9話
「悪かったな」 杉浦はカゴのなかにペットボトルを入れながらとなりの松田に話した。 タバコ屋で目当てのものを買い、少し時間が余ったので、杉浦たちはアパート近くのコンビニによることにした。 中村と八木は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。先ほどの騒動から離れて気が楽になったのだろう。それぞれが雑誌に載っていた漫画の批評をしながら読み比べていた。 「あいつも悪い奴じゃないんだが、箱入りだったせいでちょっと頭が固いところがあるんだ」 杉浦と松田は少し離れた場所で飲み物と食料を買っていた。女性陣へのお土産である。松田も松田で、さやかに手をあげてしまったことを後悔しているのだ。 「……謝るのは僕じゃないでしょ」 「もちろん先輩にも後で謝るし、さやかにも謝らせる。けど本当なら、幼なじみである俺が止めるべきだったんだ。お前に手を出させて悪かったよ」 「・・・・・・もういいよ。先輩も気にしてないみたいだったし」 松田はため息をつき、お菓子コーナーからいくつか掴み取る。どれも低カロリーなものばかりだ。もう深夜でカロリーを気にする女性陣への配慮だろう。こういうことをさらりとやってのけるから女にもてるのだろうと杉浦は感心した。 もういいよ、といったわりには、松田はまだ不機嫌そうだ。拗ねたように口をとがらせ、杉浦のほうをにらみつける。 「でも、自分ばっかりソラさんにモデルしてもらってたことはゆるしてないんだからね。杉浦のばーか」 「だから、それも悪かったっていってるだろ」 杉浦は頭をかかえ、本日何度目かもわからない重いため息をついた。 先輩の大ファンである彼は、杉浦の予想通りかなり怒っている。しかもさわやかな見た目とは裏腹にしつこい彼は、何度も杉浦に文句を言ってきた。 松田自身、前々から先輩をモデルにしたいと話していたし、実際先輩がモデルとして大学に来た時はものすごく喜んでいた。今回杉浦が勝手にモデルを依頼していてすねているのだろう。さらにさやかとの一件もあり、機嫌はさらに悪くなっている。 怒らせると後が怖い男だ。もう試験前にノートを貸してくれなくなるかもしれない。万年貧乏のバイトマンである杉浦にとって、試験前にノートを借りられないのは死活問題だった。 「だから悪かったって。そうだ! お前もいっしょにデッサンさせてもらったらどうだ?」 「・・・・・・」 「先輩お前のこと気に入っているし、きっと大丈夫だって。な!」 諭すように松田の肩をばしばしと叩いた。 だが松田は、まゆをいっそうひそめ首を振った。 「ダメなんだよ、僕じゃ」 「なんでだよ」 「前に一回頼んだことがあるんだ。『僕のモデルをやってください』って。でも、断られた」 「え?」 「『私はもう、個人のモデルは受けないんだ』って」 「――――」 「お前は特別なんだよ、杉浦」 それくらいわかれよ、と松田に頭を軽く小突かれる。 レジに向かう後ろ姿がひどくさみしげに見えた。 「これ・・・・・・」 「そう、私」 スケッチブックの中に描かれていた藤井はひどく浮いて見えた。 細身の身体はおしげもなくさらされているが、それは色気というよりも赤ん坊が裸で水遊びをしているような無邪気さを感じられた。黒い瞳は重く深くこちらをじっと見つめており、まるでこちらの心を覗き込もうとしているようだ。薄い胸元や腰のラインは女性のラインを醸し出しているというのに、彼女の浮かべている表情はまさしく子どもの純粋さそのものだ。 さやかは思わず目の前にいる藤井と見比べた。退廃的で大人の雰囲気である彼女と、スケッチブックに描かれた少女のような女性とはまるで別人のようだった。 「ね? 違う人みたいでしょう?」 「・・・・・・」 「大抵の子はもっと大人の、見たままの私を描いてくれるの。だけど杉浦くんは違った。普段話している時や冗談を言った時の、ありのままの姿を描いてくれるの」 「ありのままの、姿」 「そう。私はそれが嬉しかった。虚勢や見栄で飾り付けられた自分より、そのままの、本当の自分を見抜いてくれた」 藤井はスケッチブックの中の自分をいとおしそうに撫ぜた。 「だから私は彼のモデルを引き受けたのよ」 自宅へ戻ると、時刻は十時をすぎていた。 「ただいま戻りました」 「おかえり。あれ、随分大荷物だね」 先輩はそう言いながら、買ってきた品物を受け取った。 「俺と松田からの詫びの品です。コンビニの菓子ですが。三人は『今日は取り込んでいるみたいだから』って帰りました。松田の家で飲みなおすそうです」 「そっか、なんか悪いことしちゃったみたいだね。さやかちゃんはどれがいい?」 「・・・・・」 先輩の後ろに隠れながら、さやかが顔をのぞかせている。さやかの方が身長は高いので隠れきれておらず、不安げな表情が丸見えだ。 「そういうわけだ、さやか。松田たちはもうこない。松田が叩いて悪かったって言ってたぞ」 「・・・・・・」 「お前もそろそろ帰らないと終電に間に合わなくなる。駅まで送ってやるから、今日はもう帰れ」 「・・・・・・良ちゃん」 「なんだよ」 「怒ってない?」 「あ?」 「・・・・・・っか、勝手にアパート来たこと! ・・・・・・怒ってる? 私、迷惑だった?」 さやかの大きな瞳がうるんでいく。黒目がふるふると震えているのは、泣き出す一歩手前の合図だ。身体は大きくなってもこういうところは変わらない。 杉浦はため息をつき、ガシガシと頭をかいた。 「何言ってんだ。まあ、突然来たのにはびっくりしたけどよ。ひさしぶりに懐かしい顔に会えて嬉しかった」 「ほんと? 今度からはメールも電話も出てくれる?」 「うっ」 「出てあげるよね、もちろん」 先輩がダメ押しをするように言った。 「…悪かったよ。たまにはちゃんと返事するから」 「!」 「よかったね、さやかちゃん」 「はい! ありがとうございました。蒼空さん!」 先輩の手を取り、さやかは喜びの声を上げた。艶やかな黒髪がふわりと揺れ、その様子に先輩も笑顔を浮かべていた。 (この二人、いつの間にこんな仲良くなったんだ?) 一時間前までは険悪なムードだったのに、短い時間の中で二人に一体何があったのだろう。 「それじゃあもう夜も遅いし、私も帰ろうかな」 先輩はうん、と背筋をのばすと、テーブルにかけてあった上着を羽織った。 「あ、俺送りますよ」 「ダメ。杉浦くんはさやかちゃんを送るの」 「でも・・・・・・」 すげなく断られたが、このあたりの住宅街は静かで人通りも少ない。外灯の数も少なく、女性ひとりで歩かせるのは少し心配だった。 すると、さやかが大きく手を上げた。 「あ、じゃあいっしょに帰りましょう! 同じ駅ですし」 「あれ、いいの? 杉浦くんと募る話もあるでしょう?」 「大丈夫です。さっき電話もメールもしてくれるって約束してくれたから。帰ったらバンバンメールします」 「おい! 俺はたまに相手してやるって言ったんだぞ!」 そう何度もメールを出されたらたまったものではない。杉浦たちが言い合う様子に、先輩はおかしそうに笑っていた。 「はは、じゃあいっしょに帰ろうかな。荷物とってくるからちょっと待ってて」 「はい」 さやかの元気な返事を聞き、先輩は荷物を取りに奥の部屋へと入っていった。 「えへへ」 「ずいぶん仲良くなったな。ちゃんと謝ったのか?」 「当たり前でしょう! 蒼空さんは良ちゃんと違って優しいからね。今度おうちに遊びに行く約束もしたんだ」 「げっ、またこっち来るのかよ」 「別に良ちゃんに会いにいくわけじゃないんだからいいでしょ」 さやかは少しすねたように、ぷう、と頬をふくらませた。見た目はずいぶんと大人っぽくなったのに、中身はちっとも変わっていない。 変わらず自分を慕ってくれる姿に、少しだけ安堵した。 そんなことを思っていると、さやかがふいに口を開いた。 「ねえ、良ちゃん」 「なんだよ」 「気をつけて。おじさん、何か企んでいるみたいだよ」 「あ? 親父?」 さやかの意図がわからず、おもわず聞き返した。 先輩に聞こえないように配慮しているのか、一歩杉浦の方に近づいてくる。そして胸元に手をおき、耳元で囁いてきた。 「前にウチに遊びに来たとき、お父さんに話していたの。『ようやく尻尾がつかめてきた』って。まだ良ちゃんがどこに住んでいるのかわからないみたいだけど、もしかしたら良ちゃんを連れ戻す気なのかもしれない」 「!!」 「私は良ちゃんのこと応援してるけど、おじさんたちは違うから・・・・・・気をつけてね」 「それって・・・・・・」 「おまたせ・・・・・・あれ、やっぱり私お邪魔かな?」 先輩が居間から戻ってきた。 先輩の一言にはたと今の状況を思い直す。傍目から見ればさやかは杉浦の腕に寄りかかっているようにも見えるだろう。 「ち、ちがいます!」 「そうですよ、ちょっと内緒話をしてただけです。さあ、いきましょう!」 さやかは杉浦の腕を思い切り引っ張り、先輩の手もとって歩き出した。まるで幼稚園児の行進のようである。 「おい、ひっぱるなよ」 「いやあ、若い子は元気だね」 「いや先輩、俺らたいして年変わりませんから」 「そうですよ! それに見た目では蒼空さんが一番年下に見えますから!」 「馬鹿お前それフォローになってねえよ!」 「あはは!」 玄関を出ると冷たい夜風が体に吹き付ける。それでも、寒いとは感じられなかった。 |