かつてとの邂逅

A

 

 

 

(――――・・・・・・ひどい雨だ)

 

灰色の空の下、常磐は静かに天を仰いだ。

大粒の雨音が、アスファルトの地面をしとどに濡らした。いくつか散らばる水たまりの中で、アマガエルが小さく跳ねている。こんな都会の真ん中でよく生きていけるものだと、常磐は少しだけ感心した。

「・・・・・・! ・・・・・・っ!!」

どれほどの時間、こうしていただろう。たしか最初にこの場所へと降り立った時は、まだ雨は降っていなかったはずだ。死人であるこの身は雨に濡れることもないが、それでも良い気分には決してならない。喪服に包まれた身体をすり抜けていく雨粒に、自身が死者であることを嫌でも実感させられる。

「・・・・・・ぁ、が」

 吐息のように小さな声が、常磐より少し離れた場所から聞こえる。耳障りな音を遮るように目をつぶれば、声は聞こえなくなった。いや、正しくは、悲鳴を上げることすらできなくなったのだろう。

「椎名」

 表面上はにこやかに微笑みながら、真紅の瞳を路地裏の角へと向ける。そこには仕事上の相棒と、先ほどの声の主が対峙していた。いや、対峙というには少しばかり語弊がある。

 声の主である死者は、椎名という圧倒的存在の手によって、無残にも切り刻まれていた。

「・・・・・・」

 静寂に包まれた路地裏を濡らすのは、雨粒か、それとも血の雨か。

 椎名は相棒になど目もくれず、その長身をかがめながら、何度も刀を振り下ろしていた。その切っ先はすべて、足で押さえ込んだ死者へと向けられている。今もまた、吹き出した返り血がアスファルトの上に花を咲かせた。

理不尽な暴力。それでも、常磐は止めることはしなかった。

死者と対峙した時点で、彼の手がすでに刀を握っていたからだ。

 

殺人衝動。

それが椎名の身に巣くう本能の名前だ。より簡単にいえば、一種のトラウマのようなものだろう。

 生前の椎名は、双子の弟を目の前で殺され、自身もまた、ナイフで身体中をメッタ刺しにされて死んだ。肉体を離れ、葬儀屋となったものの、文字通り刻みつけられた感覚は消えなかったらしい。

『殺さなければ殺される』

 そんな無意識の意識により、彼は刀をふるい、死者を“始末”するのだ。自分が殺してしまえば、殺されることはない。一種の安心感を得るための行為は、けれども決して、彼に安らぎを与えてはくれなかった。

「椎名、そろそろ帰りますよ」

 常磐は再度、相棒に声をかけた。穏やかな声色に呼びかけられた椎名は、ぴくりと身体を震わせ、ようやくこちらを振り向く。返り血に濡れた喪服はズボンの裾までぐっしょりと濡れ、彼の愛用しているサングラスにも赤錆色がこびりついている。

せめて雨に濡れることができれば多少は頭も冷えるのだろうか。常磐は少しだけ、面倒そうにため息をついた。

(やっぱり、こうなるだろうとは思っていましたよ)

 人形のような笑みを貼り付けたまま、独り言のように心の中だけでつぶやく。

鉄錆と湿った香りが交じり合う中、鈍色の刀が身を翻した。切っ先が灰色空を写し出したと同時に、長身痩躯の身体がこちらへ向かって勢いよく地面を蹴った。

「―――ッ!」

 返り血に染まった口元は、ひどく歪んでいた。恐怖か、快楽か、もしくはそれらすべてが入り混じった感情か。言葉にならない叫びは次第に誇大化し、赤黒く染まった刃とともに常磐へと向けられる。おそらく椎名の目には、自身は相棒ではなく、次の標的として映っているのだろう。

 殺人衝動はとまらない。それどころか、増幅してさえいる。

 それが常磐の見解だった。彼とコンビを組んでからまだ片手ほどしか仕事をこなしていないが、その半数は『始末』という結果に終わっている。無論、全て椎名が手を下して、だ。

 たとえ死者を嬲り殺し、恐怖心から逸脱できたとしても、その次に待っているのは快楽への中毒だ。特に刃物は殺した感覚が手に残る。それは、この方法が安らぎを得るための唯一の手段であると錯覚させるには、十分すぎるものだった。

 だからこそ椎名は、その安らぎを得るために刀を振るう。

 たとえその相手が相棒であろうとも。

「・・・・・・やれやれ」

 そう呟く常磐の真横を、鋭い切っ先が通り抜ける。風を切る音が、耳元をかすめた。

 刃を引いた椎名が、続けざまに斬撃を続ける。

「ああああアァッ!」

 一撃、二撃、三撃―――・・・・・・。

 激しい咆哮を上げながら繰り出されるそれは、けれども決して常磐に当たることはなかった。少しづつ後退しながら、常磐は飄々とした様子で太刀筋を避け続けた。

(こんな狭い場所では突きでの攻撃が基本となり、思うように刀は振るえない。そして、その方法が通用しないとなれば・・・・・・)

 常磐はちらりと視線だけを後ろへ向ける。数メートル先には、むき出しのコンクリートの壁がそびえ立っていた。このままでは行き止まり、すなわち袋の鼠だ。

 だが、常磐の表情に焦りはない。

前に視線を戻すと、椎名の刀が頭上高くまで掲げられていた。

 勝利を確信した真紅の瞳が、サングラス越しに常磐を捕らえる。

 もう、どこにも逃げ場はない。

 椎名は無慈悲なほど口元を歪めながら、鈍色の刃を勢いよく振り下ろした。

 

 だが、ここからの常磐は早かった。

 常磐は勢いよく壁のそばまで飛び去り、振り下ろされた刃をかわす。ひときわ重い斬撃はアスファルトの地面に当たり、乾いた金属音を響かせた。

(じれた相手は袋小路まで獲物を追い込み、一撃で仕留めようとするでしょう)

 舌打ちを鳴らした椎名は体勢を立て直し、刃を持ち上げようとする。

 だがそれよりも早く、常磐の革靴が椎名の刀を踏みつけた。

「ッ!!」

 突然の反撃に、椎名が息を飲んだのがわかった。それでも刀を振り上げるために柄に力を入れようとする。

 常磐は、その隙を見逃さない。

 ホルスターから素早く銃を抜くと、椎名の額に銃口を向けた。

「――――――」

 真紅の瞳が、驚愕に見開かれる。

 その顔に向かって、にっこりと微笑んで見せた。

「そこがまだまだ甘いんですよ、椎名」

 そう言うと、常磐はためらうことなく引き金を引いた。

 

 椎名の体が、はじかれたように後退する。そのまま二歩、三歩とよろけながらアスファルトの上を転がっていった。

 常磐は追い討ちをかけるように、もう一発引き金を引く。乾いた銃声が響き渡り、椎名の足元をかすめていった。

 軽く銃身をふって粗熱を取ると、再び銃を元の位置にしまった。そして、足元に転がっている抜き身の刀へと手を伸ばす。手にしたそれは常磐の手のひらにずしりと重くのしかかってきた。

「頭は冷えましたか?」

 そう問いかける先に返答はない。相手はいまだアスファルトの上に寝転がり、荒い息を繰り返している。

 おそらく銃弾は全てかわしていたはずだ。最初に銃を撃った時にはすでに刀から手を離して避けていたし、二発目の弾も避けやすいようわざと足元を狙った。どのみちこの返り血の量では、当たっていないか傍目で断定することはできないが、この男の悪運からして心配はないだろう。

 静けさを取り戻した路地裏に、革靴の音が響き渡る。雨に濡れた地面の上で、アマガエルが場違いなほど陽気に鳴いていた。

 常磐は足元の相棒を見下ろした。力なくアスファルトに横たわる椎名からは、もう殺気は感じられない。衝動の根源ともなる刀から手を離したからだろう。あと数分ほどもすれば、正気に戻るはずだ。

 椎名の暴走はこれが初めてではない。葬儀屋として目覚めたばかりの椎名は、これまで幾度となく常磐に刃を向けてきた。それは今回のように、死者を始末してからの延長でしてくることがほとんどであったが、それでも他の葬儀屋には荷が重いだろう。つくづく上層部の判断は正しいものであったと痛感する。

「・・・・・・っ、う」

 椎名の口から、小さく声が溢れる。先ほどよりもやや正気を取り戻したようだ。焦点のあっていない瞳が、サングラス越しに揺らいで見える。それでもまだ起き上がることはできないらしい。

 降り続ける雨は止まず、アスファルトの地面に向かって叩きつけられる。雨粒は相変わらず常磐の身体をすり抜け、水たまりの上にいくつもの波紋を広げた。ただ、返り血に染まり、喪服から髪の先までぐっしょりと濡れた椎名は、まるで雨に濡れているようにも見える。

 (まるで獣のようですね。獰猛で、臆病な肉食獣)

 常磐は、ひどく冷めた目つきで相棒を見た。そして、その考えが我ながら的を射ているとも思い立った。

 衝動に身を任せ刀を振るう様、すさまじい直感で銃弾を避ける様、そして今、地べたに這い蹲り、うめき声をあげる様はまさしく獣の姿そのものだ。

片やその相棒である自分は、理性と無関心の塊だ。いかに効率よく仕事を片付けるかに重きを置き、人の感情など二の次だった。その方針は自身も例外なく当てはまる。そう言う意味では、常磐と椎名は対極の存在にある。

(別段羨ましいとも、立場を交換したいとも思わない。けれども)

「―――面白い、ですね」

 常磐はその笑みを一層深めた。

 すぎる無関心を抱えた常磐にとって、それは紛れもない変化だった。

「・・・・・・あ?」

 片や椎名は、相方の言葉の真意を理解できず、眉間にしわを寄せている。こんなところまで正反対だ。 

 常磐は、持っていた刀をアスファルトの上においた。反り返った刀身は、水溜りの上で鈍い光を放っている。

「なんでもありませんよ。正気に戻ったのなら、次の仕事に行きましょう。立てますか?」

「・・・・・・ああ」

 椎名は気だるげに刀を握って起き上がる。体にこびりついていた返り血は、雨に流されたように綺麗さっぱりなくなっていた。おそらく死者が輪廻に還ったからだろう。路地裏に転がっていた身体も、跡形もなく消え去っていた。

「とにかく今の貴方は、少しでも多く仕事をこなし“衝動”の感覚を掴む必要があります。そうでなければ、僕の命がいくつあっても足りませんよ」

「・・・・・・悪い」

「謝るくらいなら、少しでも長く自我を保てるようになりなさい」

「ああ」

 刀が鞘に収まるのを見届けると、常磐はさっさと前を向いて歩き出した。雲に覆われていた空からは、わずかに晴れ間が覗いているのが見えた。灰色しか写していなかった水溜りは差し込んだ光を一身に浴び、鏡のように輝いていた。

 常磐はわざと水溜りに足をつっこむように歩く。後ろに続く椎名も、故意ではないだろうが同じく、水溜まりを踏みしめて進んでいた。実体のない二人の革靴は濡れることもなく、波紋一つも広がりはしない。

 けれども差し込んだ陽の光は、死者である自分にも分け隔てなく降り注ぎ、喪服の体にぬくもりを与えてくれた。

(おそらく、僕と椎名のコンビは長くは続かないでしょうね)

 遠い空を眺めながら、常磐は漠然とそう思った。

 椎名ほどではないが、自身もまた“始末”を行う回数が多いと小言を言われる立場だ。無論、常磐には殺人衝動もなく、普通の説得で死者を還すこともできる。ただ“始末”したほうが効率が良いと判断したときは、迷うことなく銃を抜いているだけだ。そう言う意味では、常磐も上層部にとってたちの悪い存在だった。

 その二人がコンビを組んだらどうなるか、わかりきっているはずだろうに。それでも、椎名とまともに対抗できる適役は自分しかいなかったのだ。苦悶の表情を浮かべる上層部の顔が目に浮かぶようである。

(ある程度衝動を抑えることはできても、完全に消すことはできない。そのためには、椎名自身が殺人衝動と向き合わなければなりません)

 常磐はまた、ちらりと背後を見やった。自分よりもやや背の高い真紅は、ちょうど空を見上げていた。もしかしたら、自分と同じことを考えていたのかもしれない。差し込んだ日差しにまどろむように、ゆっくりと目が細められる。その瞳に、さきほどまでの狂気は見られない。

 けれど、また死者と対峙すれば、殺人衝動は姿を現すだろう。椎名が刀を捨てない限り、椎名が過去を精算しない限り、それはくりかえされるのだ。

 だが、椎名は殺人衝動の理由を知らない。

 葬儀屋になった魂は生前の記憶をなくすためだ。常磐自身、誰が家族で、どんな生活をしていたのか等の記憶は一切持ち合わせていない。椎名の場合は少々イレギュラーだったが、記憶がないという部分ではほとんど同じだ。もし椎名が殺人衝動のきっかけとなる記憶を取り戻し、受け入れることができるのなら、彼自身変わることができるかもしれない。

(ですが、今の椎名にその意志はない。誰かがその必要性を気づかせない限り、彼は変わらないでしょう)

 では、その誰かとは?

 おそらくその役割は、常磐のものではない。どれだけ常磐が説明したところで椎名は理解しようとしないだろうし、常磐自身そのような気力もない。

 ならその役割を引き継ぐのは、椎名の次の相棒だろう。

 彼を怖がらず、根気強く接していくような人間だ。もちろん、現れる可能性は低いだろう。常磐でさえ面倒に思っていることを、引き受けてくれるような物好きは。それでももし、いつか現れるのであれば、手助けくらいはしてあげてもいいかもしれない。

(ならばせいぜい、手綱の握らせ方くらいは叩き込んでおきましょうか。このままでは未来の相棒すら殺しかねませんからね)

 自然と口元が緩む。仮面というには少しだけくだけた、褒美を待ちわびる子どものような笑みだ。

 灰色だった空はゆっくりと流れ、やがて藍色の空へと変わっていった。

 


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2013,06,15