16話
緒方たちが帰った後、どうやってアパートに戻ったのか覚えていない。 気づいた時には畳の上に座り込んでいて、先輩や松田、さやかたちが心配そうに俺を見つめていた。腕の中には親父の手によってちりぢりに刻まれたデッサン画を抱えていて、手が白くなるほど強く握りこんでいたことに気づいた。 松田たちがなにか話していたような気がするが、よく覚えていない。とにかく一人になりたくて、松田たちには帰ってもらった。 先輩の顔は、最後まで見られなかった。 一人になると、六畳半の部屋は存外広く思えた。緒方が来ることに備え、散らばっていた画材道具を全部押し入れに突っ込んだからだろう。外はすっかり暗くなっていたが、ごちゃごちゃの押し入れから布団を取り出す気にはなれなかった。 杉浦はまた、ささくれだった畳の上にごろりと寝転がった。軽く頭を打ち、にぶい痛みが側頭部に響くが、あえて無視をする。 外からはネオンの明かりが差し込み、雨で濡れた窓ガラスに反射して、何十倍にも輝いて見えた。 夜の街は相も変わらずにぎやかだ。普段はそんなに耳ざわりには聞こえないのに、不思議といつもより響いて聞こえた。 (そうか、今日は先輩がいないから) 握りこんでいた手のひらをゆっくりと解く。ぐしゃぐしゃになった紙片がはらりと落ちていった。くしゃくしゃになった藤井の顔が、悲しいほどに輝いた笑みを向けていた。 もう何もかもが信じられなくなっていた。自分はなんて愚かなのだとも思った。 緒方の目的は、最初から自分を蹴落とすことだったのだ。 大人に縛られるのが嫌で家を飛び出したのに、結局自分は大人の手のひらで踊らされていた。おだてられ、さんざん持ち上げられた後で、叩き落とされた。 ただそれだけのことなのだと頭では理解しているのに、どうして身体は動いてくれないのだろう。 自分が信じていた夢は、こんなにも脆いものだったのか。 (くそ、) 散らばった紙片にむかって、叩きつけるように拳を振り上げた。 何度も、何度も、執拗に。 かさり。 かさり。 紙片が歪み、こすれる音も出なくなった それでも何度も叩き続けた。 どん、どん、どん、どん。 どん、どん、どん、どん。 次第に力が入り、手のひらに血が滲んでくる。スケッチブックの切れ端に赤い斑点がついてきたが、止まらない。 (こんな手なんか、なければ良かった。そうすれば親父も家を継がせようとも思わなかったし、緒方さんに変なあこがれを抱いて、馬鹿にされることもなかったんだ) (こんな手なんか、なくなればいい。なくなれ、なくなれ) 「なくなっちまえよっ!!」 最後にひときわ強く拳を振り下ろし、手をほどいた。今さら痛覚が戻り、ズキズキとした痛みが覆い始め、しびれが走る。それでも瞳は少しも潤むことがなく、乾いたままだった。 杉浦は涙すら流せないほどの感情を、持て余すことしかできなかった。 それから三日間はアパートにこもっていた。 なにをするわけでもなく、ただじっと畳の上で寝転がっていた。 畳の上の血はすっかり乾ききり、かさぶたになった手のひらも、カピカピに乾ききっていた。動かせば多少は痛むが、普通に生活する分には申し分ない。 松田たちから何度かメールが入っていた。教授たちには話しておくので今は休めという事と、なにか必要なものがあればアパートまで持っていくというメールだった。友人たちの気遣いに感謝しながら、杉浦は手短に礼だけ伝えた。 藤井からはただ一言だけ、『ごめん』と書かれたメールが来た。なにか返事を書こうと何度もメール画面を開いたが、結局、どの言葉も藤井に送られることはなかった。 結局あの日以来、筆を持つことはなかった。 四日目からはバイトに復帰することになった。さすがに生活費がなければ生きていくことはできないし、なにより動いていれば、何も考えずにすむからだ。 大学へ行かない代わりに、がむしゃらに働いた。無理を言って大量にシフトを入れてもらい、作り笑いを貼り付けて動きまくった。ただ、藤井にだけは会わないように、まかないは食べずに速攻で帰宅した。 習慣になっていた『一日三食しっかり食べる』はなくなり、夕食どころか一日一食程度しか食べなくなった。不思議と腹が減らなくなったのだ。 (先輩が聞いたら、また不健康だって怒られるんだろうな) バイト中にずっとそんなことを考えながら、杉浦は今日も酔っ払った大人たちにビールやおつまみを運んだ。 あれほど嫌だった赤ら顔のおっさん達が、大して嫌いでもなくなった。緒方や父親に比べればまだマシな方だと気づけたからだろう。 そんな堕落した生活を送り続けた杉浦には、いつしか休憩室から甘い煙の匂いが消えたことにも気づかなかった。 大学に行かなくなってから一週間が経ったある日。 藤井が杉浦のアパートを訪れた。 といっても、姿を見たわけではない。ただ、杉浦がバイトから帰宅すると、ドアノブにビニール袋がかけられていたのだ。中にはタッパーに詰められたサラダやおかずが詰め込まれており、一口つまんでみるとなつかしい味がした。 「相変わらず、面倒見のいい人だな・・・ん、なんだこれ?」 袋の中をあさってみると、中から一枚の紙きれが出てきた。四つ折りにされていたそれは、小さく丁寧な文字が並んでいる。 藤井からの伝言だった。 『杉浦くんへ 今までありがとう。 今日で私はバイトを辞め、実家に帰ることにしました。簡単なおかずを作っておいたので、よかったら食べてください。 それではお元気で。ちゃんと三食きっちり食べること。 それと、私の事情に巻き込んでしまってごめんなさい。 でも、あなたの夢だけはあきらめないで。 あなたは枯れ木にならないでください。 さようなら 藤田 蒼空より』 「は? なんでだよ、なんで急にさよならなんて、」 杉浦は戸惑いを隠せないまま、メモを何度も読み返した。 藤井からの言葉は、突然の別れを告げていたのだ。 「なんで、どうして、先輩!」 杉浦は携帯を取り出し、電話をかける。数コールほど電子音が鳴ったあと、藤井の声が聞こえた。 「やあ杉浦くん、久しぶり。元気だったかな」 久しぶりに聞いた声は、何かを吹っ切ったような穏やかな声だった。 「実家に帰るって、どういうことっすか」 杉浦の怒声が薄暗い部屋に響く。大型連休もとっくに過ぎていたというのに、部屋の中は妙に静まり返っていて薄ら寒い。全身から血の気が引いたようだ。 「・・・手紙を読んだんだね。そのままの意味だよ。前々から帰ってこいって、両親から言われていたからね。ああ、もう新幹線に乗ってるから、止めようとしても無駄だよ」 電話越しから、確かに藤井の声に紛れてガタゴトと物音が聞こえる。一定のリズムで鳴り響くそれは早く、杉浦との距離を確実に離していく。 それでも必死に引き止めようと、杉浦は空元気で会話を続けた。乾いた舌が口の中に張り付いて、言葉がもつれそうになる。 「初めて君のモデルをした帰り道で、緒方からメールが来たんだ。『日本で久しぶりに展覧会をする。『遼遠』も展示するから、見に来ないか』って。本当は行く気なんてなかったんだけど、気づいたら足が勝手に動いていた。たぶん杉浦くんと美術館で会った時から目を付けられてたんだね。・・・・・・私があいつの誘いに乗らなければ、こんなことにはならなかったんだ」 「・・・・・・緒方さんとのことなら、俺、全然気にしてませんから。大丈夫です」 「嘘つき、バイト先でも私に全然会おうとしないくせに。無理しないでよ」 「無理なんてしてません!」 「松田くんたちから聞いたよ。大学にも行ってないんだってね。その調子じゃ筆も持てなくなっているでしょう」 「・・・・・っ」 「ごめんね」 電話越しの藤井が、申し訳なさそうに謝った。 杉浦は困惑する。むしろ謝るのはこちらのほうだろう。 自分がまだ子どもで、無知で、簡単に大人に騙されてしまっただけなのだ。その上、藤井にまで迷惑をかけてしまったのに、どうして彼女は杉浦に謝っているのだろう。 手遅れだと分かっていても、どうしても引き止めたかった。 「先輩、音楽の道は、本当に諦めちゃうんですか?」 「前にも話したよね。その道はもう諦めたんだって」 「それは嘘でしょう? だって先輩、俺が音楽を目指したきっかけを聞いたとき、めちゃくちゃ嬉しそうに話してくれたじゃないっすか。そのあとも酔っ払いながら二人でめちゃめちゃに歌って、隣の部屋の人に怒られたりして。俺、あの時の先輩の歌声、好きでしたよ」 「それでも、もう決めたんだ。これ以上は君を巻き込めない。緒方に私たちの関係がバレた以上、一緒にいればもっとダメになる。これ以上君の夢を壊したくない」 「先輩、それでも俺は」 「いいかげんにして! もう振り回されるのは嫌なの!!」 藤井の怒鳴り声に、耳の奥がキーンと揺れた。 初めて聞いた藤井の怒った声に、唖然とする。 電話越しの怒声は、いつしかすすり泣く声に変わっていった。 「もう嫌なの。踊らされるのはもうイヤ。お互いに好きになったつもりで、でもそれは思い過ごしで、結局捨てられるんだったら、もう」 「先輩? 何の話ですか?」 杉浦は言葉の意味が理解できず、藤井に問いかける。ハッと声を上げた藤井は、いつもの藤井に戻っていた。 「・・・ごめん、なんでもないの。そろそろトンネルに入るから切るね」 「先輩!」 「さようなら、杉浦くん」 唐突に通話が切られ、ツーツーと間の抜けた電子音だけが聞こえる。 何度もかけ直したが繋がらない。 結局その電話が、藤井と話した最後の会話になった。 |