20話
八月もようやく終盤に入り、いよいよ青空祭が始まろうとしていた。 その日は晴天にめぐまれ、学生たちは準備で大忙しだった。 短い大学生活の中で、一年に一度しか訪れない特別な日に、学生たちはそれぞれが思い思いの期待を抱えて、どの学生も朝から準備で学校中を走り回っている。 緒方はそんな喧騒からはなれ、作法室に響く厳かな雰囲気を味わっていた。 シャカシャカと規則正しい音が流れる。緒方の後輩である杉浦が茶を立てていた。 仕事のお得意先である茶道の名家、杉浦泰三の息子であり跡取り候補である彼は、ピンと伸ばした背筋をかがめ、真剣な表情で茶せんを動かしている。それはまるで画家が筆を動かす様にも似ており、緊張の糸が張り詰めた室内にはよく似合っていた。彼が身にまとっている灰色がかった着物には、おそらく香が焚き込められているのだろう。彼の手首が円を描くたび、透き通るような上品な香の香りが漂った。 彼の背後では、幼なじみである東雲嬢と友人の松田が、部屋の隅で並んで座っていた。東雲嬢は以前に見たワンピース姿ではなく、薄い水色のさわやかな着物を身にまとっていた。小さな花がいくつも彩られたそれは華やかであり、凛とした佇まいもあって、夏の盛りを忘れさせるように涼しげであった。背中まで伸びた艶やかな黒髪は、古風な大和撫子を連想させた。このような場でなければ、ぜひデッサンをさせてもらいたいほど、この場の雰囲気に合っていた。 その隣に座る青年は半袖のシャツに黒地のデニムを合わせており、やや茶の席では浮いて見えた。だが、それは緒方も同じなので何も言うまい。緒方もまた半袖のYシャツに黒地のパンツを履いていたからだ。 「・・・・・・」 だが、やはりこの場に一番合っているのは、杉浦氏だろう。 緒方の隣に座る男は、貫禄のある顔つきでじっと杉浦の立ち振る舞いを 見ていた。松葉色の着流しはきめ細やかな光沢を放っており、年配の落ち着きをさらに引き立てていた。 杉浦はゆっくりと茶せんの動きを止め、すっと上に持ち上げる。流線上に流れる枝の先からは一滴も垂れることもなく、流れるような動きで横に置かれた。 初めに、杉浦氏に茶が振舞われた。息子の杉浦は一礼をした後、半歩下がってその様子を見守る。その雰囲気には、初めて出会った時からは考えられないほど落ち着いた動作だった。 杉浦氏はといえば、さすが名家の当主ということもあり、流れるような動作で茶を頂き、茶器を眺める。フン、と鼻を鳴らしたかと思うとそのまま礼の一言をのべ、緒方へと茶を回した。 緒方は柔和な笑みを浮かべ、茶器を手にとった。さすがに杉浦氏のようにとはいかないが、何度も茶会に呼ばれた経験があるため、そつなくこなす。伊達に茶道の名門と交流があるわけではないのだ。 「結構なお点前で」 緒方がそう頭を下げると、息子の杉浦もまた、こなれた動作でそれを受けた。口元は固く結ばれ、その表情は読めない。 緒方は再度焼き物に手を伸ばし、茶碗を拝見する。 「ほう、これは随分と良い茶椀だね」 緒方は思わず歓声を上げた。工芸のほうはやや専門外だったが、今緒方が手にとっている茶碗は、今まで参加した茶会で使われていたものよりはるかに趣のある作品であることはわかった。 薄茶色に白磁の波のような流線文様が描かれている。表面はつるりとしており、緒方の筆だこでゴツゴツとした手のひらにもよくなじんだ。茶器に関しては素人である緒方にも、相当価値のある作品であることはわかる。 緒方が茶器を褒めると、杉浦氏はふん、と鼻を鳴らし、東雲嬢に視線を送る。 「それはそうだろう。これは私が中国からわざわざ仕入れた唐物茶碗(からものちゃわん)だ。昔、東雲家に友好の証として贈ったものなのだが、なぜこの場にあるものかな。なあ、さやかちゃん?」 「っ・・・・・・、これは、その」 かわいそうに、東雲嬢は杉浦氏の鋭い眼光を受け、整った顔立ちを恐怖で歪めながら、傍らの青年の服にすがるように握り締めた。その動きに合わせて、艶やかな黒髪が白い頬にはらりと落ちる。 そこで助け舟を出したのは、やはり彼だった。 「ああそうだ。俺がさやかに無理を言って頼んだ。『大事な客人をおもてなしするから、それにふさわしい茶器を用意してくれ』って」 「ほう」 息子の言葉に、杉浦氏は感心したように声を上げた。視線は再び息子の 方へ注がれ、東雲嬢はほっと胸をなでおろしていた。 緒方は、そろそろ頃合だろうと話を切り出す。 「それで、私たちを茶会に招いたのはどういう了見かな? 君のご実家の方ではなく大学内の作法室に呼び出したのは、それなりの理由があるからだろう?」 柔和な笑みを心がけながら、杉浦に問いかけた。 自分をとことん信頼し、一気に裏切られたにもかかわらず、彼は再び緒方の前に現れた。しかも天敵である自分の父親をわざわざ招いてのことである。いったい何を考えているのか、緒方は内心舌なめずりをしながら、杉浦の様子を伺った。 だが杉浦は、緒方の問いに答えることなく、逆に質問をしてきた。 「緒方さん、俺の茶の腕を見てどう思いましたか?」 意外な方向からの質問に一瞬悩むが、緒方は率直に感じたことを述べた。 「そうだね、私は茶道にはあまり詳しくないけれど、お父上にも引けをとらない良い腕前だったと思うよ。少なくとも油絵を描くよりは向いてるんじゃないかな?」 「そうですか」 皮肉を込めた返答にも、杉浦は無関心に答えただけだった。叩けば響くように答えた数ヶ月前とは比べ物にならない反応の薄さに、緒方は少し味気なさを感じた。まあ、その原因が自分の起こした事件であるというなら、それはそれで面白いと思うが。 次は杉浦氏に問いかける番だった。 「親父はどうだった? 俺の腕は落ちていたか?」 そう息子に問いかけられると、杉浦氏は顎を撫でながら口元をへの字に曲げた。 「まずまず、といったところだな。親戚連中の中でもやはりお前が一番才能がある。このまま修行を積めば、さらに上達するだろう」 「そうか」 意気揚々と答えた父親に対し、息子はやはり感情のない声色で受け止めた。 彼の真横では、茶釜がしゅんしゅんと音を立てている。お盆をすぎたとは言え外はまだ暑いが、クーラーの聞いている室内は冷たい空気が循環していた。その吹き出し口が彼の真上にあるためか、着物に焚き込められた香の香りもほのかにただよっている。 (まさかこれも、杉浦くんの計算なのかな。いや、まさかね) 自分の考えのあり得なさに笑みを浮かべる。彼がそこまで頭のまわる子どもだったなら、緒方にだまされることも、蒼空に逃げられることもなかっただろう。 そう、彼はまだ子どもなのだ。 だから緒方に騙され、ひどく傷ついた。その光景のなんと甘美なことだろう。 自分の絶望に苦しむ顔を見て喜んでいることを知ってか知らずか、彼は自分の父親と緒方の方に向きなおった。そして姿勢を正し、流れるような動作で頭を下げる。 「今回お二人を招いたのは、もう一度俺の描いた絵を見てもらうためです」 「へえ?」 「なんだと?」 息子の言葉に、杉浦氏は一層眉をひそめた。よほど彼の言い分が意外だったのだろう。杉浦氏の顔が、どんどん苦々しい顔つきに変わっていくのが見えた。 「お前というやつは。また何を言い出すかと思えば、結果はさんざん述べただろうが! お前に画家の才能はないんだ。さっさと家を継がんか馬鹿者!!」 「私からも言わせてもらおうかな、杉浦くん。君もなかなかあきらめの悪い子どもだね。君の道楽につきあえるほど、僕も暇ではないんだけどなあ」 緒方もまた、わざとらしい口調で言葉を投げかけた。彼の友人が、部屋の隅でわずかに眉をひそめるのが見えたが、黙っておいた。 しかし目の前の表情は、やはり変わらない。 「そうかもしれません。でも、どうしても諦めきれなかった。だからおれは、また油絵を描きました。あなたがた次第では、生涯最後の作品になるかもしれません」 「・・・・・・ほう?」 「俺の茶道の腕は、今ここですべてお見せしました。そして、俺が新しく描いた油絵でもって、俺の画家としての腕をもう一度見て欲しいんです。もしも俺の油絵が気に入らないのでしたら、以前のようにその場でやぶり捨ててもかまいません。お二人に認められなければ、俺は画家としての夢を諦め、おとなしく家を継ごうと思います」 緒方はちらりと部屋のすみに座る二人を見た。東雲嬢は初耳だと言うように目を大きく開き、口元を手で抑えている。友人のほうはさほど驚いていない様子だったが、整った顔立ちをさらに歪めさせた。 「どうでしょう、引き受けてもらえますか?」 答えを急かす声が響いた。 目の前の青年は、相変わらずの無表情だった。ただ、黒檀のような瞳だけがぎらぎらと獣のようにきらめいている。数ヶ月前に見たそれは絶望の中にどよめいていたのに、まるで別人のようだ。 その目を見て、緒方は思わずニヤリと笑った。おそらく隣に座る杉浦氏も同じような表情をしていただろう。ぐる、と喉元から笑ったような声が聞こえた。 (今度こそ、もう二度と這い上がれないように落としてやろう) その瞳をもう一度絶望の淵に叩き落としてやりたい。 考えが一致した二人は、黒い笑みを浮かべた。 茶会の片付けをしてから行く、という杉浦に代わり、隅の方でおとなしくしていた松田と東雲嬢が、講義室まで案内することになった。緒方の前には、上機嫌な杉浦氏がウキウキした様子で後についていく。この人の中では、絵を見る前から決断しているのだ。そしてそれを息子につきつけ、ようやく跡取りとしての教育ができると喜んでいるのだろう。 無論緒方も、杉浦氏と同意見だった。 自分の父親だけでなく緒方も誘ったということは、おそらく今回の題材も蒼空なのだろう。自分は蒼空の隠された魅力を引きだし、『遼遠』という形で表現した絶対的な自信がある。たとえ本人が否定しようと、その世界的な評価は確かなものだろう。なにより彼自身も、『遼遠』の退廃的な魅力によって、この世界に入ったのだから。 だからたとえどんな作品であろうと、二人は否定することを決めていた。 そんな二人の様子に、東雲嬢もやや慌てている様子だ。距離が離れすぎていてよく聞こえないが、片割れの男に本当に大丈夫か、などと話す声が聞こえてくる。尋ねられた男はなにも言わず、ただ前を向いて歩き続けた。 そんな男の足が、ぴたりと止まる。 「着きました。絵はこの中にあります」 松田は頭を下げ、目の前のドアを示す。そこは以前、緒方と杉浦氏が散々荒らした講義室だった。木製の開き戸の両サイドには、彼の友人である小柄な青年とひょろりとやせ細った青年が立っていた。何も言わず、ただじっと緒方たちの姿を見つめる彼らは、まるで城を警護する門兵のようだ。 だが残念なことに、彼らには侵略する外敵を止めることはできない。なぜなら、その敵は直々に主から『壊しても良い』と言われたからだ。 講義室に着くと、杉浦氏は待ちきれない様子で案内役の青年を突き飛ばし、扉の前に立った。ぐらりと揺らいだ青年を東雲嬢がささえる様子を横目に緒方も後に続いた。 「いいんですか? 杉浦くんを待たなくて」 扉に手をかけ、今にも中に入ろうとしている杉浦氏に声をかける。杉浦氏は振り返ることもなく、フン、と鼻を鳴らした。 「結果などわかりきっているだろう。わしはさっさと絵を壊し、バカ息子を連れて家に帰る。くだらない茶番に付き合うのはもうこりごりだ」 「それもそうですね」 杉浦氏の返答に、柔和な笑みを浮かべて賛同する。緒方もまた、彼の油絵を壊したくてたまらなかった。遅れてきた杉浦がその光景を見てどんな表情を浮かべるのか、それを考えるだけで首筋からぞくぞくとした感覚がこみあげてきた。 「さあ、行くぞ」 杉浦氏が勢いよく扉を開け、中に入っていった。 |
back top next
2013,11,10
(2013,11,17 文章追加しました)