そう宣言したものの、実際はそうそううまくいかなかった。
あれから咲は、何度も死んだ。
詩帆との約束を果たしに買い物に行かなくても、家にこもっていても、運命は祐也の一瞬の隙を付いて、彼女を奪い取ってしまう。あるときは階段から落ちて。あるときは火の不始末で火事になり。初めのトラックに引かれた方が幾分マシだという死に方をしたこともあった。
その度に祐也は何度も繰り返した。数が十を過ぎた頃に涙は枯れ、二十を過ぎてからは数えることをやめた。目の前で咲が血まみれで倒れてても、次のゲームでどう動こうか考えていたときには自分に寒気さえ覚えたものだ。けれどその感覚も、長い時間の中で薄れてしまった。
『ちょっと先輩、いきなりなんなんすか?久しぶりに電話してきたと思ったら『十四日は出かけないほうがいい』って…は?店を紹介してくれてありがとう?なんのことっすか!?ちょっと、先輩!!』
諦めようと、ゲームを投げ出してしまおうと思ったことも何度かあった。
けれど最初に与えられた三日間が、それを許さない。
猶予期間は、咲の存在をより顕著に示し、祐也の心を縛り付ける。咲から与えられるぬくもりが、笑顔が、心臓の鼓動が、絶望に落ちそうになる祐也を、良くも悪くも何度もすくい上げた。
『もしもし、変わりました詩帆です…え?『死にたくなかったら十四日は外に出るな』?あ、あの、どうしてそんなこと。それに、あの、どちら様ですか?え、ちょっと、もしもし!?』
そのせいで、祐也は諦めることもできず、何度もゲームにすがった。
何十回も、何百回も。
生き地獄とは、まさにこのことだった。
「…ねえ、祐也くん」
薄暗い部屋の中、テーブルの上に置かれたキャンドルの灯りがゆらゆらと揺れる。咲の作ったブルーベリーのレアチーズケーキにオレンジ色の光を灯し出した。
リビングにおかれた合皮製のソファの祐也と咲は並んで座っていた。向かって右側に座る彼女のひざの上には、グレイがごろごろと喉を鳴らして丸くなっている。灰色の毛並みはつやつやしており、気持ちよさそうに瞳を閉じている。しかしそんな愛猫の飼い主たちは、それぞれ浮かない顔をしていた。
「・・・・・・」
祐也は答えない。じっと顔を伏せながら左手で咲の手を握りしめている。ロウソクの灯りがメガネに反射し、彼の顔の影をより濃く映し出している。
「祐也くん、どうしたの?最近様子がおかしいよ?ここしばらくずっと仕事お休みにしてるし。今日だって記念日なのに家を出るな、そばを離れるなって・・・一緒にいたいってワガママをいったのは私だけど、これじゃあ息が詰まっちゃうよ」
「・・・・・・」
「明日も、明後日も外にも出られない・・・これじゃあ仕事にも行けない。ねえ、せめて理由を教えて?何かつらいことでもあったの?」
「・・・ごめん」
祐也は消え入りそうなほど小さな声で答えた。意味がわからないというように、彼女が目を細めるのがわかる。
「なあに?それって、どういうこと」
おそるおそる言葉を紡ぐ咲の声に、祐也は顔を上げた。以前の自分には絶対にできなかっただろう柔らかい笑みに彼女も目を見開いた。
「咲、手かして」
「え?どうして・・・」
「いいから」
「う、うん」
祐也は右側のポケットから、手のひらサイズの小さな箱を取り出した。それをずっと握っていた彼女の手のなかに収める。
彼女の丸い瞳が、これ以上ないほど大きく開かれた。
「これ、」
「開けてみろよ」
小さな手のひらが、震えながら恐る恐るといった様子で箱に触れる。箱の中身を見た瞬間、彼女は思わずといった口元を押さえた。
「・・・・・・!!?」
「なあ咲、俺たち今までずっと喧嘩ばっかしてきたよな」
今度は咲も答えない。顔を伏せ、何かをこらえるようにうつむいている。膝の上に乗っていたグレイが飛び起き、何事かと言うような表情で飼い主の方をじっと見上げている。
「もしかしたら明日死んでしまうかもしれない。もしかしたら明日、お前を悲しい目に合わせてしまうかもしれない。でも、それでも俺は、お前と一緒に生きたい。お前と二人で、幸せな未来を歩みたい」
今度は咲が黙る番だった。口元を抑えたまま、手元に握られた箱の中身をじっと見つめている。大きく見開かれた瞳が少しづつ潤んでいくのがわかった。
「だいぶ心配かけてるのも知ってる。これからもきっと、お前をたくさん不安にさせることもあると思う。それでも俺はお前と一緒にいたい。二人で一緒に生きていきたいんだ」
「・・・・・・」
「俺のわがまま、聞いてくれないか?」
そっと彼女の手のひらに両手を重ねる。柔らかくて暖かい、血の通った、生きている人間の手。まるで祈るように彼女の手を包み込んだ。
「俺と、結婚してください」
神に誓いを立てるように、祐也ははっきりとプロポーズの言葉を口にした。
「・・・・・・うん!」
大粒の涙が、彼女の頬を伝った。こらえきれないように漏れた嗚咽は、決して拒否するものではないだろう。指輪の入った箱をしっかりと握りしめていたから。
承諾の言葉を受け取ると、祐也はやさしく彼女を抱きしめた。態勢が変わったせいでグレイが咲の膝から落ち、ソファの下で抗議の声を上げる。しかし全く気に求めない様子の二人に、呆れたような表情をうかべながらすごすごと部屋を出て行った。
「これ、はめてみてもいい?」
咲が涙混じりの声でつぶやくと、祐也は当たり前だろというように頷き、彼女の左手を取る。小さなダイヤが三つほど付いたシルバーの指輪は、彼女の薬指にぴったりと収まった。咲はまた嗚咽をもらし、祐也にも指輪をつけるよう促した。
互いの指輪を見比べながら、彼女は本当に幸せだというように微笑んだ。
「・・・ゴメンな」
ぽつりと、祐也が謝罪の言葉を述べる。
「ん?なあに?」
「いや、なんでもない」
だが、はしゃいでる彼女の耳には届かなかった。
《ごめんな、咲》
祐也はもう一度、心の中で咲に謝罪した。心から嬉しそうにはしゃぐ彼女に。
もう祐也の心は、プロポーズを承諾してもらっても全く無感動になっていた。
なぜなら祐也にとって、もはやプロポーズはただの通過儀礼でしかなかったからだ。
《きょうはこのままでかけなければしなないからいっしょにすごしてあしたになったらしほちゃんとのやくそくにはいかせずにくるまでしがいちをまわりそのときじこをかいひするためにろじうらをにかいみぎにまわってからぬけていえにかえるそのあとかじがおこりそうになるからちゅうしょくはでまえにしてふたりでいえをでるこんどはくるまをつかわずにほどうきょうをわたりかってにはしってどうろにでそうになるさきのてをつないでじこをふせいでおくあああとさきのだいがくじだいのゆうじんとはちあわせしそうになるからそのじかんはちかくのきっさてんによじまではいってやりすごせばあしたはだいじょうぶだからあさってはまず―――》
祐也の頭の中は、“ゲーム”のことで支配されてはじめていた。今度はどうやって咲の死を回避しようか、そのためにはどう行動するべきか、祐也の脳は繰り返すルーティンワークのなかで得た経験を活かそうと、少しの暇もなく頭を働かせるようになった。その度に祐也の感情は凝り固まり、氷のように冷たくなっていった。
おそらくすでに三桁は超えただろう咲の死。そのたびに祐也は彼女にプロポーズし、指輪を渡した。
たとえまた死んでしまおうと、言葉に心が入らなくなろうとも、それでも未来を信じて。
それしか、祐也には残されていなかったから。
「・・・このまま、時が止まってしまえばいいのに」
ぽつりと、祐也の口から言葉がこぼれた。明日からまた、祐也にとっての戦いが始まる。すがりつくように、咲の小さな身体を抱きしめた。
そんな相手の心情も知らず、咲は祐也の腕の中でちいさく首を振った。
「私は、いやだよ。だってこれから、楽しいことがいっぱいあるんだもん。これから祐也くんと一緒に楽しい未来を作っていくんだから。だからこのままなんて絶対いや」
顔を上げた咲は、明日の自分がどうなるのかも知らずに微笑んだ。嬉し涙でうるんだ瞳は、キャンドルの火に負けないくらい強く輝き、祐也の瞳にも光を灯す。
「これからも二人で、一緒に頑張っていこうね?」
「・・・ああ、もちろんだ」
祐也はもう一度、咲の体を強く抱きしめた。ウェーブのかかった髪がふわりと揺れ、シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。咲もまた祐也の背中に腕を回し、小柄な体を祐也の胸に預けた。
十二月十三日、聖夜を間近にひかえた真冬のさなか。
ケーキをつつきながら、結婚を誓い合った二人はたわいもないことを話し続けた。明日にはできなくなるかもしれない未来の話。祐也はひと時の幸せを噛み締めた。
「でも祐也くん、よく私に内緒で指輪買えたね。いままでアクセとか買ってくれたことなかったのに」
「前に昌紀に会ったとき、オススメの店を教えてもらったんだよ。二人で婚約指輪選んでたら店員にすごい目で見られた。絶対誤解されてたな、あれは・・・」
「あはは、やっぱり!でも嬉しいな。ねえ、結婚式には誰を呼ぼうか?」
「おい、さすがに気が早いだろ」
「早いに越したことないでしょ。これから何があるかわからないんだから!」
「・・・そうだな」
「とりあえずお父さんたちとしほちゃんと・・・あ!その前にお父さんたちに結婚報告しないと!私、定番の『娘さんを僕にください!』『お前なんぞに娘はやらん!』ってやつ見たかったんだ〜」
「はあ?それだと俺たち結婚できないだろ。第一お前の親父さんとは何度も顔合わせてるし、むしろもらってやってくださいって言われそうだ」
「何よそれ!祐也くんのいじわる!」
「はははっ、当たるか」
彼女が繰り出す拳をかわしながら、祐也は心の中で再度誓う。
《俺は、絶対に諦めない。かならずゲームに勝って、咲との未来を手に入れる》
黒く覆われた空からは、ちらちらと雪が積もり始めていた。きっと明日も積もるのだろう。
それでも祐也は一人戦い続ける事を誓う。
きっとこれからも、絶望するたびに何度でも誓いなおすだろう。
何千何万回の絶望の中で、たった一つの希望を掴みとるために。
明日からふたたび始まる惨劇の日々を、しばし忘れさせるように、キャンドルの明かりが二人を優しく包み込んでいた。
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