11話
空高く登っていた太陽はすっかりビル群の向こうへ隠れてしまい、代わりにビル群からネオンの明かりが漏れ始めた。だが、そんな豆粒ほどの明かりでは遠く離れたこのマンションの一室まで照らしきることはできないだろう。 薄暗い部屋の中で、灰色猫は、いや、死神はポツンと佇んでいた。五月半ばといえど陽が落ちればまだまだ肌寒い。天然の毛皮を持っている猫に乗り移って正解だったと、冗談交じりに失笑した。 実体も、ましてやろくな感情もない自分が何を言っているのだろうか。 視界の先には今回のゲームの挑戦者、藤谷祐也がベットの上に仰向けで眠っていた。ゲームの回数が二ケタを超えた辺りから『ここに戻さなくていい。そのまま十二月十日から続けてやり直させてくれ』といわれてしまい、やることのなくなった死神は仕方なく現実世界で待機することになった。眠っている祐也の観察にも飽きてしまった死神の口からは、本日何度目かのあくびが漏れた。 『やれやれ、まったく退屈で死にそうだよ。・・・キミも、そうは思わないかい?』 そう尋ねる先はドアに飾られたコルクボード。ではなく、その近くに浮かんでいる人の影だった。半透明の身体をぷかぷかと浮かせながら、宙をただよっている。その存在はまさしく、祐也がゲームの中で必死に取り戻そうとしている人物だ。 『いくら自分のためとはいえ、こんなに待たされるのはさすがに寂しくなっちゃうよね、咲ちゃん?』 『・・・・・・』 人影、もとい篠原咲は答えない。青白い顔は生前とほぼ変わらないものの、まさに死人らしく生気のない顔立ちをしていた。彼女の生前を知る者が今の姿を見れば、その変わりようにさぞかし驚くことだろう。いや、きっと驚くこともないはずだ。 なぜなら彼女は、すでに死んでいるから。 『最初僕に近づいてきたとき、てっきり見える人なのかと思ってたよ。たまにいるんだよね、そう言う人。ま、結局君には気づかなかったみたいだけどね』 幽霊となった咲は、じっと祐也の方を見つめている。明かりもなく薄暗い室内でも祐也の姿はよく見えた。そう、痛々しいほどに。 変わり果てた恋人の姿を、咲はただじっと見つめていた。 『ゲームをこなした数は三桁は過ぎただろうね。もうすぐ彼の身体も限界だ。本当、祐也くんはすごいよ。こんなになってまで君を生き返らせようとがんばってるんだから』 愛の力は偉大だね、冗談交じりに死神はささやいた。ベットの上には相変わらず祐也が眠り続けている。ただしその姿は、始めの頃から変わり果ててしまった。 「・・・・・・」 半袖のシャツから伸びた皮膚はカラカラに乾いており、すっかり細くなってしまった腕には、骨が浮かび上がっていた。若々しかった顔の肌はすっかり潤いをなくし、まるで老人のように深いシワを刻んでいる。髪の毛の量はほとんど変わってはいないが、黒々としたものからすっかり年老いたそれになり、しわくちゃの肌に張り付いていた。メガネと服装がなければ、誰も裕也だとは思わないだろう。 『確かにゲームに対価は存在しない。だけどゲームで過ごした時間の分、身体にも同じだけ時間が流れるんだ。何百回とゲームを繰り返した君の身体はもう何十年も歳をとってしまった。きっともう長くはないだろうね』 死神は変わり果てた祐也の姿を眺めながら、届かない忠告をした。無論、今の彼は聞く耳を持たない。せめて途中で起きていれば身体の異変に気づけたかもしれないが、今となっては後の祭りだ。 『言ったでしょう?《キミの頑張りで運べる魂が増えるなら、多少運ぶまでの期間が長くなろうがボク達は願ったりかなったりなんだよ》って。運ぶ魂が一つや二つ増えようがかまわないんだ。問題は魂がこの世にとどまることだからね。だったら未練のある相手を巻き込んで連れてっちゃったほうが効率がいいんだよ』 『・・・・・・』 『ああもちろん約束通り、君が成功したら咲ちゃんは蘇らせてあげるつもりだよ?けど君の身体の時間はそのままだ。君はゲームの代償に絶望し、未練を残して先に死ぬ。そしたら今度は咲ちゃんがゲームに参加することになるかもしれないね』 『・・・・・・』 『騙すような真似しちゃってごめんね。でも、これも僕の仕事だからさ。それに元々生き返りたいっていうのは咲ちゃんの願いでもあったんだよ?だからこそ僕は君にこのゲームの参加を勧めることになったんだから』 ケラケラと笑う姿に、自分が悪いと思う要素は微塵も感じられない。いや、それにとっては正しく悪くはない。 なぜなら奴は死神であり、ゲームは所詮、死神の仕事だったからだ。 『キミはゲームの中で何度も彼女にプロポーズしてるけど、元々の咲ちゃんはプロポーズも受けてなければ指輪もない。ましてやキミと仲直りすることもできないまま死んじゃったんだから。むしろずるいのはキミの方だよねえ?やり直すたびに幸せになってるんだもの』 一通り話し終えたのか、死神はふう、と息を吐く。誰からも返答がないのが不満な様子だ。 『あ〜あ、そろそろ本格的に飽きてきちゃった。退屈だし、ちょっと上の方に報告してくるよ。『もうすぐ仕事が終わりますよ』って。最期の時くらい二人でゆっくり過ごすといいよ・・・じゃあ、また後でね?』 そう言い残すと、死神はすうっと目を閉じ、その場に倒れ込んだ。しばらくすると灰色猫がパチリと目を開ける。その瞳に濁りはなく、青く澄んだ瞳に七色のネオンがちかちかと瞬いていた。 『・・・・・・』 空中に浮かぶ咲は、ゆっくりとベットの上に舞い降りる。まっすぐに伸ばされたシーツは、実体のない咲が乗っても歪むことはない。そっと眠り続ける祐也の顔を覗き込めば、彼の目は固く閉じられ、変わり果てた咲の姿を見ることはなかった。 咲はそっと祐也の頭に手を伸ばす。半透明のそれは、白髪ばかりの頭をするりとすり抜けてしまう。もう一度、今度は触れるか触れないかくらいの距離で、そっとなぜるように触れてみた。しわくちゃの肌の感触も、体温ももちろん感じられない。それは咲も祐也も同じだった。死んでいるのだから当然のことなのに、なんと虚しいのだろう。 「にゃあ」 『・・・グレイ』 とことこと、ベットの上に上がってきたのは愛猫のグレイだ。ピンと張ったシーツに可愛らしいシワを作りながら咲の方へ歩み寄ってくる。そばまで近づくとペタンとしゃがみこみ、浮かぶ咲をじっと見上げてきた。どうやらグレイには、彼女の姿が見えるようだ。久しぶりに見る主の姿に心なしか嬉しそうな表情を浮かべている。 「にゃあ〜」 『ごめんね、君まで巻き込んじゃって』 生前してあげたように灰色の毛並みを撫ぜあげる。感触はわからないだろうが、それでも愛猫は嬉しそうに喉を鳴らした。その様子に少し口元を緩めながら、あらためて祐也の方を見た。 瞳は固く閉じられ、眉間は苦悶の表情を浮かべている。きっとまた自分が死にかけているのだと、一部始終を見てきた彼女は気づいてしまった。 『祐也くん、ごめんね。本当にごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったの』 死人は涙を流すことができない。咲がそれに初めて気づいたのは、ゲームのルールを正確に理解した時だったか。 今の咲もまた、祐也と同じように苦悶に満ちた表情になっている。涙がでないということがこんなにも辛いことだとは思わなかった。 『でも私、どうしても生きたかった。せめて一言、祐也くんに謝りたくて、それだけ、それだけが未練だった・・・祐也くんには未来がある。いつか私のことを忘れて、違う人を好きになって、幸せになってほしかった』 「・・・・・・」 『なのに、そのうちどんどん欲が出てきたの。祐也くんと一緒にいたい、忘れられたくないって。そう思い始めた時に『やり直したい?』って言いながら、アイツが現れたの。だから私、お願いしちゃった。・・・そのせいで祐也くんにたくさん辛い目に合わせてしまった。もっと早く気づいていれば、こんなことにならなかったのに』 咲は両手で力なく顔をおおい、頭を振った。主人の様子に灰色猫は首をかしげるばかりである。 今も戦い続ける彼に、それでも咲は届かない言葉をつぶやき続けた。 『・・・ごめんなさい、もう私にはどうすることも出来ないの。祐也くんがゲームを始めた以上、祐也くんが諦めない限り私がゲームを止めることは出来ないの』 「・・・・・・」 『祐也くんが死んで、すべてを知ったときは、私のことを恨んでくれても構わない。プロポーズの言葉も指輪もいらない。だからせめて、最期にちゃんと謝らせて』 ゆっくりと手をほどくと、彼の左手に自分のそれを重ねる。年下だった祐也の手は流れた時間のせいでずいぶんとしわくちゃになり、まるで幼い頃に見た祖父の手のひらのようだ。カラカラに乾いた薬指にも半透明な自分の手にも、もちろん指輪はない。けれど重ねた手のひらからは確かな絆が感じられるような気がした。 『こんなになるまで頑張ってくれたんだね。ぶっきらぼうで優しい、祐也くんの彼女でいられて幸せだったよ』 咲はそっと唇を寄せ、耳元で囁いた 届くはずのない感謝の思いを、それでも彼に伝えたくて。 『私のわがままを聞いてくれてありがとう・・・大好き』 飼い主たちの様子に、グレイは前足で重ねた手のひらの部分をペシペシと叩き始めた。すり抜ける前足に気づいた咲が振り向くと、グレイが『僕もいるんだけど』と言いたそうな不満げな顔つきをしていた。その表情に思わず笑みがこぼれる。 『その時はグレイも一緒だからね。一匹だけ仲間はずれにしないから』 咲の言葉に灰色猫は鼻を鳴らす。『当たり前でしょ』と言わんばかりのその態度が、咲の心を少しだけ和らげた。 薄暗い部屋の中で、一人と一匹は寄り添いながら祐也を見守る。 愛しい彼が、長い悪夢から覚めるその時まで。 |
2013.04.19