10話
その日の杉浦は、この上なく上機嫌だった。 眼下に広がる空も、杉浦の心情をくみとったような雲一つない青空になっていた。四月もなかばを過ぎ、都内を埋め尽くした桜はとうに散ってしまったが、ポカポカとしたひだまりは今日も変わらず都会の人々を照らし続けていた。 「どうだろう? 私のオススメのお店なんだけど、気に入ってくれたかな」 「はい! すごく美味しいです」 目の前に並べられた料理を平らげなから、杉浦は元気よく返事をした。向かいの席に座るのは憧れの緒方だ。 今日は日曜日。杉浦は緒方と昼食を食べにきていた。 講演会終了後、杉浦たちは美術館の屋上にあるレストランに来ていた。杉浦も店があること自体は知っていたものの、貧乏学生のため利用する機会はなかったが、緒方の好意によってその味を堪能することが出来た。 「でも本当に俺、支払わなくてもいいんですか? 俺、貧乏ですけどこの食事分だったら払えますよ」 おそるおそる杉浦がたずねると、緒方はなんだそんなこと、というように大口を開けて笑った。居酒屋の飲んだくれたおっさん達の発するそれとは一八〇度違う、ほがらかですっきりとした笑い声だった。 「なに、誘ったのは私のほうだからね。可愛い後輩のためなら安いものだよ。私も学生時代は苦労したものだ」 「うう、すみません。ありがとうございます」 本日何度目かの礼を言う。緒方はその度に大丈夫だと笑ってみせた。 会計をすませ、店を出る。店の外はそのまま展望台のフロアにつながっており、二人は食休めとして近くのベンチに座った。 「いや、ごちそうさまでした」 「なあに、これくらい安いものだよ」 吹き抜けのフロアからは春一番が心地よい陽気を連れて美術館内に入り込んでくる。杉浦たちは満腹とひだまりの匂いのする風に眠気を誘われながらも、満足げに目を細めた。 美味しい料理は食べられたし、憧れの緒方とも話すことが出来た。今の杉浦にとって、これほどの幸福はないだろう。 「でも意外ですね。緒方さんも若い頃は苦労していたなんて。なんかデビューしてからずっと快調なイメージがあったから」 「うん? さっきの話かい? そりゃあね。私だって学生時代はお金がなくて、アルバイトばかりしていたよ。まあでも、当時は油絵が描けるだけで幸せだったな」 「そうなんですか。俺もその気持ち、よくわかります」 「そうか、なんだか嬉しいね」 (俺の方が嬉しいっすよ!) にっこりと微笑む緒方の顔を見て、内心そう思った。憧れている大人の男性と同じ感覚を共有できて、杉浦は有頂天になっているのだ。 そんな杉浦の様子に、緒方はソファに体を預けながらリラックスした表情で話しかけてきた。 「そういえば杉浦くん」 「はい?」 「前に美術館で会った子とは、付き合っているのかい?」 「ぶっ!?」 突然の質問に杉浦は思い切り吹き出した。そのまま喉がヘンにつっかえ、何度も咳き込む。先程まで食べていた食事が喉まで出かかってしまった。 緒方は悠然とした様子で、咳き込んでいる杉浦の背をさすった。ゴツゴツとした筆ダコの感触が背中ごしでもわかった。 「おやおや、大丈夫かい?」 「はい・・・・・・って、急に何を言うんですか!?」 「あれ、違うのかい? 仲が良さそうだったからてっきり付き合っているのかと思ったよ」 「ちちちちちち違いますよ! 俺のバイト先の先輩で、それ以外何の関係もありません! まあ、モデルをしてくれてるくらいですけど」 「ほう、モデル?」 緒方が眉をひそめた。一瞬ざわりと表情が変わったような気がしたが、瞬きの合間に消えていった。 「彼女、君の絵のモデルをしているのかい?」 「え? は、はい。デッサンの方ですけど」 「そうか、ふうん。彼女がモデルをねえ・・・・・・」 「な、何か?」 「いいや何もないよ。そうだ杉浦くん、今度君の作品も見せてくれないか」 「ええ!? 俺のっすか?」 「うん」 「そんな、俺なんかまだまだ緒方さんに見せられるような作品じゃないですよ」 杉浦は頭を何度も横に振りながら断った。なにせ相手は今、世界を騒がせる人気の画家だ。現在も創作活動で忙しい彼に、しがない学生の拙い絵を見せるのはさすがに気が引けた。杉浦にとってはこうやって食事を共にしたり、話をしたりするだけでも恐縮ものなのだ。 だが緒方の方はそれで満足ではないらしい。足を組み替えながら、杉浦の方に詰め寄るようにグイグイ近づいてきた。 「いや、それでも見てみたいよ。私ももう若くないからね。学生の感性を参考にしたいんだ」 「いや、でも」 「プロになったらいろんな人の意見を聞くことになるからね。今のうちに慣れておいたほうがいいんじゃないかな?」 たじろぐ様子の杉浦に、緒方は間髪いれず言葉を入れてきた。憧れの緒方にここまで言われてしまっては、断るに断れない。 杉浦は何度か口の中でもごもごとつぶやきながらも、結局お願いすることにした。 「わかりました! 俺の作品でよければ、見ていただいてもいいですか?」 杉浦の返答に、緒方は満足そうに何度も頷いた。 「うん、楽しみにしているよ。期限はいつでもいいから、完成したらまた連絡をくれるかい?」 「はい」 杉浦は電話番号の入った名刺を受け取った。それを大事に胸ポケットにしまいながら、杉浦は興奮で顔を赤く染めた。 (うわあああやべえ、どうしよう、まさか緒方さんに俺の作品を見てもらうことになるなんて!) 心の中で叫びつつける杉浦の耳に、聞きなれた野太い声が聞こえてきた。 「おや? もしかして緒方くんかい?」 声に振り向くと、特徴的なごま塩頭が飛び込んでくる。 杉浦のゼミの担任であり、絵画科クラスの教授だった。今日は休日ということもあり、普段愛用している作業着ではなく、チェック柄のシャツに薄茶色のカーゴパンツというカジュアルな格好をしていた。 「あれ、先生じゃないですか! お久しぶりですね。先生も展覧会を見に来てくださったんですか?」 「もちろんだとも。講演会も聞いておったよ。立派になったもんだなあ」 握手をしながら親しげに会話をする二人に、杉浦が疑問を投げかけた。 「あれ、緒方さん。先生のこと知っているんですか」 「知っているもなにも、私の大学時代の恩師だよ。ゼミの担当だったんだ」 「ええっ! 先生が!?」 「おや、知らなかったのかい?」 緒方が不思議そうに首をかしげる。 確かに教授は学内で一番長く働いていると聞いたが、杉浦と同じように緒方のゼミを担当していることは聞いたこともない。普段は話し始めると長いくせに、一番教えて欲しいことを教えてくれない教授だ。 杉浦は目をつり上げながら教授に詰め寄った。 「聞いてないっすよ! 先生、なんで教えてくれなかったんすか!?」 「はっはっは、聞かれなかったからね」 「〜〜〜っっ!!」 「はは、相変わらずですね。先生」 だが教授は、自分の子どもくらい年の離れた学生の凄みなど全く効かないようだ。いつもどおり、脳天気に笑い飛ばしてしまっている。 それを聞いて杉浦はなおさら腹が立ったが、憧れの緒方がいる手前、それ以上の追求はできなかった。 教授は一笑いすると、緒方と杉浦を交互に見比べて首をかしげた。 「それにしてもどうして二人が一緒にいるのかな?」 「あ、それは」 「私が誘ったからですよ、先生」 「君が? ・・・ふむ」 杉浦の言葉を遮り、緒方が説明をする。教授の太い眉が、なおさら訝しげに寄せられたのがわかった。 途端、すぐ近くでアメイジンググレースの軽快なメロディが流れた。 「おっとすみません。メールが・・・」 電子音の元は緒方のスマートフォンからだった。緒方はすぐにメールを開くと少しだけ目を見開いた。身動きひとつせずに画面を見続ける緒方に、杉浦は訝しげに声をかける。 「あの、緒方さん?」 「ああ、ごめん。ちょっと急に担当から連絡が入ったみたいだ。今日はここで失礼するよ。というわけで先生、すみませんが失礼させてもらいます」 「そうか。また大学の方に顔を出してくれ」 「あ、すみません。俺、忙しい時に」 「いやいや、誘ったのは私のほうだからね。それじゃあ、君の絵を楽しみにしているよ」 「は、はい」 それぞれに別れを告げると、緒方は足早に去っていった。その後ろ姿を最後まで見送ると、教授が杉浦に話しかけてきた。 「杉浦くんの絵がどうかしたのかね?」 「ああ、実はあの緒方さんが、俺の絵を見たいって言ってくれたんです」 「ほお?」 「完成したら連絡が欲しいって、名刺ももらいました。今からすっげー緊張してますよ! ど、どうしたらいいんすかね!?」 興奮さめやらぬ様子で喋り続ける杉浦を、なぜか教授は渋い顔をしてみていた。そのうえ口元に手を当てて、ぶつぶつと考え込むように独り言をつぶやいた。 「そうか、いやでも・・・・・・まさかね。あれはもう何年も前の話だし・・・・・・」 「・・・・・・先生? なんかさっきからぶつぶつ言ってますけど、どうかしたんすか?」 「いや、何でもないよ。それより、緒方くんに絵を見てもらうのはいいが、前回出した課題はちゃんとやっているんだろうね? 君以外の子は皆もう提出し終わっているよ」 「げっ! でも、あれまだ明日まで期限あるでしょう!?」 「君のことだ。緒方くんに見せる絵に集中してやらないだろう? また私に泣きついてきても、もうおまけはしてやらないからね」 「そ、そんな・・・・・・」 「そこでショックを受けるくらいなら、早く帰って課題を終わらせることだね」 はっはっは。教授はでっぷりとした腹を揺らしながら、立ち去っていった。杉浦も学理と肩を落としながら後に続く。 先程まで暖かい日差しを届けていた空は、分厚い雲に覆われ始めていた。 二人と別れたあと、緒方はスタッフ用通路の扉を開いた。 薄暗い中は人気もなく、暖かな陽気の入ってきたフロアよりも埃っぽく、じめじめとした空気が漂っていた。 緒方は素早く中に入り、扉を閉める。がちゃりと鍵のかかる音が響くと、こらえきれずに笑みがこぼれた。 「ふふ、はははっ! 思ったとおりだ」 不気味な笑い声が響き渡る。緒方は扉に寄りかかり、額に手を当てた。まぶたをゆっくりと閉じ、高鳴る鼓動を抑えるように深呼吸をした。 具合が悪いわけではない、むしろ最高に気分が良かった。それでも杉浦たちに悟られぬように仮面をかぶるのは辛かった。 (まだだ、まだここで動くわけにはいかない。彼の作品が完成するまで待たなければ。そのほうが、もっと良い舞台になる) 端正な顔立ちはぐにゃりと歪み、愉快そうに笑みを浮かべた。 おそらく杉浦が今の自分の顔を見れば、別人のようだと勘違いしてしまうかもしれない。もう自分を、憧れのこもった眼差しで見つめてくることもないかもしれない。 だが今の彼は、まだ自分に盲目している。憧れの大人の男として見ている。それが緒方には愉快でたまらなかった。 「さあ、杉浦くん。早く君の絵を見せてくれ。私は待ち遠しくて仕方ないんだ」 緒方は手の中のスマートフォンをじっと見つめながら、再び高らかに笑い声を上げた。 そこに映ったメール内容は、たった一文。 『彼に手をだすな』 |