは天野にとってなんとしても避けたかった事だ。

 そんな天野の姿を眺めながら、ユエは静かな口調で語りだした。

「賭けを、していたの」

「賭け?」

 薄い唇からかすれた声が聞こえてくる。

「ある時、善光が死んだって言う人がこの神社に来たの。最初は信じたくなかったけど、見たこともない服装や言葉を話す人がこの場所を訪れることが増えてきて。私は、自分が気づかないうちに外の世界の時間が流れていることを知ったの」

「・・・・・・」

「善光はもう迎えにこない、それでも、私は信じていたかった。だから私も善光と同じように賭けをしたの。『もし私の前に善光の死を伝える人が十人現れたら、諦めよう』って・・・・・・最後は無理やり言わせちゃったけど」

「ユエさん、お願いだから聞いてください」

 ユエは静かに首をふった。丁寧に編みこまれた三つ編みが、波紋の中にかき消えていく。

「せっかく私を助けようとしてくれたのにごめんね。でも私が待ってたのは善光だから。私が・・・・・・善光、私、待ってたのに」

 ユエの表情は暗いものに変わっていく。かすれた声は嗚咽が混じり、二つの黄金色からは透明な涙がこぼれ落ちていった。

 長年彼女が抱えてきた思いとともに。

「絶対帰ってくるって、迎えにくるって、約束したのは、善光だけだもん。私ずっと待ってたのに、三つ編みも結えるようになって、文字だって読めるようになったのに、なのに・・・・・・!」

「ユエさん!」

「善光のバカ! 迎えに来ないなら、期待なんてさせないでよお・・・・・・っ!!

 大粒の涙が妙齢の顔立ちをとおり、波紋の中へと消えていく。

 何百年も昔、本間善光はユエを生かすため、彼女の物語を各地へ広める旅に出た。その成果と、彼女が村人たちに信仰を受けた結果、彼女は新たな土地神として生き続けることになった。傍目から見れば、彼の賭けは確かに成功していただろう。

 しかしその賭けには一つ、いや、二つほど誤算があった。

 一つ目は、ユエは永遠の命を望んではいなかったこと。

 もう一つは。

「私、善光のことが好きだった。センちゃんたちみたいな好きとは違う、もっと苦しい、胸が痛くなるような好きだったの。でも、その気持ちに気づいたときにはもう、善光はこの世にはいなかった」

「・・・・・・」 

 成長した姿とは裏腹にユエは幼子のように拙い言葉を繰り返す。

 本間善光は最後の別れに、彼女に小さな傷をつけた。トゲのようにささやかな傷は少女の胸の奥深くに突き刺さり、けっして抜けることはなかった。傷口はしだいに熱を帯び、痛みと苦しみを伴って全身を覆いつくす。切なさはいつしか恋へと変わり、揺れ動く感情が少女の時間を動かしたのだ。

 十二歳のままで止まっていた身体は心の成長に応えるように成熟していき、すっかり成熟した女性の姿へと変えてしまった。人の痛みも、優しさも知った彼女はもう疫病神ではない、自身で物事を考えられるような一人前の神様へと成長した。

 にもかかわらず、彼女はけっして幸福ではなかった。

 彼女の傷口を癒やせるたった一人の人間は、もうこの世にはいないのだから。

「だからもう、終わり。待つのも、ひとりでいるのも疲れちゃった」

 ユエの身体はもう腹部まで透けてきていた。彼女は腕を上げると、色あせた着物に頬をすり寄せた。それはかつて、怯える彼女に本間善光が与えた着物なのだろう。ボロボロの布地だけが彼女に確かな思い出と時間の風化を伝えていたのだ。

「最後に善光のことを思い出させてくれてありがとう。私、今日のこの日まで、善光の顔も、声も、名前も、何もかも思い出せなくなってたの。思い出の中の曖昧な影だけが私の善光だった。ねえ、」

 もし私みたいな神様でも人間と同じ極楽にいけるなら、そこで、善光に会えるかな?

 そう締めくくった彼女はゆっくりと眠るようにまぶたを閉じた。身体はすでに胸元まで消えかかっており、彼女が大切にしていた善光の着物もほとんど見えない。約束の一つでもある三つ編みも残りわずかになっていた。

「・・・・・・最後に聞かせてもらえませんか?」

 光の壁越しに天野が落ち着いた声色で呼びかける。メガネのレンズに光が反射し、表情をうかがうことはできない。ほどけかかった編み込みの髪が視界の端に揺れた。

「なに?」

 ユエが再び目を開けると、天野はその黄金色に向かって、凛とした声色を張り上げた。

「何百年も待たされた挙句、結局迎えにこなかった彼を、本間善光を、今でも好きですか?」

「・・・・・・」

 穏やかな表情がこわばった。

 粒子の向こう側で、何かをこらえるように唇がわななくのが見える。

 それから一拍おいて、ユエははっきりと答えた。

「好きだよ。じゃなきゃ何百年も待たない」

 凛とした声色と眼差しには、いっぺんの偽りも見えない。

「・・・・・・そうですか、分かりました」

 天野はそう呟くとひと呼吸置くようにため息を着く、そして。

「―――いつまでそうしてるつもり? この大馬鹿」

 端正な顔立ちに笑みを作りあげた。

「え?」

 先程までの口調とは一転し、天野は天井に向かって吐き捨てるようにつぶやいた。その口元は笑みと言うには力強く、大きくつり上げられている。ゆれる前髪からのぞいたこめかみには大きな青筋が浮かび上がっていた。

 怒っている、ユエは直感でそう思った。

「女にここまで言わせて、今更何おじけづいてんのよ」

 スーツの胸元から細長い棒のようなものを取り出す。それを握りつぶさんばかりに強く握ると、天野はまっすぐユエの方を見据えた。

「惚れた女が消えかかってんのよ。いい加減に出てきなさいよ、バカ主!!

 スーツの裾を翻し、大きく振りかぶる。

 天野は細長く尖ったそれをユエの元へとまっすぐに投げつけた。

「!」

 勢いよく飛んでいったそれは、立ちはだかる光の壁をいともたやすく砕いた。粉々に散らばる壁の破片をかいくぐり、棒状のそれはユエの下へとたどり着く。

 その瞬間、壊れた壁の破片が一斉に閃光を放った。

 雷光よりも鋭い眩さに、二人は思わず目をつむる。

「うわっ・・・・・・!」

 めまいを覚え、ユエは腕を前に掲げた。

 そのむき出しの白い肌に、誰かの手が触れる。

 

 

『待たせてごめんね』






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2014,10,20