15話



 

 杉浦が講義室に駆け込むと、不吉な音が杉浦の耳に飛び込んできた。

  紙を手で裂くような乾いた音が耳にこびりつく。

 講義室の中央では、着物姿の男がこちらに背中を向けて立っている。松葉色の着流しに黒檀色の羽織を着ており、外では雨が降っているというのに、漆塗りのいかにも高そうな下駄を履いている。やや小柄で恰幅のよい格好をしているが、その割には背筋がしゃんと伸びており、長年着物を着て過ごした人間の貫禄が現れている。

その足元には無数の紙切れがあった。細かくちぎられた上に男に踏みつけられてぐしゃぐしゃになっていたが、それが何だったのかは、杉浦にはすぐわかった。

 木炭によって何度も書き直されたそれは、講義室に掲示されていたはずの杉浦のデッサン画だった。

「・・・何してんだよ、くそ親父」

 杉浦の問いかけに、男は手をとめ、振り返る。

 久しぶりに見た父親の顔は、相変わらず無骨で吐き気をもよおすような顔だった。

四角い輪郭の中には深いシワがいくつも刻まれ、無愛想な顔立ちをさらにいかつく強調している。落ちくぼんだ瞳は杉浦の顔を一瞥し、ぎらぎらと睨みつけてきた。

「ようやく来たか。 久しぶりに会いに来てやったというのに、ほかに言うことはないのか?」

「息子の作品をズタズタにしておいて、何を言ってるんだ」

「ふん。家も継がず、ろくに帰省しない親不孝物がえらい口を叩けたものだな。挙げ句の果てに、こんなくだらないものにかまけおって」

 はらり、と父親の手からデッサン画の切れはしが落ちた。グシャグシャに握りつぶされ、切り刻まれたそれは、父親の足元に力なく倒れてしまった。

 背後からは、藤井や松田たちの息を飲む気配をひしひしと感じていた。さやかにいたっては、あまりの惨事に嗚咽を漏らしている。

 杉浦はこらえきれず、父親に詰め寄った。父親の方はといえば、そんな息子の様子にも全く動じていない。

「なんで・・・・・・なんでこの場所がわかったんだ。母さんたちにも秘密にしていたのに!!

「それは私が教えたからだよ。杉浦くん」

「っ!」

 松田たちを押しのけ、緒方が講義室の中に入ってきた。

手には杉浦の油絵を抱えており、緒方は父親に向かってうやうやしく一礼をする。

「ご無沙汰しておりました、泰三(たいぞう)さん」

「おお、緒方くんも来ていたか。まったく、君の才能は認めているが、息子まで巻き込まんでくれよ。おかげで面倒なことになってしまった」

「これはこれは申し訳ありません。ですが私の情報はお役に立ったでしょう?」

 大人二人が談笑する姿に、杉浦は目を見張った。幼い頃から厳格だった父親は、杉浦の前ではほとんど笑ったことなどない。ましてや杉浦が画家を目指すと言ってからは、絵画関係の話など聞きたくもない様子だったのに。

 杉浦は、震える声で緒方に訪ねた。

「二人とも、知り合いだったのか?」

 杉浦の問いかけに、緒方は柔和な笑みを向けながら答えた。

「ああそうだよ。昔、私の個展に来てくれたことがあってね。なんでも最近、後継者である息子が絵の世界に目覚めたとか行って家を飛び出してしまったと聞いてね。しかもその原因が私の絵を見たからなんて聞いてしまっては、私がどうにかしなければと思っていたんだ」

 そう言って緒方は、床に散らばった紙切れをぐしゃりと踏み潰した。整った顔立ちには笑みが浮かんでおり、自分を慕ってきた後輩にする所業とは到底思えなかった。

「そうだ緒方くん。君から見て、私の息子の絵はどうだったかな?」

「問題外ですね。モデルである彼女の魅力を引き出しきれていない。全く、彼女もどうして彼のモデルを引き受けたんだか。よろしければ、彼が一番最近に描いた絵をご覧になりますか? デッサン画と比べてみてください」

「ふむ、いいだろう。貸してみなさい」

「っ!?

 緒方は父親に油絵を手渡した。父親の手が触れた瞬間、藤井の純粋な笑顔が汚されたような気がして、杉浦の背筋に悪寒が走った。

「やめろ緒方!」

 杉浦が止めようとするより早く、藤井が二人の間に割り込んできた。キャンパスのふちを掴み、必死に絵を奪い取ろうとするが、大の男相手に力比べではかなわない。

「邪魔をするな」

「きゃっ」

「先輩!」

 父親は容赦なく藤井を突き飛ばした。小柄な藤井の身体は簡単に倒れ、紙切れの上に尻餅をついた。慌てて杉浦が駆け寄り、起き上がるのを支える。

 そんな息子たちには一瞥もくれず、父親はじっと油絵を見つめる。落ちくぼんだ瞳がジロジロと舐めまわすように絵の中の藤井を眺めた。

「くだらんな」

 そう一言つぶやくと、父親は水張りテープをはがし、額縁の上から勢いよく紙をはがした。

 びりりと音を立てながら破れたそれは、キャンパスの端から端まで一気に一気に剥がれ落ち、藤井の笑顔を半分に切り裂いた。

「―――――――」

 もはや、声も出なかった。

 あれほど悩み、苦労しながら描いた油絵は、一瞬で紙切れに変わってしまった。父親の手によって丹念に握りつぶされた後、杉浦の目の前で足元のデッサン画とひとつになった。ただの板になったキャンパスも床に落ち、乾いた音を講義室中に響かせた。

 軽く手のほこりをはらった後、父親は杉浦のほうへ向き直ると説教を始めた。

「まったく、世話の焼ける息子だ。せっかく幼い頃から目をかけてやったというのに。こんな大学など、さっさとやめてしまえ」

「そういうわけだ、杉浦くん。君はこの道を諦めたほうがいい。君には、才能なんてないんだよ」

 失笑混じりの囁きが杉浦の耳に入り込んでくる。その言葉は呪いのように、杉浦の頭の中で何度も反響した。

「さて、人も集まってきましたし、我々も帰りましょうか」

「ふむ、そうしよう。今回の礼にまた絵を依頼させてくれ。こんなナマクラの描くような絵でなく、本物の絵を頼むよ」

「ええ、もちろんです」

 二人は何事もなかったように出口へと向かう。その途中、しゃがみこんだ藤井の前で父親が立ち止まった。

困惑の目を向ける藤井に、父親はフンと鼻を鳴らした。

「若い娘がそんなチャラチャラした格好をしおって。息子を惑わさないでもらいたいものだな」

「・・・・・・!!

 藤井の肩がびくりと跳ね上がる。緒方はそんな父親をなだめ、藤井の耳元に優しく囁いてきた。

「泰三さん、それが彼女の魅力なんですよ。私が見出した蒼空の魅力です。・・・・・・いつでも戻っておいで、蒼空」

 藤井が反応する間もなく緒方は立ち上がり、父親と談笑しながら講義室を出て行った。

残されたのは呆然とする杉浦たちと、床に散らばった残骸だけ。

 力なく座り込んだ杉浦の耳には、窓の音から降り続ける豪雨の音と、カラコロと鳴る下駄の音がいつまでも残っていた。


 



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2013,10,12