12話



 

今日のデッサンは、思ったよりも和やかな雰囲気だった。

 先ほど昔話に花を咲かせたからだろうか。デッサン中の会話も幼い頃の思い出話で盛り上がった。しんみりとした空気を強制的に終わらせたにもかかわらずだ。

「それでね、妹ったら転んだ勢いでゴミ箱につっこんじゃったの。脇腹と足を思いきり打って大泣きしてたんだ。ドジだよね〜」

 藤井は熱心に妹の失敗談を語った。その頬はほんのりと赤く染まり、生き生きとしている。

「それはまたすごいっすね。先輩とそっくりでしっかりしてるのかと思ってました」

「あはは、小学生だったからね。でもそのおかげで医者を目指すきっかけになったんだから、人生なにが起こるかわからないもんだよね」

「あ、それがきっかけなんですね。すげえなあ」。

杉浦は話を聞きながら、薄桃色に色づいた身体の線をなぞるように、鉛筆を走らせた。あれだけ夕食を食べたというのに、藤井の腹部はぺこりと凹んだままで、形の良いへそがはっきりと見えるほどだ。

 杉浦はその形の良いへそを描きあげながら、ふと思いついた。

 藤井はなぜ、音楽の道を目指したのだろう。

「あの、先輩。ちょっと聞いてもいいですか」

「うん?」

「答えたくなかったらいいんすけど。先輩はどうして、音楽科に入ろうと思ったんですか?」

「・・・・・・」

「もし嫌だったら言ってください。ちょっと聞いてみたかっただけなんで」

 杉浦はくるくると鉛筆を回しながら、なんでもない風に付け足した。先ほどの夕食での反省を踏まえた結果である。

 先輩は口元を指でそっと撫でながら、少しだけ悩んだあと答えてくれた。

「・・・・・・私はね、歌うのが大好きだったんだ」

 先程まで思い出話をしていたからだろうか。思っていたよりも饒舌に藤井は語り始めた。

「小さい頃、近所のお寺でお祭りがあってね。そこでカラオケ大会みたいなのがあって、それに参加したんだ。ちょうど境内の菩提樹の花が見頃でね。ステージの上に上がると緊張してお客さんのほうが見れなくなって、遠くに咲いてた真っ白な花ばかり見てたの」

 杉浦は無意識のうちにスケッチブックのページをめくる。新しい藤井の表情が、白紙のページに浮かび上がってきた。

 

「歌い終わったら、お客さんたちがみんな笑顔で拍手してくれて、嬉しかったなあ。結局優勝にはなれなかったけど、胸の奥がふわふわして気持ちよかったんだ。それから、もっとみんなを笑顔にしたい。歌で元気にさせてあげたいって思って、あの大学に進学したんだよ」

「へえ・・・・・・すごいっすね」

「すごくなんかないよ。結局私は、諦めちゃったんだから」

 カリカリ。鋭く尖った鉛筆が何度も何度も擦れる音がした。スケッチブックの中の藤井が、もの悲しげな表情に変わっていく。

 杉浦は練り消しでその表情を消した。

 ちがう、この人に似合うのはこんな表情じゃない。

「ちがいます」

「え」

 無意識のうちに言葉を発していて、杉浦はハッと息を飲んだ。

「えっと、十分すごいと思います。だって俺なんかただ憧れてこの世界に入って、自分が描きたいから油絵描いているだけなんすよ。誰かの為とか、そんなの考えたこともないし」

「ああ、でもそれだって立派な理由じゃない」

 藤井にそう言われても、杉浦はかたくなに首を振った。

 ずっと一人で抱え続けてきた言葉が、溢れそうになる。

「ちがう、ちがうんです。本当は、俺はただ、逃げ出しただけなんですよ」

「・・・・・・」

 藤井はまとっていた薄手のシーツをかぶり、足を組み直した。

 ただならぬ雰囲気に何かを感じたのかもしれない。それでも、ただじっと杉浦からの言葉を待ってくれたのはありがたかった。

 ここのところの寝不足で疲れていたのか、それとも藤井の思い出話に触発されたのかはわからない。ただ、普段隠し通してきた杉浦の思いが喉元まで溢れ、絶えずこみ上げてきたのはわかった。そして、もう自分ではそれを抑えきれないことも、分かってしまった。

 杉浦はそれでも無関心を装って話し始めた。

「前に、俺の実家が茶道の家柄だって話しましたよね」

「うん」

「特に俺の家は流派の代表格だったから、なおさら厳しく稽古をさせられました。遊ぶ時間もないくらいみっちりとね。それでも昔はまだ楽しかったんです。普段はきびしい親父がうまく出来た時だけは褒めてくれて、だから家を継ぐのも、特に嫌だとは思わなかったんです」

 何を書くわけでもなく、白紙のページに鉛筆を走らせる。ぐるぐると小さく描かれた黒い線は、まるで自分のようだと杉浦は感じた。

「でも、親父はそれだけじゃ満足しなかった。親父は自分の家柄を一番偉く、強くさせたがっていたんです。息子には大学進学じゃなく、早くから師匠の下で修行させようとしたり、別の代表格の娘と政略結婚させたりして、家の権力を強くしようとしていたんです。今どき政略結婚なんて、ないでしょう」

「・・・もしかして、その娘って」

「そうです、さやかですよ。あいつも同じ流派の家元で、さやかの親父と俺の親父が親友なんです。さやかは元々家を継ぐつもりでいたので、了承はしたんですけど、俺は納得できなかった。自分は親父の理想の手駒として育てられたんだって思うと、何もかもが嫌になったんです」

「・・・・・・」

 先輩はじっと杉浦の話を聞き入っていた。

 ここまで話したのは久しぶりかもしれない。よくここまで口が回るなと、杉浦は自分でも驚いていた。余計なことまで話している自覚はあったがとまらない。

 鉛筆の線は少しずつ黒く太く、肥大化している。

「それから高校三年の時に画家を目指そうとして、親父と大喧嘩。おふくろは親父が怖くて逆らえなかったけど、あんたの好きにしろって言ってくれて、進学するのを手伝ってくれました」

「・・・・・・」

「だから俺は、先輩みたいに目標があってやってるわけじゃないんすよ。目の前の問題から逃げ出した、ただの臆病者なんです」

 ボキリ。

杉浦が話し終えた瞬間、鉛筆の芯が勢いよく畳の上に転がった。鉛筆の線はいつの間にかスケッチブックの四分の一まで広がっており、デッサン画の藤井が隠れてしまっている。

鉛のひっかき傷はパッと見ただけでもわかるくらいまでへこんでおり、その下の用紙にまで写ってしまっているかもしれない。

わずかにしびれを感じた右手は白く変色してしまっている。けっこう力が入っていたんだなと、杉浦は他人事のように思った。

「・・・・・・」

 最後まで身動き一つせずに聞いていた藤井は、ゆっくりと組んだ足を広げ立ち上がる。肩にシーツをひっかけたまま杉浦の方へ近づいてきた。

 うつむいた杉浦の視線に、形の良いへそが入ってくる。細長いそれは、藤井の呼吸に合わせ上下する。彼女の生きている証だ。

何も言わずにじっと見つめていると、杉浦は頬に軽い痛みを感じた。

 藤井の細く小さな手が、杉浦の頬を挟むように叩いたのだ。

「・・・・・・先輩、いたいっす」

「うりゃー」

「だから、いたいって」

 ぐりぐりと押し付けるように、藤井は杉浦の頬を強く挟み込んだ。小さな手のひらは小枝のようにひょろっとしているのに、ほんのりと湿っていて暖かい。いつも藤井が吸っている『ブラットデビル』の甘ったるい匂いに優しく包み込まれ、鼻の奥がツンとなるのがわかった。

「ぶふっ」

 潰れた顔をむりやり持ち上げられ、藤井が吹き出すと、杉浦も思わず腕を振り払った。

「だあーもう、痛いって何度も言ってるじゃないっすか!」

「よしよし、元気になったね。今夜は飲もう!」

「・・・はあ!?

 藤井はにっこり微笑むと、シーツをまとって台所にかけこんだ。

「確か前に松田くんたちが持ってきてくれたお酒が残っていたよね。あっ、ビールは私がもらうからね!」

「いやいやいやいや、なんで急にそんなこと言ってるんですか」

「な〜に言ってるの。こういうしんみりした雰囲気の時は飲んで食べて忘れる方がいいんだよ。吐き出した分だけお腹に入れて、それがそのまま明日を生きる糧に変わるんだ。大丈夫、杉浦くんはまだ若いんだし、頑張れるよ」

「先輩だって、俺とそんなに変わらないじゃないすか」

 居酒屋で飲んだくれた親父が言いそうな理論だ。

 ふてくされたようにつぶやいた杉浦の元に、酒とおつまみを持った藤井が戻ってくる。ストロングゼロの缶をぷしゅっと開けると、杉浦に差し出してきた。

「年齢が近くても、私と杉浦くんじゃ全然違うんだよ。私はもう夢を諦めちゃったから。でも杉浦くんは、まだまだこれから。これから一生懸命花を咲かせるんだよ」

「・・・・・・」

 杉浦が渡された缶をじっと見ている間に、先輩は手早く服を着た。パーカーにスウェットというラフな格好に戻ると、藤井の分のビールを開けてぐいっと目の前に差し出してきた。

「さあ、今日は飲もう!」

 ニコニコとした顔は子どもっぽく、まるで不良少年と酒を飲もうとしているようで、杉浦は若干の犯罪臭を感じた。それでもその笑みは確かに杉浦の心を元気づけたのだ。

「・・・うっす」

 杉浦は差し出されたビールの缶に自分の発泡酒のそれを打ち付けた。

 カツン、と薄っぺらいアルミの音が響いた。

 

年上の女性と二人きりで飲む、というシチュエーションなのに、藤井と飲むと色気のかけらもない。

互いに大口をあけながら笑い合う様は、まるで男友達と飲むような気安さを感じた。

 酔いが回ってくると、藤井は即興で歌いだした。普段のハスキーな声より二オクターブは高い美声がボロいアパートの一室に響き渡る。さすがプロを目指していただけあり、腹に力の入った心地よい声色が、藤井の薄い唇の隙間から溢れてきた。

 杉浦も釣られて歌ったり、筆と水バケツをドラムに見立ててパーカッションをしたりした。隣の住人がどんと薄い壁を叩くと一瞬だまり、それがまたおもしろくてさらに大声で笑った。

 とうとう酔いが周り、ウトウトし始めた頃。

 杉浦はまぶたを閉じながら思いついた。

(そうだ、先輩を描こう。普段の礼も兼ねて、先輩に絵を送ろう。そうだそれがいい。さっそく構図を考えないと・・・)

 酔いに浮かされた杉浦は頭の中で鉛筆を走らせる。次々に溢れ出すアイディアに口元を緩めながら、杉浦は眠りについた。

 幸せそうに眠る杉浦を、ビターチョコレートの香りが優しく包み込んだ。


 



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2013,09,23