14話



 

 大型連休も過ぎ、だんだんと日差しが強くなってくる頃。

 杉浦は目の前のキャンパスに、最後の一筆を下ろした。

「・・・いよっしゃ! ようやく完成だ」

 だはー、と畳の上に寝転がる。杉浦の目の前にはA4サイズの油絵がカンバスに立てかけられていた。

 青をベースとし、ワンピースのような服を着た藤井が花を持って微笑んでいる。その表情は屈託のない純粋な笑みで、いつも杉浦の前で浮かべている子どもじみた表情だ。だが組んだ足や花束を抱える腕はしなやかで、幼い顔立ちとは逆に成人した女性らしいフォルムにしている。

 手に持っているのはマリーゴールド。先輩の髪の色とよく似たそれは青色の世界の中でよく映えており、我ながら良く描けたと、杉浦は満足げに見直した。

「しばらく乾くのに時間かかるから見せるのはもうちょっと先だけど、連絡だけ先に入れておくか。うわあ、緊張するな・・・」

 杉浦は震えそうになる手を諌めながら、先日教えてもらったメールアドレスに文章を打つ。書いては消し、書いては消しを繰り返しながらようやく出来上がった文章は、先日のお礼と作品が出来上がったことのみを書いた簡素な文章だった。

 杉浦は何度もメールの内容を確認しながら、送信ボタンを押す。

 緒方の返信はすぐに来た。

「なになに? ・・・『楽しみにしていたよ。それでは早速今週末に会いに行ってもいいかな?』。もももももちろんです! お願いします」

 携帯に向かってそのまま話しても伝わらないことはわかっているが、それでも杉浦は何度も携帯ごしに感謝を告げた。

まだ約束を取り付けただけなのに、ガッツポーズまでとっている。

浮かれていた杉浦だったが、よく見ると画面の下に文字が続いているのがわかった。

「ってあれ? まだ何か書いてある。『それと、私の知人なんだが、よければ連れて行ってもいいかな? 是非とも君の絵が見たいと言っているんだ』・・・へっ 知り合い?」

 思わぬコメントに杉浦は戸惑ったが、特に断る理由もないので了承の旨を伝えた。その返信も、また早いものだった。

「『ありがとう。それでは当日を楽しみにしているよ』か。でも、知り合いって誰だ? もしかして同職の画家さんか? もしそこで俺の才能が認められて、画家デビューしちゃったら・・・でへへ、それはそれでやべーなあ!」

 あらぬ想像にはずむ杉浦の脳内は、まさしくお花畑だった。

浮かれながら何度もメール画面を確認する。

「そうだ、先輩にも連絡しておこう。『絵が完成したので、よければ今週末見に来てください』っと」

 先輩からの返信も早かった。

「『ようやく完成したんだね。おめでとう! それじゃあ今週末いつもの時間に会いにいくよ』か。緒方さんと同じ日だけど、時間がずれているから大丈夫だよな。あ〜! もう週末が楽しみすぎる!」

 畳の上に寝転がり、杉浦はごろごろと身悶えした。危うくキャンパスに当たりそうになり、慌てて起き上がるものの、やはりにへりと頬をゆるめた。キャンパスの中の藤井の笑みがどこか呆れたような苦笑いを浮かべているようだ。

キャンバスの後ろでは、灰色がかった雲が窓の隙間から覗き込んでいた。


 ************************************

 

 杉浦にとって待ちに待った週末。

 その日はあいにくの雨だった。

少し早めの梅雨前線が都内に上陸し、滝のような雨が降り続ける。湿気がこもり、アパートの中には蒸し暑い空気が立ち込めている。

週末までに油絵が乾くかどうか心配していたが、約束の日の朝にはどうにか乾いてくれたため、杉浦は安心して緒方たちの来訪を待つ事ができた。

もうそろそろお昼を過ぎようとした頃、玄関のチャイムが鳴った。

今か今かと待ちわびていた杉浦は、大急ぎでドアを開けた。

 扉の向こうには、前回会った時よりもラフなシャツに黒地のカーゴパンツをはいた緒方が笑顔を浮かべていた。その手には濡れた傘とビニール袋を掲えている。

「やあ、今日はお招き頂いてありがとう。これ、よかったら食べて」

「うわあ、ありがとうございます」

「行きつけのお店でね。特に私おすすめのを買ってきたんだ。モデルの子と一緒に食べてくれ」

「わざわざ気を使ってもらってすみません・・・って、あれ?」

杉浦は玄関のあたりをキョロキョロと見回した。

確かメールでは、緒方の知り合いも一緒に来ると聞いていたのだが、訪れたのは、緒方一人だけだった。 

「お連れの人が来るって聞いてたんですけど・・・」

「ああ、少し用事があるそうでね。あとから合流するそうだ」

「そうなんですか・・・。あ、どうぞ。狭くて汚いところですが、上がってください」

「うん、お邪魔するよ」

 緒方は少し頭を下げて玄関を通り抜けてきた。長身な彼にとってボロいアパートの扉は少し小さすぎるようだ。その一つ一つの動作でさえも、杉浦は大人の匂いを感じていた。

 緒方は中に入ると、くるりと中を見渡す。

 最近買ったフライパンなどが見えており、生活感が出ていて、杉浦は少し気恥ずかしく思えた。

「へえ、意外と片付いてるんだね」

「あはは、いや全然ですよ。あ、コーヒーでも飲みますか?」

「いや、結構だ。それよりも、早速絵を見させてもらいたいんだけど、いいかな?」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 杉浦はあわてて居間の方に通した。

散らかっていた画材の類は押し入れに詰め込めるだけ詰め込んだ。ささくれだった畳の上には、茶色のキャンバスと、杉浦力作の油絵が置いてある。

緒方はさっそく油絵に歩み寄った。

口元に手を当て、様々な角度に首を動かしながら鑑賞している。

緒方が身体を動かすたびに、背後から見守る杉浦は、緊張の眼差しで見守る。緒方の目に、この作品はどう映っているのだろうか。そんなことを思いながら、杉浦は緒方の広くがっしりとした背中がふりむくのを待った。

しばらく観察した後、緒方はふうと息をはいた。そして杉浦に背を向けたまま声をかけてくる。

「ふむ・・・このモデルはもちろん、例の子だよね?」

「あ、はい、バイト先の先輩です。俺的には結構上手く描けたなって思ってるんですよ。あ、もちろん緒方さんから見たら全然ダメなんだろうけど」

 いや、そんなことはないよ。よく出来ているじゃないか。

心優しい緒方のことだ。きっとそう話してくれるだろう。

そんな杉浦の甘い考えは、打ち砕かれた。

「ああ、そうだね。全然ダメだ」

「ですよね〜やっぱり・・・えっ?」

「全然ダメだ。この絵は彼女の魅力が全然引き立っていない」

「は・・・・・・」

「彼女はもっと退廃的ですさんだ感じのほうが似合うよ。それにこの絵の場合だと、彼女が女性らしく見えすぎている。もっと中性的に描くべきだったね」

 くく、とくぐもった音が聞こえる。それが笑い声だと気づいたのは、彼が杉浦の方を振り返った時だった。腕を組んだ緒方の頬がひどくつり上がっている。温和な目元は細められ、杉浦の瞳をするどく見つめ返してくる。

「・・・・・・っ!?

 その眼差しに、杉浦はぞくりと背筋を震わせた。

 一体どうしたのだろう。穏やかで優しかった緒方が、油絵を見た途端に態度を一変させた。あまりの変わりように杉浦も思考が追いつかない。

 絵の稚拙な部分を指摘してくるのならまだわかる。そこは自分の未熟さであり、成長するために把握しておかなければならない部分だからだ。その点では厳しい指導を覚悟していたし、また、望んですらいた。

だが、緒方が指摘しているのは、モデルである藤井についてのことだけだ。

 確かに藤井は普段から男物の服を着ているし、髪の色も金髪に染めてちょっとした不良のような格好をしている。だが中身はまさしく大人の女性であり、口元を大きく開けて笑うような子どもらしい面も持ち合わせていた。

杉浦は、そんなありのままの姿が好きだった。だからありのままの藤井をキャンパスに描いたのだ。

それなのに緒方は、その姿を否定した。

「・・・なぜあなたにそんなことを言われなきゃならないんですか」

「おや、先輩画家の意見は聞くものだろう?」

杉浦は困惑と侮蔑の目線を向ける。杉浦の動揺に対し、緒方は平然としていた。キャンパスの中で笑う藤井が、ひどく滑稽に思える。

「あなたのそれは、技術の未熟さについてじゃない。モデルの・・・先輩に対しての意見だけだ。そんなものは意見でも、指導でもない」

「それが未熟さだと言っているんだよ。杉浦くん。モデルの魅力を最高に引き出して描くのが画家の仕事さ」

そんな杉浦の姿にひるむことなく、緒方は芝居めいた挙動で受け流した。まるでタチの悪いいじめっ子のようだ。彼自身、自分は悪いことを行っているつもりではないのだろう。あくまでもありのまま、自分が思ったことをそのまま伝えているのだ。

それでも、反論しないわけにはいかない。緒方は自分の絵だけでなく、藤井まで侮辱しているのだから。

「俺は、これが先輩の魅力だと思ったから描いたんです。確かに技術は未熟かもしれねえけど、自分なりに満足の出来栄えになった。それならあなたは、描けるんですか? 先輩の魅力を最大限に生かして」

杉浦は怒りを抑えながら、静かに問いかけた。

確かに技術的な面では彼の方が上だろうが、藤井との付き合いは杉浦の方が長い。それなりに気心も通じているし、一目見ただけの緒方には、彼女の魅力は到底描けないだろうと思っていた。

だが緒方は、杉浦の言葉に、より一層笑みを深めた。

その言葉を待っていたとばかりに。

「ああ、描けるとも」

「なっ」

「正しくは、もう描いていたんだよ」

「なんだって?」

 目を見開いた杉浦の耳元に、緒方は優しくささやきかけた。

「君も好きだと言ってくれただろう?」

 残酷な言葉が耳の奥から心臓にまで突き刺さる。

(・・・まさか)

 

「『遼遠』だよ。あれは彼女をモデルにして描いたんだ。君と同い年だった頃に、ね」

 

「―――――っっ!!

 頭の中に、巨大なキャンバスに描かれた子どもの眼差しが浮かび上がる。

緒方の言葉は、今度こそ徹底的に、杉浦を痛めつけた。

 

 その時、玄関の方から、扉の開く音が聞こえた。

 藤井だった。

「先輩!?

「ごめんね杉浦くん。驚かせようと思って、いつもよりちょっと早くに来ちゃった。ところで今誰か来て・・・っ!?

「久しぶりだね、蒼空。先に彼の絵を拝見させてもらったよ」

 先輩の顔がみるみるうちに固まっていく。杉浦の後ろにいた緒方の姿を見つけたのだ。かつて美術館で『遼遠』を見つめていた時と同じ眼差しを、今度は緒方に向けていた。

「緒方、なんであんたがここにいるんだ!」

「彼にぜひ絵を見て欲しいと言われてね。いやあ全くひどいものだった。君が気にいったというからどれほどすごい腕前なのかと思ったら、とんだ期待はずれだったよ」

「杉浦くんは関係ないって言ったはずだ。もうこれ以上関わるな!」

「ああ、あのメールのことかい? そういうわけにはいかないよ。君はモデルの中でも特に気に入っていたんだ。それがこんな君の魅力もわからない若者相手にモデルをやってるなんて信じられないよ」

「なんだと、この」

「先輩」

 今にも胸ぐらをつかみそうな勢いだった藤井を腕で止め、杉浦は声をかけた。自分でも驚くほど低い、静かな声だった。

 その声に藤井は動きを止めた。

「先輩と緒方さん、知り合いだったんですか?」

「・・・・・・大学時代に彼のモデルをやっただけだよ」

「蒼空、大事な部分が抜けているんじゃないか。当時は私と付き合っていただろう?」

「はっ! 自分はそんな気もなかったくせに、よくもぬけぬけと言えるものだね」

「何を言うんだい。私は君を愛していたさ、モデルとしてね。そしてその愛は今でも変わらない・・・・・・なあ蒼空、私たちやり直さないか?」

「・・・・・・なんだって」

「また君の絵が描きたくなったんだ。こんな君の魅力を理解していない男に描かれるよりよっぽどいいだろう? 今のその服も、すごく似合っているよ」

「ふざけるのもいい加減にしろ!!

 その時、杉浦の携帯に着信が入る。松田からだ。

 一旦着信を切っても、メロディー音は絶えず流れた。

 電源ごと切ろうとした杉浦を、緒方が制止する。

「緊急の電話だったら大変だ。早く出たほうがいいんじゃないかい?」

「・・・・・・」

(そんな空気じゃねえだろうに)

軽く舌打ちをしながら、杉浦は電話に出た。文句の一つでも言ってやろうと思い切り息を吸って構える。

 だが、電話口からは予想より高い声が聞こえた。

「良ちゃん。大変なの」

「さやか!? お前、なんで松田の携帯持ってるんだよ」

「蒼空さんに言われて、松田さんと買い出しに来てたの。それより早く大学に来て!」

「は? 大学に? なんでだよ」

「大学におじさんが来てるの! 良ちゃんのお父さんが!」

「親父が

「お願い、早く!」

 そう言うと、着信は一方的に切られた。

 呆然とする杉浦に、緒方はにっこりと笑みを浮かべる。

そして、杉浦たちの横を通り過ぎ、玄関へと歩き出した。

なぜかその手には、杉浦の描いた油絵が握られている。

「向こうは大変みたいだね。さあ、私たちも早く移動しようか。アパートの外でタクシーを待たせてあるんだ」

「どこに行くんですか? それにその絵、どこに持っていくつもりです」

「決まっているじゃないか、見せに行くんだよ。もう一人の客人にね」

 

 



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2013,10,12