04:案内人 |
完全記憶能力。
SF映画にでも出てきそうな名前だが、これは超能力という実在する能力だ。
その名の通り、一度覚えたものはけして忘れない、異常な記憶能力のことをこう言う。人によって能力の差は千差万別らしいが、その中でも自分はほぼ完璧に記憶することができる正真正銘の完全記憶能力だった。
たとえばここに一冊の本があったとしよう。誰かがそれを読み終え、『十五ページの五行目にはなんて書いてあった?』と聞いたとする。はたしてその誰かは答えられるだろうか。いや、普通の人間ならあらすじは覚えていてもそっくりそのまま答えることはできないだろう。
けれど、自分は違う。自分が読めばどのページにどんな文字が書かれているか全て覚えているのだ。その気になれば、どのページの文字でインクがかすれていたかまで完璧に思い出せる。普通の人が本の内容を頭に記憶するのだとしたら、あたしは本そのものを記憶できるのだ。
それが完全記憶能力。あたしが持つ、人とはちがう能力の名前。
「全部覚えてるのよ、あなたがお茶を出すところを見てたから。もしその本を一分貸してもらえたら、一文字一句間違えることなく全て覚えられるわよ」
「それはすごいわね。私もこの本を何度も読んだけれど、流石に丸暗記はできないわ」
「でもね、あたしはこの力が大っ嫌い」
あたしは自身の頭に手を当てた。細めの赤髪が指をなぞり、触れたこめかみの部分が強く脈打っていた。この頭の中には自我を持ち始めてから十数年分の鮮明な記憶が入っている。
しかしそれはけっして良いものばかりではなかったのだ。
「昔、友達に悪口をいわれたことがあるの。『なんでそんな細かいところまで覚えてるの? 気持ち悪い』って。なのに言った本人はそのことを忘れちゃうのよ。『そんなこと言ったっけ、いい加減水に流してよ』って笑ってたわ。あたしだって忘れたいわよ! 嫌なことなんてさっさと流して、馬鹿みたいに笑っていたい」
握り締めた手の甲に涙の粒があたる。こんなふうに嫌な記憶も頭の中から追い出せたらいいのに。もし本当に泣くだけで記憶を消せるなら、あたしは四六時中泣いていることだろう。人は見て、感じて、覚えて、そして忘れながら進んでいくことができる。けれどあたしは、覚えすぎて前に進むことができないのだ。
(この目で見たもの以外、なにも信じない)
それがあたしの持論だった。なぜなら完全記憶能力を持つ自分が見て記憶したものには、何一つ偽りがないからだ。
お化け屋敷で誰かが本物を見たと言い張っても、あたしが見たのはただの影だった。だが、みんなはあたしの言葉を信用せず、偽物の誰かの証言を怖がった。だからあたしは何一つ信用しない。サンタも幽霊も、人の言葉も。
「そう、ずっとつらかったのね」
じっと話を聞いていた管理人はあたしをやさしく抱き寄せた。白銀の髪からみずみずしい花の香りが漂ってくる。抵抗する気力はなかった。こんなふうに誰かに甘えて、すべてを吐露してしまうのは初めてだったからだ。
「それでも私は貴方がうらやましいわ。私はすべてをなくしてしまったから」
「なくした?」
「私はね、この場所に来る前の記憶がないの」
おもわずあたしは体をはなし、顔をあげた。彼女は少し困ったような表情を浮かべていた。
「自分の名前、生まれた場所、家族や友達・・・・・・全部忘れてしまったみたい。なにひとつ思い出せないの。だから、すべてを綺麗に覚えていられる貴方が少しだけ羨ましい」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。いままでたくさんの記憶を抱えてきたが、彼女のような人物と出会ったのは初めてだったのだ。膨大な記憶をかかえているくせに、こんな時どう言葉を返したらいいのかわからない。
だが管理人は、暗い顔をすぐに引っ込めた。
「でもね、すこしも寂しくないわ。だってここにはたくさんの“物語”があるもの」
管理人はそう言ってかたわらに寄せていた書物を取り出した。ティーセットを取り出したり、ペンギンなども飛び出てきた、あの不思議な書物だ。
「ねえ、さっきの紅茶、すごく美味しかったでしょう?」
「うん」
「ペンギンもまるで生きてるみたいだった」
「・・・・・・うん」
あたしの返事に、管理人の少女は満足そうに微笑んだ。
「これはね、あなたと同じ、完全記憶能力を持った人の記憶なの」
「え、あたしと同じ?」
管理人が再び書物を開いた。パラパラとページをめくる音と共に淡い光が溢れてくる。
「う、わあ」
おもわず感嘆の声がこぼれた。その淡い光から先ほどのようにティーセットや動物が出てこなかった。代わりに石造りの壁に溶け込み、部屋全体の景色を変えていったのだ。
氷山のうえではしゃぐペンギンの群れ。果てなくつづく草原を馬にのって駆けめぐる景色。新雪のつもった山脈を気球でわたりゆく空からの風景。そしてその傍らで女性が幸せそうにほほえんでいる―――どれも映画のように、いや、それよりもはるかに美しくリアルで、まるで自分が体験しているような気分になった。
「すごい……」
「生前の彼は冒険家だったの。かつて彼もあなたのように、嫌なことを忘れられなくて嘆いていたわ。けれど彼女と出会ってからは少しずつ考え方が変わっていったのよ。『悲しみや苦しみを忘れてしまうことはできないけれど、それよりももっと素敵なもので塗りかえていこう』ってね」
少女は広げていた書物をパタリと閉じた。世界中を旅した鮮やかな景色は彼女の部屋へと変わっていく。
「私は“管理人”だから、この場所を離れることはできない。でも彼の物語で世界中を旅したような気持ちになれるの。貴方は自由よ、彼が旅した場所へだって行けるし、素敵な思い出をずっと覚えていることができる。だから」
少女は閉じた書物をあたしに向けて差し出した。
「貴方も、貴方の素敵なものを探していらっしゃい」
あたしは受け取った本を抱きしめ、なにも言えぬまま小さく頷いた。
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「アリス? そんなところでなにしてるの」
呼びかけられた声に、二十五歳のアリスははっと意識を戻した。読んでいた書物を閉じて辺りを見回す。その左隣にはアリスの胸ほどの高さの小柄な少女がこちらを見上げていた。
「管理人さん! ごめんね、ちょっとぼーっとしてたみたい。何か用?」
そういって愚痴るアリスに管理人は微笑ましそうにしていた。
初めて出会ってから十年、風貌もその笑顔もまったく変わっていなかった。ずいぶん開いてしまった身長差が少しもどかしかい。
「ふふふ、見て、この本!」
「あらこれって・・・・・・トムさんの本じゃない! 懐かしい」
アリスは手袋ごしに手渡された書物をなぜた。彼女が持ってきたのは、初めて二人が出会ったきっかけの物語だ。古びたそれは重厚なもので、その一切変わらない様相がアリスを懐かしくさせた。
「でしょう? ひさしぶりに返却されたからいっしょに見ようと思って持ってきたのよ」
「いいね! 久しぶりにトムさんの紅茶が飲みたい!」
アリスたちは互いに目配せをし、笑顔を浮かべた。
あたしこと生命の図書館“案内人”、アリスは元利用者だった。
完全記憶能力というものに生まれつき悩まされてきたが、この図書館の管理人に諭され、今はこの能力を前向きに受け取るようになった。たとえ嫌なことがあっても、もっと素敵なことで塗り替えていけばいい。そう捉えられるようになってからはギクシャクしていた人間関係も少しずつ良くなっていった。
案内人という役職を設けたのはアリスの提案だ。
この図書館はすべての人間の記憶を保管するというだけあってかなりの広さがある。だというのに検索機や案内板もなく、利用者たちも書物を探すどころか管理人たちにすら会えないまま目を覚ましてしまうことも多くあったらしい。
そこであたしが図書館の案内役を買ってでたのだ。この記憶力なら図書館内の地理はもちろん、閲覧出来る書物の内容まで全て覚えることができる。迷子になっている利用者を大広間まで案内したり、利用者の探している書物を端末なしで探し、案内することが可能なのだ。
ちなみに図書館の古参であるタイガからは利用者を登用するなとさんざん文句を言われたが、管理人のアシストと図書館として機能しきれていない現状からしぶしぶ了承を得ることができた。
「おかげで利用者とお話できる機会が増えて嬉しいわ、本当にありがとう」
「いいのいいの! おかげでこの図書館にも自由にこれるようになったし、あの口うるさいタイガも説得してくれたしね」
円卓の広間に移動したアリスと管理人は、その一角でささやかなお茶会を開いていた。口に含んだ紅茶はやはりあの時と同じ最高の味わいだ。
「それにしても、あたしたちが出会ってからもう十年か。時が経つのは早いわあ」
「アリスもすっかりお姉さんよね、すっかり背をこされちゃって」
そういって微笑む姿は、昔と一切変わらない。
アリスがちゃくちゃくと年を重ねていく中で、彼女だけは見た目が変わらなかった。それは図書館に暮らしているからか、彼女自身の問題なのかはわからない。ただわかるのは、いつかアリスが死んでしまっても、彼女はずっとこの図書館にいるということだけだ。
「ねえ管理人さん」
「なあに?」
あたしはメガネを外し、膝の上に置いた。
「ずっと考えていたの。あたしはただの人間だから、いつか案内人じゃなくて、記憶としてこの場所に来ると思うわ。そうしたらこうしてお話することも少なくなると思うの」
「まあアリス、そんなさみしいことをいわないで」
管理人はさみしいそうに眉をひそめた。けれどあたしは彼女が思い描く不安を吹き飛ばすようにウインクをする。
「だからね、あたし、今のうちにたくさんの思い出を作るわ。管理人さんがあたしの物語を読むときに、こんなこともあったなって思い出してもらえるようにする。もし管理人さんが忘れてしまっても、あたしが管理人さんの分も覚えておくから。あたしの人生まるまるかけて、この完全記憶能力を有効活用しちゃうわよ」
「アリス・・・・・・」
あたしは彼女に右手をさしのべた。
「管理人さんに素敵な物語を届けられるよう頑張るわ。だからこれからも案内人として……友達として仲良くしてね」
「もちろんよ、アリス!」
管理人さんはあたしの手を握り返し、笑顔を浮かべた。手袋越しでもわかる彼女のぬくもりは、温かかった。
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