3話
その願いは、思いもよらぬ形で叶うことになった。 まかないに唐揚げ丼が出た日から一週間後のこと。 杉浦の所属する絵画科クラスが、デザイン科クラスと合同のデッサンの授業を行っていた日だった。 「えー今日は外部からモデルを招いてのヌードデッサンをする」 「どーも、藤井蒼空です。よろしくお願いします」 (はっ!?) 講義室に入ってきた教授の後ろに、見慣れた金髪が見えたときは、一瞬自分の目を疑った。しかしそこにいたのは、間違いなくバイト先の先輩だった。 月に一・二回行われるこの授業は選択制であり、とっているものは杉浦と友人の松田を含めても十人ほどしかいない。担当の教授も適当なため、デッサン中に私語をしても注意されることはなく、わりと自由にできるのが魅力的な授業だ。 ただ、この適当さが厄介でもあり、その日の教授の気分で授業内容が変わることでも有名なのだ。今日とて、本来ならばそれぞれモチーフを持ち寄ってのデッサンだったはずなのに。 「昨日飲みに行った時に偶然会っていな、せっかくなのでモデルを頼んでみたのだわ」 あっけからんと話す教授と、いつも休憩所で見かけるような柔和な笑みを浮かべている藤井。今日は黒地のVネックに迷彩柄のカーゴパンツをはいており、相変わらず男か女かわかりづらい格好をしていた。 「ちなみに藤井くんは学部が違うが、この学校のOBでもある。つまり君たちの大先輩だ、失礼のないようにな」 教授の言葉に唖然とする杉浦に、となりに座っていた松田が小声で話しかけてきた。 「ちょっと杉浦! アレ『飛翔』のソラさんじゃないの!?」 「ああ、だよな・・・・・・?」 『飛翔』の常連である彼は藤井と顔見知りであり、彼女のことを『ソラさん』と呼んで親しげにしている。だが、彼もまた同大学のOBだったとは知らなかったようで、かなり驚いている様子だ。 「それじゃあ藤井くん、着替えて支度をしてきてくれ」 「ほーい」 気のない返事をして出ていこうとする藤井と一瞬だけ目が合う。唖然としている杉浦たちに気づくと、こちらの気も知らずに小さく手を振り、講義室の外へ出て行った。 松田はその後ろ姿を眺めながら、どことなく嬉しそうな表情を浮かべた。 「びっくりした。ソラさん、この大学の卒業生だったんだね。でも嬉しいな。僕、ずっと前からソラさんのこと描いてみたかったんだよね」 「え、そうなのか!?」 松田の意外な言葉に、杉浦は思わず聴き返した。自分と同じことを思ってるやつがほかにもいたなんて。 「だってソラさん、独特の雰囲気があるっていうか、創作意欲が掻き立てられるんだもん。杉浦だって毎回バイトで顔合わせているのだし、そう思うこともあったんじゃない?」 「そ、そりゃあ・・・」 「・・・あ、来たよ」 ふりかえると、薄手のワンピースのような服に着替えた藤井が戻ってきた。普段はヘタをすれば少年のようにも見えるのに、今の彼女はまさしく女性に見えた。クラスメイトたちが彼女のすがたに息をのんだのがわかった。一方先輩のほうは何食わぬ顔で靴を脱いだ足でペタペタと歩き、中央に置かれたシートの上に立った。 「時間は十五分、休憩を挟んでまた十五分だ。それじゃあ始め!」 ふわり、とワンピースの裾がひるがえる。肩紐を外し、着ていた服がぱさりと床に落ちた時は思わず目をそらしてしまった。確かにいつか彼女を描きたいと思っていたが、ヌードまでとは思っていなかった。バイト先で顔を会わせることが多い分、妙に気恥ずかしい気分になってくる。 だが松田の方を見れば、さくさくと鉛筆を走らせていた。すでに彼の目は芸術家のそれになっており、周りのクラスメイトたちも同様である。 (んだよ、恥ずかしがってんの俺だけかよ) なんだか悔しい気がして、杉浦も藤井の方へ向き直った。 講義室には、鉛筆がキャンパスの上を走る音だけが響いている。杉浦はデッサンを書き進めながらも、彼女の様子を盗み見た。 藤井はシートの上に正座を崩すような姿勢で座っていた。片腕を膝の上に乗せ、少し首をかしげながら瞳を閉じている。裸であることを除けば、まるでうたた寝をしているような自然な表情だった。窓から差し込む日差しが彼女の髪を揺らし、たっぷりと実った稲穂のように黄金色に輝いていた。 なだらかで凹凸の少ない体のライン、細い腕は相変わらず骨と皮だけのように見えるし、わき腹の骨もうっすらと浮かび上がっている。尻から太もものあたりだけが少しふっくらとしていて、そこだけが唯一彼女の女性らしさを主張していた。 (正直、俺の好きなタイプじゃない、でも) 描きたい。 彼女を、描きたい。 先輩を見るたびに、鉛筆を走らせるたびに、そんな欲が出てくるのを杉浦は感じていた。 一回目のデッサンはあっという間に終わった。休憩に入ると、すぐさま杉浦たちはワンピースを着た藤井に詰めよった。 「やあ、杉浦くんたちもここの生徒なんだね。なんか知っている人がいると恥ずかしいな」 「やあ、じゃないっすよ! どうして教えてくれなかったんすか!」 「そうですよ! ここの大学出身だって知らなかったですよ僕たち」 「いやあ、二人が美大生だったのは知っていたけど、まさか後輩だとは思わなかったんだ。騙していたわけじゃないんだけど、ごめんね」 そう言って藤井は申し訳なさそうに頭をかいた。ふわりとワンピースの裾が揺れるたびに、下に何もはいていない事を思い出して目を向けられなくなった。主に胸元とか足とか。裸を見といて何を今さら、とも思うが、どうしようもなかった。 「はっはっは、藤井くんは在学時代からモデル役をやっていたからなあ」 両手にコーヒーを持った教授も話の輪に入ってきた。ごま塩頭の恰幅のいい教授は、学校で一番年季の入った教師だ。年の割に発想の柔らかい人で、教職を務めるかたわら、自身も彫刻方面で活躍する芸術家でもある。話がくどいのが難点ではあるが、とっつきやすいことで評判のいい教師だ。 「そうなんですか?」 松井は身を乗りだして話を聞きたがった。 教授は藤井に片方のコーヒーを渡しながら、朗らかに笑った。 「ああ、そうだとも。彼女は当時から人気があってね。彼女をモデルにしてデッサンしたもんだよ。その子達の中には有名な画家になった子もいるね」 「へえ、すごいすね」 「……」 藤井は黙ってコーヒーをすすっている。こころなしか少し顔がこわばったような気がした。触れたくない話題なのだろうか。 「でも、ソラさんが在籍していたってことは、その人僕たちと同世代くらいですよね?」 「そうだね、確か…」 「先生」 藤井がうつむいたまま声を上げた。一、二秒ほど間をあけてから顔を上げ、普段通りの柔らかい笑みを浮かべる。 「おっといかん。昔話にはずいぶん夢中になってしまうな」 「もう、先生は相変わらず話が長いですね」 藤井はくすくすと苦笑しながらコーヒーを一気に煽った。教室のすみに設置されているゴミ箱に紙コップを投げる。一直線に入った紙コップに満足そうにうなずくと、くるりと回って杉浦たちに向き直った。 「さ、松田くんたちも準備しないと」 「あ、はい。それじゃあ、また」 「……」 「うん、じゃあまた」 杉浦たちにひと声かけると、先輩はさっさと立ち位置に向かって歩き出した。多少わだかまりが残るものの、杉浦たちも後に続き準備を始める。 (なんだ? 一瞬先輩の様子がおかしくなった気が…) おそらく松田も同じことを考えていたようだったが、その後は特に変わった様子もなく、二回目のデッサンも滞りなく終わったため、杉浦たちはその時感じた違和感を忘れてしまった。 ただ、グシャグシャに握り潰され捨てられた紙コップが、杉浦の記憶の片隅に引っかった。 |