18話
「・・・・・・よく通ってた場所って、ここかよ」 杉浦はメモの住所と見比べながら、建物を見上げる。 そこは以前に松田たちと来た、都内の美術展だった。 入口の看板には『油絵画の貴公子・緒方貴弘展覧会』の文字がデカデカと描かれており、背後には『遼遠』の子ども、もとい藤井の絵がプリントされていた。 教授に諭され意気揚々と美術館にやってきたものの、すでに閉館時間を過ぎており、ガラス張りの扉は固く閉ざされていた。 (くっそ、そういや今日は平日だから、閉まるのが早いんだった) 時刻はすでに六時を回っており、さんさんと輝いていた太陽は地平線の向こうに入り始めた。普段なら子どもを連れた家族が併設された公園で遊んでいる姿も見られるのだが、今日は平日ということもあり、青々とした芝生だけが視界に広がっていた。 杉浦はため息をつき、看板に描かれた『遼遠』を見上げる。 あらためて観察してみると、だいぶデフォルト化されてはいるものの、子どもは正しく藤井の顔をしていた。 絵の中の藤井は、相変わらず潤んだ瞳をこちらに向けてきている。伸ばされた腕は文字で隠れてしまっているものの、気だるげな二の腕のラインがこちらに向けて伸ばされているのがわかる。 退廃的で、すさんでいて、だからこそ惹かれる。 まさしく緒方が開花させた、藤井の姿だ。 「・・・・・・ちくしょう、やっぱすげえな」 杉浦は絵の複写に見とれながら、悔しそうに歯を食いしばった。 緒方のことは最低だと思うし、藤井に対してしでかしたことも許せない。けれど彼の作品は、『遼遠』は、どうしようもなく魅力的だった。 この作品があったからこそ、杉浦は画家を目指した。 けれど、その夢を本当の意味で叶えるには、この絵を超えた作品を描かなければならない。ずっと越えられない存在だと思っていたのに、どうしても彼以上に藤井の魅力を描かなければならなかった。 (くそっ、俺はいったいどうしたらいいんだ。どうすれば、『遼遠』を超える絵が描けるんだよ!) 杉浦は苛立ちながら、荒々しく髪の毛をかきあげた。 その時だった。 ふいに、ふわりと甘い匂いが香った。 どこか懐かしい、透き通るような香の匂いだった。 「ん?」 杉浦はキョロキョロとあたりを見渡す。当然だが、それらしい香りの元は見当たらない。 不思議に思っていると、また甘い匂いが漂った。どうやら、風に吹かれてどこからか運ばれているらしい。 「こっちからか?」 匂いの元をたどるように、杉浦は風向きに向かって歩き出した。 美術館をぐるりとなぞるように進んでいくと、中庭にたどり着いた。この場所はちょうど公園と美術館の境目にあり、自由に出入りできた。青く生い茂った樹木たちは、赤みがかった空に照らされ橙色に染められている。 連日の雨のせいか、ほんのりと湿った土の匂いが漂い、設置されたベンチの上には、小さな雨粒でまんべんなく覆われていた。 杉浦はあたりを見渡し、おそるおそる足を踏み入れる。 一歩踏みしめるたびに、足元からはしゃくしゃくと湿った音が響いた。 芝生にはところどころ水たまりが残っており、茜色に染まった空をいくつも映し出している。 杉浦はきょろきょろと辺りを見回した。 特に匂いの元を見つけたからといって、どうってこともない。 ただ、上品な香の香りが、幼かった頃の思い出を呼び起こしたのだ。 父親に厳しく稽古をさせられていた時、『こういうのは見えないところにも気を使うものだ』と言って、祖母が稽古用の着物に香を焚いていたのだ。上品で透き通るような匂いは、茶や畳のい草にも負けずに香り、自分の動作に合わせてふわりと舞った。その匂いが好きだったこともあって、杉浦は辛い稽古もがんばれたのだ。 なんとなく懐かしい気持ちになった杉浦は、その匂いの元をどうしても見つけたくなった。 その時、またふわりと杉浦の鼻先をかすめた。先ほどよりもはっきりと、杉浦の背後からただよってきた。 ゆっくりと振り返る。 そして杉浦は、思わず目を見開いた。 「・・・・・・っ!!」 目の前には三メートルはありそうなほど細く大きな木が生えていた。 杉浦の腕でおおってしまえそうなほど細い幹に対し、枝葉は大きく手を伸ばして何倍にも膨らんでいた。細長い葉のすき間からはさくらんぼのような細い茎が伸び、その先には黄色がかった白い蕾のような花がくっついていた。一つの茎に対し花は五・六個くっついており、風に揺られて互いに身を寄せ合うように動いた。おそらく匂いの元はこれだろう。小さくのぞいたおしべとめしべのすき間から、透き通るような上品な香りがただよってきた。 杉浦はしばし見とれたあと、足元の近くに看板がおかれていることに気づいた。なんの気なしに覗いたそれは、植物の紹介が書かれている。 杉浦は、その名前に見覚えがあった。 「・・・・・・菩提樹」 そうつぶやくと、目の前の菩提樹はうなずくように風に揺られた。 『小さい頃、近所のお寺でお祭りがあってね。そこでカラオケ大会みたいなのがあって、それに参加したんだ。ちょうど境内の菩提樹の花が見頃でね。ステージの上に上がると緊張してお客さんのほうが見られなくなって、遠くに咲いていた真っ白な花ばかり見ていたの』 『歌い終わったら、お客さんたちがみんな笑顔で拍手してくれて、嬉しかったなあ。結局優勝にはなれなかったけど、胸の奥がふわふわして気持ちよかったんだ。それから、もっとみんなを笑顔にしたい。歌で元気にさせてあげたいって思って、あの大学に進学したんだよ』 不意に、あの日の藤井の声が蘇った。 進学した理由を訪ねた杉浦に語ってくれた思い出。藤井が音楽の道を目指すきっかけとなった、カラオケ大会の話。 幼かった藤井は、緊張に震えながらステージに立ち、大勢の人の前で歌を歌った。 咲き誇った菩提樹の花に囲まれて、少女は歌う喜びを、人を笑顔にする楽しさを知ったのだ。 「・・・・・・っ!!」 ふいに、杉浦の中でイメージが湧き上がる。 ワンピースをまとった幼い少女が、杉浦に背を向けて、歌を歌っていた。 たくさんの菩提樹に囲まれながら紡ぐ歌は、拙いながらもしなやかで、枝葉のすき間をかいくぐるように響き渡った。長い黒髪は白いつぼみの形をした花のように、少女の動きに合わせてふわりと揺れた。 表情は見えなかったが、きっと笑っているのだろう。 どこまでも伸びる声は、晴れやかだった。 ふいに歌を止めると、少女はこちらを振り向いた。 その姿はいつの間にか大人になり、短い金髪をした、藤井の姿になっていた。 まとっていたワンピースはデッサンの時に使っていたシーツに変わり、藤井の肩にふわりと覆いかぶさっていた。わずかにのぞく隙間からは、形の良いへそが見えた。 藤井は、たしかに笑っていた。 白い歯を大きく見せるように、少し子どもっぽい顔立ちで。 夢を語り合ったあの日のように。 藤井は、心の底から楽しそうに笑っていた。 『杉浦くん』 少しハスキーで中性的な声が聞こえる。 菩提樹の香りが、ビターチョコレートの甘ったるい匂いに変わった。 「先輩、」 こらえきれず、杉浦が声を漏らす。 一歩も動けないまま、すがるように藤井を見つめた。 『大丈夫』 弱々しい杉浦を見て、それでも藤井は笑っていた。 『杉浦くんは、まだ枯れてないから』 そう言い残し、藤井の姿は掻き消えた。 思わず手を伸ばす。 「先輩!」 杉浦は自分の声で、はっと気がついた。 いつのまにか陽は完全に姿を消しており、藍色の線が尾を引くように空を漂っていた。茜色の空を移していた水たまりは、冷たく透き通った一粒の星を映し出している。 (今のは、なんだったんだ) 杉浦は呆然としながら、木の幹をなぞる。ザラザラとした感触は、杉浦の意識をはっきりとさせた。やはりあれは、夢だったのだろうか。 ふと、菩提樹の紹介が書かれた看板が目に入る。足元から照らされた照明のおかげで、文字ははっきりと見えた。 『菩提樹は仏教聖木の一つと言われ、仏教の始祖・釈迦如来がこの木の下で悟りをひらいた、という伝説があります。また、菩提樹の花は開花期間が短いため、ご縁があれば観られる花とも言われています』 「・・・・・・まさかな」 杉浦は信じられない、というように乾いた笑いを漏らした。 先ほどの光景は一体なんだったのだろう。白昼夢でも見ていたのだろうか。幼い藤井が菩提樹に囲まれながら楽しそうに歌っていて、それから大きくなった藤井が、弱気な自分を励ました。 まさか自分も、ブッタのように悟りを開いたとでも言うのか。 (バカバカしい、そんな訳がないだろう) そう笑い飛ばせば良かったものの、ここまで来た経緯を思い出し、口元を引き締めた。 自分は、この菩提樹の匂いに誘われてここまできたのだ。 ならばこれも、菩提樹がつないだ縁ではないだろうか。 自分と藤井をつなぐ、最後のチャンスだと。 「・・・・・・」 杉浦はゆっくりと目を閉じる。初夏の時期を過ぎたものの、夕暮れ時はまだ肌寒い。藍色の冷たい夜風が吹けばなおさらだ。 それでもその風は、杉浦に菩提樹の香りを運んだ。 そして藤井との思い出と、絵を描く情熱を思い出させてくれた。 「・・・・・・っ!!」 杉浦は、両手で挟み込むように、自分の頬を叩いた。 乾いた音が響き渡り、頬に痛みの波紋を残した。 杉浦の手はゴツゴツとして柔らかくもなかったし、甘ったるいビターチョコレートの香りもしなかった。 それでも、十分だ。 「うし、帰るか」 杉浦は菩提樹に背をむけると、一度も振りかえることなく歩き出した。 目指すのは築十数年のボロアパート。 今日はバイトがないので、構想するには十分時間がある。 (早く、早く帰りたい。早くスケッチブックに、思う存分描き殴りたい) そんな衝動に駆られながら、杉浦はただ足を動かした。 背後からは満開の菩提樹が腕を伸ばし、風に吹かれながら大きく手を振っていた。 「おい杉浦、いきなり呼び出したりしてどうしたんだ?」 「そうだぞ。あれだけのことがあったんだ。もうちょっと休んでてもいいんじゃないか?」 「杉ちん、ほんとに大丈夫?」 翌日の授業終了後、杉浦からの呼び出しを受けた三人は、アパートを訪れた。 彼らも事件の当事者だったため杉浦のことは気がかりであったし、何より今目の前にいる杉浦の様子に驚いていた。 目もとに大きなクマを作った杉浦の顔色は、最悪に等しかった。こわばった頬はこけ、青白さを通り越して土気色になっている。にもかかわらず寝不足の瞳はギラギラと輝いており、ヒゲの伸びた口元は引きつったように釣り上げられている。こんな状態の写真をさやかに送れば、泣き出してしまうかもしれないと松田が思うほど、見るからに危険な状態だった。 だが杉浦は、三人が畳の上に上がるや否や、おもむろに頭を下げた。 「え? ちょっと杉ちん?」 「頼む! 力を貸してくれ」 「お、おい。なんだよ突然! やめろって」 突然の土下座に、八木たちは大いにうろたえた。昔から茶道をたしなんでいただけあって、流れるような動きにキレがあった。背筋もまっすぐ伸びており、土下座でなければ作法のお手本のようにも見えるほどだ。 「おい杉浦、協力しろって、いったいどういうことなんだ?」 土下座をやめさせようと松田が肩を掴むが、それでも杉浦は動かない。下を向いたまま言葉を吐き出した。 「もう一度、先輩の絵を描き直したいんだ」 先輩、という一言に松田が反応する。 「ソラさんの? なんで?」 「・・・・・・俺にもこれが本当に正しいことなのかはわからない。でももしかしたら、先輩が帰ってくるかもしれないんだ」 「・・・・・・」 「頼む、協力してくれ。俺の力だけじゃダメなんだ!」 頭を下げ続ける杉浦の頭を、松田が容赦なく叩いた。 それにつられ、八木、中村も平手でべちべちとたたき出す。 「ばーか」 「杉浦のばーか」 「杉ちんのばか。略してばかちん」 べちべちべち。 べちべちべちべちべちべち。 「・・・・・・・・・」 気の抜けた音が部屋中にこだまする。 最初は甘んじて受けていた杉浦だったが、とうとう耐え切れずに思い切り振り払った。 「何度も叩くな! 痛えんだよ! そして何が馬鹿だコラ!」 声を張り上げると、松田は最後にべしりと叩いた。 そして杉浦に向かって、整った白い歯を見せてきた。 「ばーか、お前のわがままなんて今更だろ?」 「俺たちどんだけ付き合いが長いと思ってるんだ?」 「そうそう、今さら硬いこといいっこなしだよ、杉ちん」 八木は出っ歯をさらしながらニコニコと笑い、中村は豪快に口を開けて大声を上げた。 久しぶりに見た友人たちの顔は、予想よりも全く変わっていなかった。 「・・・・・・わりい、ありがとな」 杉浦はようやく顔をあげ、自身もまた、友人たちと同じ顔をしてみせ 「それで、協力して欲しいのは金銭面か? 技術面か?」 「・・・・・・両方」 「言っとくが、協力するだけで金はきっちり返してもらうからな」 「わかってるよ!」 「それで杉ちん、どこまで段階は進んでるの?」 「とりあえず大体の構成は決まった。絵の具と油は最低でもこのくらいは必要だし、キャンパスのサイズは・・・」 杉浦は、部屋の隅から適当なスケッチブックと鉛筆を取り出し、今後の計画を松田たちに話した。三人はそれぞれの役割を決めながら、やるべきことを明確にしていく。 夜が更ける頃には、キャンパスの中は真っ黒になっていた。 大体の説明が終わり、杉浦はようやく鉛筆を置いた。 「・・・とまあ、大体必要なのはこのあたりだな。あと、大まかな部分が終わったら、あとは俺に全部やらせて欲しい」 「は? お前、この量を一人でやるってのか?」 「当たり前だろ、俺一人で描いたものを認められなきゃ、何の意味もない」 「だからって、この量を一人でやるのは無理だよ。それに、青空祭までに完成させるならあと二ヶ月もないじゃない。もっと伸ばせないの?」 最後まで手伝う、という友人たちの出張にも、杉浦はかたくなに首を振った。 「親父に大学を知られちまった以上、あんまり待たせすぎると親父に退学させられる。だからこの日が最後のチャンスだ。親父がしびれを切らさないうちに、先手を打つ」 「でも大丈夫かな。これ、四人でも結構大変じゃない?」 スケッチブックの計画表を眺めながら松田がぼやく。 それでも杉浦は、大丈夫だと頷いた。 「意地でも間に合わせる。だからお前らは下描きまでの手伝いと、必要物資を集めてくれ」 「わかった。ならすぐ取り掛かったほうがいいな。とりあえず今買える文だけは買い出しに行ってくるよ」 「ああ、頼む」 杉浦の言葉に松田はいち早く立ち上がり、玄関に向かう。 ほかの二人もそれぞれの仕事をこなすため、玄関から出て行った。 友人たちを見送りながら、杉浦は思い出したように松田を追いかける。 「松田、ついでにアレも買ってきてくれないか」 「ん、なに? 何を買うの?」 杉浦は一旦部屋まで戻り、小さな箱のような物を握って戻ってきた。そしてそれを松田の手に渡す。 「これ」 「店は覚えているだろ?」 「・・・・・・ああ」 それは以前、杉浦が藤井に渡されたものだ。 今となっては忘れ形見のようなそれを、松田に託す。 箱の中では、ステッキを持った黒猫が、相変わらず愉快そうに踊っていた。 「【ブラットデビル】・・・先輩の吸っていたタバコだ。店ごと買い占めるつもりで頼む」 かすかに残っていたビターチョコレートの匂いが、初夏の風に吹かれて二人の間を吹き抜けていった。
「ほう、良太郎くんは芸術大学に行っていたのですか」 「そうなんですよ。まったく、我が息子ながら嘆かわしい。あいつは跡取り息子という自覚がないようでしてな。学校までのりこんで一喝いれてやりましたよ」 「はは、流石ですなあ」 今日も三十度を超える猛暑だったが、昔ながらの住居にはさわさわとゆるい風が入り込み、茶室の窓にたれる風鈴をちりりと鳴らした。透き通るような鈴の音はさやかの心を穏やかにさせたが、父親たちの下世話な笑い声のせいで掻き消えてしまっている。そのことが少し残念にも思えた。 さやかは艶やかな和服に身をつつみ、水出しした麦茶をさしだした。 荒く削られたガラスはすでに汗をかいており、麦茶に入った氷が、カランと小さく鳴った。 「どうぞ、お上がりください」 さやかがそう言うと、杉浦の父親は大げさに声を上げた。 「おお、ありがとう。しかしさやかちゃんもすっかり年頃の娘になったね。早く我が家に嫁に来て欲しいですわ」 「おやおや、杉浦さまのお宅なら大歓迎ですよ。昔から懇意にさせていただいていますからね。それにこの子も良太郎くんのことはいたく気に入っているようですから」 「・・・・・・」 さやかがぎろりと父を睨むが、中年ふたりはまったく気にしない。 その言葉に、杉浦の父親は上機嫌に扇子をあおぐ。 「ほう、そうなのですか。いやあ嬉しいですね。茶道の名門・杉浦家と東雲家の縁も一層強固なものになるでしょうなあ!」 「はっはっは! まったくですなあ!」 怒号のように響く笑い声に驚き、庭の枝葉で休んでいた雀が、一斉に飛び出していった。 父親たちの様子に、さやかはいっそう眉をきつくした。 いったい自分は、いつまでこの場所にいなければならないのだろう。 (お父様ったら、また勝手なことを言って・・・確かに私は良ちゃんのことが好きだけど、結婚となると話は別よ。それにおじさまは、良ちゃんがあんなに嫌がっているのに、まだ家を継がせる気でいるんだわ。早くどうにかしないと・・・) 内心さやかが慌てていると、胸元から軽快な電子音が流れた。 携帯に着信が入ったのだ。 「あ、ごめんなさい! ちょっと電話に出てまいります」 「おいおい、電源くらい切っておけ。風流な景色が台無しだぞ」 さやかの父親が冗談混じりにはやし立てる。 (どっちが台無しにしてるのよ!) そう言ってやりたい気持ちをぐっと飲み込み、足早に茶室を出た。 父に咎められたのは不愉快だったが、あの空間から逃げられたのはありがたかった。 「もう、こんな時にいったい誰よ・・・・・・え?」 着信相手を確認し、さやかはあわてて自分の部屋に駆け込んだ。室内は エアコンを切っていたせいで蒸し暑かったが、かまっている余裕などない。 さやかは部屋の周囲を見渡し、急いでドアをしめると、おそるおそる通話ボタンを押した。 「も、もしもし?」 「あ、東雲さん。ごめんね急に、今大丈夫?」 「松田さん! 一体どうしたの?」 電話越しから聞いた声に、さやかは一層声を高くした。 杉浦の友人である松田は、筆不精な杉浦に代わり、彼の近況報告をしてくれていた。かつて彼に手をあげられたこともあったが、それは自分が悪いので気にしていなかったのだが、松田のほうがずっと気にして、おわびになんでもしてくるといったのだ。 幼馴染と違って、世話焼きで優しい一面がさやかは好感を持っていた。 (蒼空さんにそのことを話したら、自分より大いにはしゃいで、くっつけようと言ってくれたっけ。なつかしいな) 「東雲さん?」 「あ、ううんなんでもない! それよりどうしたの? 良ちゃんに何かあったの?」 さやかは、自分の父親に絵を破られた杉浦のことを思い出した。 あの時の痛々しい姿に、自分はただ泣くことしかできなかった。まさか彼に、また何かあったのだろうか。 「ああ、うん。杉浦は大丈夫。今は絵を描くのに必死になっているよ」 「え、良ちゃん絵を描いているの?」 「うん、今ちょっと手が離せないから伝言を頼まれたんだ」 「私に?」 「うん。あのね、来週なんだけど・・・・・・」 空いた手のひらで顔を仰ぎながら、さやかは耳を傾けた。未だクーラ―の風が回り切らず、部屋の中はむしむしと蒸し暑い。胸の谷間を汗の感覚が不快で、さやかは話の合間に何度も息を吐いた。松田にも聞こえているのだろうか。そう考え始めるとどうにも落ち着かない。 「・・・・・・っていう事なんだけど、用意できそう?」 彼から受け取った伝言に、さやかは目をぱちぱちとさせる。 「大丈夫だとは思うけど良ちゃんの油絵と、どういう関係があるの?」 「さあ、僕もよくわからないんだ。僕たちには絵のことしか話してくれなかったし。じゃあお願いね。杉浦には伝えておくから」 「あ、ま、待って」 松田が電話を切ろうとすると、さやかが慌てて引き止めた。 特に理由があったわけではない。 ただ少し、もう少し彼の声を聞いていたかった、 「うん、何? 何かわからないことでもあった?」 「あ、ごめん。別になんでもないの」 さやかは少し言いよどみながらつぶやいた。これから杉浦の手伝いで忙しくなるだろう、彼をあまり引き止めてしまうのも気が引けた。 そんなさやかの様子に、松田はしばらく考えるように黙った。そして少しだけ優しい声色でさやかを励ました。 「杉浦ならもう大丈夫だよ。あいつはソラさんが認めた画家なんだから」 不安があった胸の中に、彼の声が優しく響いた。さやかの中の不安が緩やかに消えていく。 さやかは軽くなった胸元をおさえながら、少しだけ口元をゆるめた。 「・・・うん」 「じゃあ、よろしくね」 通話が切られ、電子音だけが虚しく響く。 さやかは祈るように、携帯を握り締めた。 しばらくはこの部屋にいることにしよう、そう思いながら、さやかは膝をかかえるようにしながら目を閉じる。 この部屋は暑く、谷間を抜ける汗は不快だったけれど、父親たちのいる茶室には戻りたくなかった。 (もう少しだけ、優しい声の余韻に浸っていたい) 外からはセミの声がいくつも響き渡り、小さな体を優しく包み込んでくれた。 もうすぐお盆が終わる。 戦いの時が近づいていた。
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