21話












 

 一番初めに飛び込んできた感覚は匂いだった。

 緒方のつんと立った長い鼻に、甘ったるいビターチョコレートの香りがただよってきた。肺の中に残りそうなほど濃厚なそれは、緒方にとってずいぶんと嗅ぎなれたもののように思えた。

 次に目に入ったのは、視界を覆い尽くすほどの大樹だった。

 天井まで届くほどの太く長い枝葉に、どっしりと構えた根っこの、樹齢何千年を思わせるような大きな樹が緒方を出迎えた。葉の色は先ほど頂いた茶のようなどろりとした緑色をしており、所々に黄色みがかった白く小さな花が、葉の隙間からこちらを覗いているように見え隠れしている。

緒方が一歩足を踏み出すと、ふかりとした柔らかい感触が足を包み込んだ。

驚いて見てみると、茶色いスポンジのような、しかも妙に均一で細長い小枝が、床一面に敷き詰められていた。しゃがんで一本抜き取ってみると、なるほど匂いの原因はこれなのだろう。鼻先に持っていくと、濃厚な香りが一層強く香った。

 緒方の数歩先では、杉浦氏が背を向けて立ち尽くしている。顔を覗き込んでみると、目と口をこれでもかと言わんばかりに大きく開け、ポカンとした表情を浮かべている。彼の目の前には、枝葉やむき出しの根の大きさにしては異様に細くしなやかな幹があり、独特のフォルムをしたその中央には、人間のへそのような細長い筋のが入っていた。

 だが杉浦氏が目を奪われたのは、それではなかった。

 緒方の目線の少し上に、女の首だけが置かれていたのだ。

異様に細くしなやかな幹の上に、その首は置かれていた。

枝の分かれ目にすっぽりと収まるように置かれたそれは固く目を閉じ、緒方たちの来訪にもかまわず眠り続けている。白磁器のようにつるりとした肌は白く、細長い金の髪がその頬を覆うようにはらりとかかっていた。   

 あどけなく眠る様子は幼い子どものようでいて、薄い艶やかな唇や筋の通った鼻筋はまさしく大人のものだ。中性的な顔つきでありながらも、やはり目の前の生首は女性のものにしか見えなかった。

緒方は自分の心臓が高鳴るのを感じた。

それは恐怖ではなく、恋慕にも近い感情だった。

 

「どうでしたか、俺の描いた作品は」

「・・・杉浦くん」

 緒方が振り向くと、彼は存外すぐ近くにきていた。

 着物からラフなパーカーとジーンズに着替えた杉浦は、先ほどの茶席で見た姿とは比べ物にならないくらい幼く見える。しかしその表情はずいぶんとしっかりしており、ゆるぎない意志を感じた。

 緒方は内心の動揺を隠すように笑いながら、手にしていた小枝を見せた。

「この匂いの原因はこれだね?」

「はい。『ブラットデビル』・・・先輩が吸っていたタバコです」

 杉浦はタバコを受け取り、手のひらに握り締める。そして呆然と立ち尽くす父親のとなりを通り過ぎると、女の生首・・・もとい、蒼空の頭の方へと歩んでいった。彼女の目の前まで行くと、くるりとこちらを向く。

 そして腕を広げ、背後に広がる油絵を示した。

「これが、今の俺の最高傑作。・・・【菩提樹】です」

 杉浦の声に合わせ、さあ、と太い枝葉が揺れたような気がした。パーカーにジーンズだというのに、彼はこの異様な景色の中で誰よりも似合ってみえた。

 まるで、この菩提樹から歓迎されているかのように。

舞い散る葉の錯覚の中で、杉浦は緒方たちに目線を送る。

「どうしました? あなたたちの目にかなわなければ、この場で壊してしまってもいいんですよ?」

 破り捨てるんじゃなかったのかと、煽るように声をかける息子の言葉に杉浦氏はハッと息を吸った。『菩提樹』に魅入られるあまり、ここに来てようやく、息子が目の前にいることに気づいたのだ。

そして緒方も、この幻想的な世界が、ようやく杉浦の描いた油絵だと気づいた。

『遼遠』と同サイズのパネルをいくつもつなぎ合わせ、より立体的に見せているのだ。いわば3Dアートのようなものかもしれない。天井まで覆われた濃い緑色に押しつぶされるような、そんな錯覚を緒方は感じた。

 何も言わない、いや、言えない二人の様子に、杉浦はフン、と鼻を鳴らす。父親とよく似た、けれど意味合いは全く違うものだった。

「どうして、菩提樹を題材にしたんだい?」

「先輩の思い出の花だと聞いたからです。先輩は幼い頃、この菩提樹に囲まれながら、音楽で人を幸せにする喜びを知りました。それからあなたに出会い、心も身体もボロボロにされるまでずっと夢見てたんです。自分の音楽が、誰かを幸せにすることを」

 杉浦は目を閉じ、何かを押し殺すように歯を食いしばった。背後では菩提樹となった蒼空が、じっと彼の様子を見守っている。

「緒方さん、あなたは先輩を、自分の好きなように変えてしまった。けれど先輩は、本当に魅力的なものをすでに持っていたんです。この木も、花も、葉も、枝も、彼女が最初から持っていたんです!」

 さあ、と空気が揺れる。蒼空の頭が置かれた幹はまるで両手を広げるように天井に向かって枝葉を伸ばし、その先から見える菩提樹の花が鈴のような花弁を互いに揺らし、今にも上品な香りが漂わせようとしている。

「先輩は枯れ木なんかじゃない。退廃的でも、中性的な子どもでもない。ただの女性だ。あなたの好きなように扱っていい人じゃない!」

 杉浦の怒声が、講義室中に響き渡る。びりびりとキャンパスが揺れる様子はまるで、【菩提樹】そのものが怒っているようにも思えた。

「・・・・・・そうか、そういうことだったのか」

 緒方は、菩提樹の前に立つ杉浦を見て気づいた。

 正しくは彼の後ろで、菩提樹となった蒼空の姿に。

 かつて釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたように、蒼空もまた、その身を持って杉浦を導いたのだ。

 緒方よりもはるか上の、本当の芸術の世界へ!

「これが最後です。緒方さん」

 ひと時の沈黙の後、杉浦が再度問いかける。

「この絵を、壊すことができますか?」

 息子の言葉に、杉浦氏はぐっと息を詰まらせた。流派の頂点に立つことを望んでいた彼にとって、大事な跡取りを失うことは言語道断だろう。だが、それでも杉浦氏の目は、まっすぐ『菩提樹』の絵を捉えていた。もはや杉浦氏の答えは、聞かなくともあきらかだった。

 息子もそれを悟ったのか、今度は緒方の方へ向き直り、その真っ直ぐな瞳をこちらへ向けてきた。

緒方の嫌いな、純粋でまっすぐな、子どもじみた目。

 以前見たのも、同じような目だった。

 

 杉浦に呼び出される数ヶ月前、とある人物が緒方のアトリエを訪れた。

 チャイムを鳴らすこともなく、勝手にアトリエに入ってきたが、緒方がそれに嫌な顔をすることはなかった。

なによりそれは、待ちわびた彼女だったからだ。

「・・・・・・」

藤井は無言で、油絵を描いていた緒方に近づいてきた。片手にはキャリーケースをひっぱっており、彼女の後ろからカラコロと音を立てて近づいてくる。

緒方は待ちきれなかったように振り向き、彼女を出迎えた。

「待っていたよ、蒼空。君はかならず私のところに戻って来てくれると信じていたよ」

彼女はうつむいたまま、なにも答えない。少し傷んだ金髪が彼女の顔を隠した。相変わらず中性的な格好をしており、気だるげな様子がさらに緒方の創作意欲を駆り立てた。

(やはり、思っていたとおりだ。蒼空は昔より、もっと魅力的になっている)

ぞくり、と緒方の背筋がざわつく。これこそ、緒方が望んだ姿だった。

藤井になにも言わず海外留学したのも、すべてはこの姿を見るため、彼女からより退廃的な魅力を引き出すためだったのだから。

杉浦の存在は予定外だったが、彼女が自分を心底愛していたのは知っていた。だから緒方は杉浦をわざと持ち上げ、どん底まで叩き落としたのだ。

杉浦の存在でさえも、彼女の魅力を引き出す道具として利用したのだ。

「ずっと、ずっと待っていたんだ。さあ、服を脱いで。君の絵を描こう」

はやる気持ちを押さえ、彼女の小さな肩にそっと手を置く。今の蒼空なら、最高のモデルが描けるだろう。今ならきっと『遼遠』以上の大作が描けるはずだ。

「――――――・・・・・・」

彼女の薄い唇が、ぼそりと何かをつぶやいた。よく聞き取れない。

長身の緒方は、背の低い彼女に合わせるよう身をかがめた。

 その時だった。

「うん? なんだい・・・っ!!

 左の頬に鋭い痛みが走る。じわじわと広がっていく感覚と手を上げている彼女の姿が映る。

自分は蒼空に頬を叩かれたのだ。

「・・・一体何のつもりだい?」

そのことに気づくと、緒方はまるで子どもを諌めるように問いかけた。口角を上げると、血の味が舌の上に広がった。

「それはこっちのセリフだよ。自分の都合で解釈しないでくれる? 私はあなたの元に帰ってきたんじゃない。さよならを言いに来たんだよ」

 藤井はようやく顔を上げ、緒方の目を見た。彼女の目はらんらんと輝いており、はっきりとした意思を持った鋭い眼差しを向けていた。

 それは大学時代、彼女から奪ったはずのものだったのに。

「私はあなたにさよならを言いに来たの。この道具は、実家に帰るためのもの。あなたの元に戻ってくる気なんてないから」

「・・・ずいぶんな物言いだ。本当にそれでいいのかい?」

 彼女はため息をつくと、緒方の襟元を掴み、自身の方へ寄せる。彼女の口が開くたびに甘ったるいタバコの匂いがただよった。

「・・・緒方、たしかに私はあなたを愛していた。あなたが好む格好をしたし、苦手だったタバコを吸えるように頑張った。それはあなたが、私を好きだと、愛していると言ってくれたから」

「私は今でも君を愛しているよ」

 彼女を引き止めるようにささやく。けれど彼女は、頑として動じなかった。

「そんな安っぽい言葉にはだまされないよ。私はもう、あなたにとって都合のいい人形じゃないの」

「その割には、今でも私好みの格好をしているじゃないか」

 緒方は少し傷んだ金髪をひと房すくい上げた。するりと指から離れると、ふわりとした甘い匂いが漂った。

「本当にそう思う?」

 藤井の薄い唇が、ゆるやかな弧を描く。

彼女の髪から漂ったのは、あのタバコの匂いではない。

嗅ぎなれない匂いに、緒方は眉をひそめた。

わずかに湿り気を含んだ、上質なお香の匂い。

 緒方の知らない、藤井の姿がそこにあった。

「あなたに振り回されて散々な目にあったし、この傷はそう簡単に消えることはないだろう。けれど私からはさっきの一発で十分。あとは杉浦くんに敵をとってもらうわ」

「・・・何で今さら、彼の名前が出るんだい? 杉浦くんはもう絵が書けなくなったんだ」

「そんなことはない。杉浦くんは、私が認めた画家だよ? 彼はきっと、『遼遠』を超える大作を描く。そしていつか、本当の私を描いてくれるだろう」

「・・・・・・」

 そんなことはありえないと、鼻で笑おうとして、できなかった。

 藤井の表情は、今まで見たこともないほどに清々しい顔つきをしていたからだ。

「せいぜい、つかの間の勝利を楽しんでいればいい。さようなら、緒方」

 藤井はくるりと背を向け、一度も振り返ることなくアトリエを出て行った。カラコロと鳴るキャリーカートのリズムがいやに明るく聞こえて、扉が閉まったあとも耳に残った。

 

 その音は、今思えば下駄の足音のようにも聞こえた気がする。

 金属質なキャリーのタイヤと漆塗りの木製下駄とはまったくちがう種類だったが、カラコロとリズミカルに鳴る乾いた音色は似ているかもしれない。

 あの時、目の前の青年も同じ音を聞いていたのだろうか。

 緒方は『菩提樹』に描かれた小さな花を見た。講義室の中はむせ返るようなビターチョコの匂いが漂っているのに、清廉と輝くように描かれたそれからは透き通るような香の匂いを感じるようだった。

 あの日の藤井がまとっていた、湿り気を含んだ香りの正体は、きっとこれだろう。

「緒方さん、答えを聞かせてください」

 杉浦はじっと緒方の方をみつめ、言葉を待った。

父親の杉浦氏は相変わらず息子の絵に見とれている。彼に関しては答えを聞くまでもないだろう。

杉浦氏は、以前と同じ高級そうな下駄を履いていた。普通の床では、耳障りに感じるほど大層な音を立て、ふんぞり返って歩いているのに。

彼の下駄は黒檀色のタバコに包まれていたせいで、音は全く聞こえていない。

 緒方は目を閉じ、深く息を吐いた。ここで自分が否定すればいいだけなのだ。画家としての才能をまた貶めてしまえばいい。そうすれば今度こそ彼は、絵をかけなくなるのだ。

 だが、どうやらそれも無理らしい。

 目を閉じたまぶたの裏に、藤井の顔が浮かび上がった。

 『遼遠』で描いた、気だるげで退廃的な彼女ではない、大きな菩提樹の中で気持ちよさそうに目を閉じている藤井がそこにいた。

 自分もまた、心を奪われたのだ。

 杉浦の見出した藤井蒼空に。

「完敗だよ。君の勝ちだ、杉浦くん」

「・・・ありがとうございます」

 緒方がただ一言そう言うと、杉浦は深く頭を下げた。

 

『菩提樹』となった藤井が、どうだと言わんばかりに胸を張っていた。

 

 






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2013,11,17