21話



 

 そして、あれから数年後。
 杉浦は一人、美術館の外を歩いていた。


「くそ、どこまでいったんだアイツは」

 美術館の外へと歩きながら、杉浦は辺りを見回した。高く上がった太陽はぎらぎらと照りつけ、スーツ姿の杉浦に容赦なく日差しを送りつけた。首筋からは玉のような汗がいくつも浮かび、綺麗にアイロンがけされたシャツに染み込んでく。杉浦はイライラとしながらネクタイを思い切りゆるめた。

(あ〜もう、やっぱ慣れない服は着るもんじゃねえな)

 だが、そういうわけにも行かない。

 今日は、杉浦の個展の初日なのだ。都内の美術館に杉浦の作品を展示し、講演会も開催されることになり、本人が思っていたものよりも大規模なものになった。そこまでしなくても、と慌てて止めたが、友人たちからこれくらい評価されてもいいんだよと諭され、仕方なく承諾した。

 大勢の前で話すのは好きではない。それこそ緒方の方が得意分野だろう。あの人は画家というよりもエンターテイメントという役職のほうがにあっている気がする。

 緒方は相変わらず世界中から評価される画家だった。年齢を重ねた顔はさらに色気が増し、端正な容姿は変わらず人気があった。創作活動を進めるかたわら、最近は番組出演をする機会も増え、おそらく日本で一番忙しい油絵画家だろう。

だというのに彼は時々杉浦をからかうような真似をしたり、ちょっとした嫌がらせもしたりしてきた。今回の講演会も最初は断ったのだが、『私が認めた画家は、こんなこともできないのかな?』と挑発的なメールを送ってきて、売り言葉に買い言葉でなぜか引き受けてしまった。相変わらず手のひらで踊らされている感があり、意地は悪いが杉浦より大人であることが嫌でも実感させられた。

まあそれでも、彼なりに杉浦のことは認めてはいるらしい。

今回の個展開催も、彼のおかげで成し得たようなものなのだ。彼の口添えと資金援助がなければ、渋る美術館員たちも説得できなかっただろう。杉浦はまだかけだしで、十分な費用を渡すことができなかったからだ。

そう言う意味では緒方はまだ杉浦のあこがれでもあるのだ。

敷居の向こうへ抜けると中庭に出た。木製のベンチは高く上がった太陽の日差しでほんのりと暖かくなっている。一面に敷き詰められた芝生は青々と茂っており、杉浦が足を踏みしめるたびに革靴をふかふかと受け止めていた。中庭に人気はなく、遠くから子どものはしゃぐ声が聞こえた。この場所は一休みするにはぴったりだが、子どもが遊ぶには狭すぎる。おそらく家族連れは皆、国立公園の方へ行っているのだろう。

「ここにもいないか・・・」

 杉浦はがっくりと肩を落とした。かいた汗が背中にたまりはじめ、気持ちが悪い。杉浦はその場にしゃがみこみ、乱れた息を整えた。

 先程から探しているのは、大学時代の友人・松田の子どもだ。

 いや、正しくは松田と、さやかの息子だ。名は勇太といい、五歳ながらなかなか頭の良いいい子だ。今度は下の子が生まれるといい、お兄ちゃんになると張り切っていた。

 だが、さすがに大人の長話には付き合いきれなかったらしい。

 杉浦と松田、そしてさやかが思い出話に花を咲かせている間に、勇太はどこかへ行ってしまった。元々頭がよく、迷子になってもすぐ店員等にいって父親たちを呼んでもらうのだが、最近はお兄ちゃん意識が強いらしく自分でどうにかして探そうとするらしい。そのせいで余計に迷子になり、建物の外まで探しに行ってしまうこともあるのだそうだ。

 そのため松田と身重のさやかは建物内を、杉浦は美術館の外まで探しにきたのだ。

「あと行くとしたら公園のほうか、それとも・・・・・・ん?」

 汗を拭った杉浦の顔に、懐かしい香りが漂った。

「菩提樹か」

 見上げると、木陰の隙間から鈴のように連なったちいさな花が咲いていた。黄色がかった白いつぼみのような花からはおしべとめしべがのぞいており、風に揺られるたびに透き通るような甘い匂いがただよってくる。

「そうか、そういやもう咲く時期だったっけ」

 杉浦はほう、と息を吐いた。その息で短冊のような細長い葉が揺れる。

 この小さな花が、杉浦の運命を変えたのだ。

 教授から藤井の話を聞いたあの日、杉浦はこの木の下で幻を見た。

 菩提樹の花に囲まれながら、幼い藤井が歌を歌っていた。長い黒髪とワンピースをまるでマントのようになびかせて、幼い少女はただひとりで歌っていた。

 少女はやがて金髪の藤井に変わり、杉浦をはげましたのだ。

『大丈夫、杉浦くんはまだ枯れてないから』

 その姿はまたたきの合間に霧散し、夜風の中へと消えていってしまった。

 杉浦はそれを胸に刻みつけ、大作『菩提樹』を描き上げた。

 青空祭に展示されたその作品は大変高く評価され、杉浦のデビュー作となった。卒業する頃には世界中から支持を受け、緒方に次ぐ若さで有名な

油絵作家となった。

 けれど、それでも杉浦の気持ちは晴れなかった。

 結局藤井は、青空祭にも、杉浦の前に現れることもなかったのだ。

「・・・・・・先輩」

 指でざらついた幹をなでた途端、携帯に着信が入る。

 松田からだった。

「もしもし、・・・・・・なに勇太が見つかった!? なんだ美術館にいたのか。ん、なんだ? 悪い、電波が、え?」

 杉浦は首をかしげながら、電話に耳を傾ける。電波の調子が悪いようで、

松田の声が途切れ途切れにしか聞こえないが、どうやらものすごく興奮している様子だった。

「なに、菩提樹? 今目の前にいるけど。・・・・・・は、美術館の方? あ、ちょっと待て! ・・・・・・切れた」

 杉浦は訳がわからないまま切られた携帯を見る。

「美術館の方って、まさか『菩提樹』のフロアか?」

 頭の中で文章をつなげると、どうやら『菩提樹』が展示されているフロアに何かがあるらしい。

 杉浦の処女作であり、代表作品となった『菩提樹』は、地方の美術館で個展が開催されるたびに展示していた。

 もしかしたら藤井が、どこかで見に来てくれるかもしれない。もしかしたら自分に会いに来てくれるかもしれないという淡い期待が込められていた。どれも無駄骨になってしまったが、それでも今回の展覧会は思い入れのある場所だ。もう残りカスほどの“もしかしたら”を精一杯かき集め、この展覧会に挑んだのだ。

「勇太のやつ、『菩提樹』のフロアにいたのか。そりゃあ見つからないわな」

 子どもが見つかったということもあり、杉浦は芝生の上にどっかりと座った。ざらついた幹に寄りかかると、菩提樹の香りはなおさら強く香った。

 今回の『菩提樹』は、思い出の美術館での開催ということもあり、展示型式により一層手の込んだものにした。

友人である松田たちの力を借り、フロア一帯を迷路にしてしまったのだ。

『菩提樹』葉の部分をレプリカでいくつも作り、パネルを横に並べて迷路にし、ゴールでは本物の菩提樹の絵が見られる、というしかけだった。

たしかにあの場所なら、子どもが迷子になってもすぐには見つからないだろう。大の大人である杉浦が中に入った時もなかなか出られなかったからだ。八木の高度な建築技術と中村の精巧な再現力、そして松田の意地の悪い部分がいかんなく発揮される作品となった。

(あの時は『ブラッドデビル』の匂いのせいで、頭がくらくらしたんだよな。一応体には影響はないらしいけど、念のため年齢制限とかしたほうがいいのかもな)

 杉浦はそんなことを思いながら、静かに目を閉じた。幹に寄りかかって深呼吸をすれば、菩提樹の香りはまんべんなく杉浦の肺の中に収まった。

 懐かしい匂いは杉浦の思い出を満たした。

 しかし同時に、寂しくもさせた。

 杉浦がもう一度吸いたい香りは、この匂いではないから。

「先輩」

 杉浦はまるで座って眠るように首をかしげた。

(自分はどこまで頑張ればいいのだろう。どうすれば先輩は帰ってきてくれるんだろうか)

 そんなことを考え続けながらの数年間、杉浦は絵を描き続けてきたのだ。

どんなに絵を描き続けても藤井は帰ってこない。どうすれば、藤井に認められるような大人になれるのか。

 その時、杉浦の鼻に、懐かしい匂いがただよってきた。

「・・・・・・!」

 杉浦が目を開けると、薄ぼんやりとした煙たい空気が頭上に浮かんでいた。くゆりと歪むそれは菩提樹のような香の匂いではなく、甘ったるいビターチョコレートの匂いがして、たっぷりと吸い込んだそれは肺の中に重たくのしかかった。

 杉浦は勢いよく後ろを振り返った。

 小柄な影が、菩提樹の幹に寄りかかるように重なっている。黒地に金のラインが入ったタバコを慣れた手つきで吸う彼女は、長く艶やかな黒髪だったけれど。

 どうしてか杉浦には、見覚えがあった。

(ああ、俺はまた、へんな幻でも見ているのか? こんな、こんな都合のいい白昼夢を見て)

 杉浦はにじむ視界の中、その小柄な影に話しかけた。

「先輩」

 小柄な影はゆっくりと振り向き、年齢のわりに幼い顔立ちをくしゃりと歪め、子どものような笑顔を向けた。

「やあ、久しぶりだね。杉浦くん」

「―――先輩」

「少し時間がかかっちゃったけど、ようやく私の成果が出来上がったんだ。だから、会いに来た」

 そう言うと彼女はスーツのポケットから一枚のCDを差し出した。パッケージは真っ白で何も印刷されていなかったが、杉浦はその中に、いつか聞いた少しハスキーな声が録音されていることを確信した。

「実は杉浦くんのことは、さやかちゃんがずっと教えてくれていたんだ。初めて『菩提樹』を描いたときも、この美術館で個展を開く話も聞いて、すごく嬉しかった。すぐに会いに行きたかったけど、私は何も成果を上げていない。今までの自分のままじゃ杉浦くんに会えないって思っていたの」

「・・・・・・」

 CDを受け取った杉浦は唇を噛み、目頭にぐっと力を込めた。

 今までどこに、とか、どうして自分をおいていったのか、とか、聞きたいことはたくさんあったけれど。その言葉を紡ごうとするたびに、喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、呼吸すらままならない。

「だまっていなくなってごめんね。でも、ようやく変わることができた。杉浦くんのおかげで、自分を取り戻すことができたんだよ」

 杉浦の本心を知ってか知らずか、藤井はゆっくりと杉浦の目の前に歩み寄る。そして頭を優しく撫でながら、心の底からの笑みを向けた。

「ありがとう、よく頑張ったね」

「っ・・・先輩!!

 杉浦はこらえきれず、小さな身体を抱きしめた。

存在を確かめたかった。

目の前の藤井が、いつか見た幻のように消えてしまいそうで不安だったのだ。

 けれど腕の中の藤井は暖かく、相変わらず『ブラットデビル』の甘ったるい匂いがしていた。痛いよ、と苦笑いを浮かべる表情も、少しハスキーな声色もすべて、杉浦の手の届く距離にある。

 杉浦はようやく確信した。

 自分がしてきたことは、無駄ではなかったこと。

 自分の思いが、彼女に届いていたこと。

「おかえりなさい」

「ただいま、杉浦くん」

 杉浦の声掛けに、涙混じりの小さな声が答えた。

 彼らの背後では満開に咲いた菩提樹が、大きく体を震わせて泣いた。

 

 

 数ヵ月後、藤井蒼空のファーストシングルが発売された。

 真っ白だったパッケージには、鮮やかな色合いの油絵調のデザインが描かれている。

 鈴のような花が咲く木の下には、笑顔を浮かべる黒髪の少女。

 その作品のタイトルは・・・・・・。

 

 



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2013,11,23