2話










 

 日本人は外国人から見て勤勉な種族であるらしい。

 品行方正、きまじめで仕事熱心である日本人は外国人から好感が持てるようだ。個人が所有するお金も多いので、外国へ行くと観光客として大歓迎される。もちろん金ヅルという意味もあるのだろうが、それでも日本人の特性である勤勉さは諸外国にとっては好ましい性格であることに変わりはないだろう。

 だが、T芸術大学絵画科専攻の杉浦良太郎はそうは思わない。

 なぜなら、彼が普段見る大人たち、つまり典型的な日本人は、みな赤い顔をして大はしゃぎしているからであった。

「一番オーダー、生三つ追加!」

「うっす」

 よく冷えたジョッキをいくつも持ちながら、杉浦はせまい通路を早足で通り抜ける。サーバーにつくと持っていたジョッキ一つ一つに生ビールを丁寧に注いでいく。シュワシュワと音を立てる黄金色の液体に、思わずのどが鳴った。程よいバイト疲れと蒸し暑い空気で一汗かいた今、どんな安物のビールでも極上の味がするだろう。

 そんな邪念をかき消しつつ素早くすべてのジョッキにビールを注ぎ終えると、杉浦はホールへと足を抜けた。午後十時を過ぎた店内には生ぬるいクーラーの風とタバコの煙、そして仕事帰りのおっさん達や学生達の笑い声がひびいていた。座敷席のふすまを叩き、声をかける。

「失礼します」

「あ、どうぞ」

 ふすまを開けると、杉浦は思わずげんなりとした表情になった。一段上がった畳の上には座ぶとんやはし袋などが散乱し、テーブルの上には丁寧に盛り付けられていたはずのおつまみは見る影もなく食い散らかされている。中には自分も盛りつけを担当したものもあり、自分が作ったものを食べてもらった満足感ともっと綺麗に食べて欲しかったという思いで複雑な心境になった。

 座敷の中には三人の男性客がいた。皆二十をすぎたばかりの若い男ばかりだった。その中で一番入口側にいた男が声をかけてくる。先ほど返事をしたのもこの男だ。

「ああ、杉浦か。ごくろうさま」

「松田…お前人のバイト先までくるなよ」

「べつにどこへ飲みに行こうが僕の勝手でしょ? 杉浦がバイトする前から常連なんだし」

 しれっとした顔で松田はビールを受け取る。松田は杉浦の通う大学の友人だ。デザイン学科を専攻している学生で、見た目は少し地味だが顔立ちの整った青年である。性格も温厚な性格のため、学内でも人気がある。

 優男風の男だが酒には強く、ジョッキ三杯分のビールを飲んでいるにもかかわらず、顔色はほとんど変わっていない。

「ほら中村、八木。ビール追加来たよ」

「んあ、おお…」

「俺パス…限界…」

「ちょ、おい八木! 掃除面倒だからココで吐くなよ!」

 松田の後ろでテーブルに突っ伏していた背の低い男・中村が半身を起こしてビールを受け取る。座敷の隅っこでは、出っ歯の男・八木が座ぶとんを並べた上に横になっていた。二人とも酒には弱い方で、特に中村は半分目が据わっている。相当酔っているようだがまだジョッキに口をつけようとしている。

 杉浦は素知らぬ顔でビールを飲む松田に小声で声をかける。

「おい、中村も相当酔ってんじゃねえか。なんで止めねえんだよ」

「合コンに誘われなくて八木と一緒にやさぐれてるんだよ。僕が言っても聞かないんだから。そのうちブッ倒れて寝ちゃうから大丈夫だって」

「いや、そういう問題じゃねえだろ」

「八木が復活したら送らせるよ。サイフは預かっているし」

 見れば、松田の片手には少しくたびれた感じの長財布が握られていた。こういうしたたかなところが油断ならない男である。会計後、哀れな財布は持ち主の体格と反比例して、今よりもっとスリムになることだろう。

「お前な…まあいいや、お前もほどほどにしとけよ」

「うん。杉浦もバイト頑張ってね」

 杉浦は手早く空いた食器を片付け、部屋を後にした。

 となりのお座敷からどっと笑い声がもれてきた。どうやら会社の飲み会らしい。中年オヤジのろれつの回らないヤジが飛び、お座敷はさらに盛り上がった。

 (こういうの見ると、日本人がまじめとか言われてる理由がわからなくなるよなあ)

 自分も人のことを言えない立場であるのは棚に上げて、杉浦は廊下を通り過ぎていった。

 

 都内の外れにある『飛翔』は、鶏肉料理がメインの居酒屋だ。同市内には大学がいくつも点在しており、社会人よりも学生の利用が多いため、料理も安くて量が多いのが特徴だ。もちろん味の方も文句なしの美味さであり、杉浦がバイト先に『飛翔』を選んだ理由の一つでもある。

「おつかれっす」

 今日の仕事を終えた杉浦は、まかないを持って休憩室のイスにどっかりと座り込んだ。

「おつかれ様。お、今日のまかないは唐揚げ丼か。豪勢だねえ」

「そっすね。明日も一限あるから、腹にたまるのは助かります」

 せまい休憩室にはパイプ製の長テーブルに同じくパイプ製のイスが四脚並んでおり、杉浦の真向かいではうなじくらいまで伸ばした金髪の女性がぷかぷかとタバコをふかしている。

 杉浦と交代で入るバイトの先輩・藤井蒼空(ふじいそら)だ。ビターチョコのような甘ったるい匂いのするタバコが好きで、休憩室は今日もその匂いで満たされている。藤井は杉浦が持ってきたまかないの丼を興味深そうに覗き込んできた。

「学生さんは大変だね。でも明日の朝にはお腹空くでしょ」

「でも夜に飯が食えるだけでもありがたいっす。俺バイトない日はめんどいから夕飯食べずにさっさと寝ちゃうんすよ」

「不健康だなあ」

「その代わり、朝と昼はちゃんと食べてますから大丈夫っすよ」

「それでも一日二食なんて、体に悪いよ」

 そういって藤井はまたタバコをふかす。食事の数を減らすよりタバコを吸う方がよっぽど体に悪いだろうに。杉浦にとって藤井は、まさしく日本のダメな大人の代表だった。

(それに金髪に染めてるし、居酒屋バイトで昼夜逆転生活だろうし、仮にも女なんだから俺よりもっと気にしたほうがいいだろ)

 杉浦は口には出さずにつぶやきながら、黙々と卵とじ丼を食べた。比較的安い方とは言え、鶏肉は貴重なタンパク源だ。家ではほとんど食べない肉の味を思う存分堪能したいのが杉浦の本音である。だが、室内に充満するタバコの甘い煙がそれを邪魔していた。

 少し顔をしかめながら、杉浦は真向かいの元凶に口を尖らす。

「先輩、換気扇回してくださいよ。煙が溜まってます」

「ん? ああごめん、私一人だったから忘れてた」

 そう言うと藤井は席を立ち、少し背伸びをして壁際の換気扇を稼働させようとヒモを引っ張る。しかし調子が悪いようで、羽は少し首を傾けたあとすぐに元の位置に戻った。築二十年の貸ビルの備品ではよくある不都合だった。

「ありゃ、今日はダメみたい。ちょっと寒くなるけど窓開けてもいい?」

「うっす」

 藤井は頷くと、テーブルのすぐ隣にあるすりガラス製の窓を開けた。七色の蛍光ネオンと一緒に真冬の冷たい風が吹き込んでくる。ぶるりと体が震えるが、煙たいよりはマシだろう。

 杉浦は礼を言い、再びまかないに箸をつける。藤井もまたイスに座ってタバコをふかし始めた。

 どちらとも言葉を発さず、外から聞こえる喧騒と食器の音だけが部屋の中に響いていた。

ある時、藤井の金髪にネオンが反射し、きらきらと七色に染まって輝いていた。

(お、いい構図だ)

 杉浦は丼をかき込みながら、藤井の顔を盗み見る。先輩のほうは杉浦のことなど気にもとめず、窓の隙間から点滅するネオンの群れを眺めていた。

油絵画家を目指す杉浦は、ときどき心に響く情景をみつけるとその場でスケッチをしたくなる癖がある。作家でいえば、いいネタが思いついたらその場でメモを取る、というところだろうか。電車の窓から見た景色や街中での一コマを、常に持ち歩いている手帳にがさがさと書き写していた。   

だが、気に入った場面が目の前にあっても、描けないことがほとんどなのだ。

 その良い例が、藤井である。

整った部類の顔立ちは中性的で、下手すれば年下に見えそうなくらい童顔だ。身体の線もめっぽう細く、今日のように薄手のVネックを着ていると、袖の隙間から枯れ枝のようにひょろっとした腕がのぞいている。胸の凹凸もなだらかで、今の姿は不良の男子高校生が隠れてタバコを吸ってるように見えなくもない。

(ちゃんと手入れしてれば美人に見えるのに、もったいねえな)

 それが杉浦の感想だ。

彼女から漂う雰囲気は間違いなく大人のそれで、中性的な見た目と相まってミステリアスな雰囲気を漂わせている。気だるげに伏せられたまつげは長く、遠くを見つめるアンニュイな表情はどこか創作意欲を掻き立てられる。

だが、シフトの入れ替わりのときにしか会わない、ただのバイト先の後輩の身分で、『あなたを描かせてください』と言えるわけもない。

杉浦はいつも悶々と過ごしていた。せめて杉浦に出来ることといえば、この短い時間に彼女の仕草や表情を盗み見ながら構図を覚えるだけである。変人のようだという自覚は十分にあった。

「ごっそさんした。それじゃお先失礼します」

「はい、おつかれ様」

 杉浦が手を合わせて丼を片付けにいくときも、藤井はのんびりとタバコを味わっていた。

戻ってくると仕事に入ったようで姿はなく、タバコの甘い煙だけが漂っていた。杉浦が換気扇のヒモをひくと、機嫌を直した換気扇はくるくると回り始める。

「なんだ、つくじゃんお前」

 最初からつけよという思いを込めて、壁に叩きつけるようにヒモを振りほどいた。それでも機嫌良く回る換気扇は藤井の吐き出した甘ったるい香りをくるくると消していく。

 手早く着替えをし、杉浦は休憩室を後にした。コートの隙間から肌寒い空気が入り込んでくる。

ビルから出ようとした時、マナーモードの携帯がメールを受信した。

「……」

 画面に映った宛先を見て、眉間のシワが深くなる。杉浦はそのまま携帯をポケットの奥にしまいながら、ビルの外に出た。待ち構えているのは途絶えることのない人ごみとネオンの群れ。チカチカと目を刺す七色に、杉浦は休憩室で見た藤井の姿を思い出した。

少し痛んだ金髪に反射する七色が、くすんで淡い光に変わる情景。

(ラフでもいいから描いておくか。どっかの構想で使えるかも)

 カバンから手のひらサイズのスケッチブックとペンを取り出す。ささっと手早く描いてみるが、どうにも納得がいかない。休憩室で見た構図をかいたはずなのだが、何かが違う。

杉浦ため息を一つ吐くと、スケッチブックを片付けた。これ以上ペンを走らせても納得のできる物がかけるとは思えなかったからだ。

「いつか、生で描いてみてえな」

 ぽろりとこぼれた願望は、ネオン街の光に紛れて消えていった。

 





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2013,07,12