4話
「やあ、お昼ぶりだね。おつかれ様」 「・・・・・・うっす」 バイト終了後、いつものようにまかないを持って休憩室に入ると、やはり藤井がタバコを吸いながらイスに座っていた。デッサンモデルとはいえ、彼女の裸を見てしまった身としては顔を合わせるのが少々気恥ずかしい。 だが藤井のほうは何度も経験があるからか、杉浦ほど気にする様子もなく、のんびりとタバコを吸っていた。 今日も休憩室にはビターチョコレートの甘ったるい煙がただよっていた。 「今日のまかないは?」 「今日は鶏肉の煮物っすよ」 「そっか、また唐揚げがよかったな。作るのめんどうだから、家じゃあんまり食べられないんだよね」 「・・・・・・先輩」 「ん? なに、杉浦くん」 藤井は口元からタバコを外し、杉浦の方を向く。薄暗い照明の中、うなじまでの金髪にぼんやりとした天使の輪が写っていた。 今日の一件を受けて、杉浦にはある決心がついた。 テーブルに今日のまかないを置くと、そのまま座らず藤井のとなりに立つ。きょとんとした表情の藤井が杉浦の顔を見上げている。 「んん?」 「実は、先輩にお願いがあるんです」 「お? なになに恋愛相談とか?」 「違います! ・・・・・・その、モデル、なんすけど」 「モデル・・・・・・?」 長いまつげに覆われた瞳ががすう、と細くなる。あからさまに藤井の雰囲気が変わったが、しかし杉浦も引くわけにはいかなかった。 「俺、実はずっと前から先輩の事描いてみたいって思っていて。今日みたいなデッサンだけじゃなくて、本格的な油絵で描きたいんです」 「・・・・・・」 「もちろんモデル代も払います! その、自分金ないんでそんなに多くは払えないんすけど、でもまかない分くらいなら払えますから!」 「・・・・・・」 「お願いします」 杉浦は深く頭を下げた。カラカラと回る換気扇の音だけが休憩室に響いている。そのまましばらく妙な空気が流れていった。 (や、やっぱダメなのか?) じわじわと手に汗がにじんでくる。正直に告白したものの、今思えば『ずっと描いてみたかった』なんてセクハラ発言じゃないだろうか。これで嫌われてバイトをクビにされたらどうしよう。明日から生活できないかもしれない。 (と、とりあえずクビになったら松田たちのとこに押し入って、それからなんとかバイトを探さないと…) ブッ飛んだ被害妄想を続けている間も、藤井はじっとタバコをふかしている。そして灰皿にタバコを押し付けると、藤井は何事でもないかの様に返答をした。 「いいよ」 「ああでも今月の家賃・・・・・・えっ! いいんすか」 「うん。ただし、条件があります」 「・・・・・・?」 藤井は薄い唇を意味ありげにつり上げ、微笑んだ。 「・・・・・・なんすか、これ」 バイトが休みの日曜日、杉浦の視界には一人暮らし中には見たことがないほど豪華な食事が並んでいた。 ご飯と味噌汁に焼き魚、レタスがたっぷりと入ったサラダが自宅のテーブルの上に並べられている。味噌汁とご飯からは湯気が立ち、ダシの聞いた汁の匂いが、空腹の胃袋に容赦なく大ダメージを与える。向かい側には、自分と同じ食事がもうワンセット分用意されていた。 「何って、夕食。あ、何か嫌いなのあった?」 私服姿の先輩がパックのお茶をそそいで持ってきた。グラスに注がれたそれを杉浦の前に置く。 四畳半の室内には絵の具やら筆やらが散乱しており、描きかけの油絵の匂いが強く香っていた。普段片付けてあるテーブルが出されているせいで、さらに身動きするスペースが狭くなっている。 「や、特にないですけど」 「じゃあ冷めないうちにさっさと食べちゃいますか。はい手を合わせて」 「う、うす」 「いただきます」 「い、イタダキマス・・・・・・」 何食わぬ顔で食べ始める先輩の姿に戸惑いながら、おそるおそる箸を取る。初めに汁物をすすると、インスタントではないダシのとれた味がした。中にはとうふと油揚げ、そして冷蔵庫の中で瀕死になっていたはずのにんじんと玉ねぎも入っていた。 「それにしても、台所に片手鍋一個しかないっていうのはびっくりしたね。せめてフライパンがあれば炒め物とか揚げ物もできるんだけど。簡単なものしか作れなくてごめんね」 「いや、とんでもないです。すっげえうまいです」 「そ、なら良かった。じゃあ食べたら始めようか」 「いや、ちょっとまってください! なんかおかしいっす!」 「ん?」 杉浦が慌てて制止の声をかけると、先輩はきょとんとした表情をうかべる。少し小首をかしげる姿は童顔も相まってさらに幼く見え、本当に年上なのかと疑ってしまうほどだ。 「先輩、なんでモデルの報酬が俺の家で飯を作って食べるなんですか!?」 当然の疑問を投げかける。モデルの依頼をした日、先輩はすぐにシフトに入るため、日にちと杉浦のアパートの住所だけを伝えて解散となった。当日、家に来た先輩の手にはなぜか大量の食料があり、杉浦がとめるまもなく夕食の準備をし始め今に至る。特に理由を聞かされていなかったためなおさら理解できなかった。 「だって、前に聞いたら夕食抜かすことが多いって言ったから。それじゃあ健康に悪いもの。モデル代は材料費として支払ってくれればいいから」 「だからそれがおかしいんですって! 俺が作るとかならともかく、先輩が作るのは・・・・・・」 「じゃあ杉浦くん、料理できるの? 片手鍋一個だったし、冷蔵庫の中はほとんど空っぽだったけど」 「う」 「少なくとも自分は我慢できるけど、他人には振る舞えないくらいの腕前だよね? それなら私が作っちゃった方が早いし美味しいよね?」 「・・・・・・はい、おっしゃる通りです」 「分かればよろしい」 杉浦の言葉に満足そうにうなずくと先輩は再度食事に手をつける。杉浦もあらためてみそ汁をすするが、どうにも納得しきれないままだ。 「でもその、いいんすか? ちゃんとしたお給料じゃなくて」 「いいの。モデル代支払うためにまかないなくして、身体壊したら元も子もないよ。だったらお金もらって一緒に夕食食べたほうが効率いいもの。私も夕食代浮くしね」 この話はもうおしまい、という先輩の言葉で会話は途切れた。後はお互いの食器の音が聞こえるばかりである。杉浦は久しぶりの手料理に舌づつみをうちつつも、妙な空気を打ち消すように白飯をかきこんだ。 食事が終わり、後片付けも済んだ頃、ようやく本題の絵を描く時間になった。 「よし、とりあえず終電に間に合うようにお願いね。よっと」 そういうと先輩はおもむろに服をまくり上げた。ぎょっと目を見開いた杉浦は思わず目を背ける。 「ちょ、先輩! いきなり脱がないでくださいよ!」 「え〜いまさらじゃん。授業でも見たし、これからヌードデッサンするんでしょ」 「そ、そうですけど…なんていうか着替えとかは別っていうか」 「何それ、へんなの」 けらけらと弾んだ笑い声が背後から聞こえる。年上の余裕な様子が杉浦にとって妙に癪に障る。 (くっそう・・・・・・) 「おっけー、もういいよ」 振り向くと、先輩はすでに畳の上に敷いたマットに座り込んでいた。古びた蛍光灯の灯りが先輩の細い身体を白く照らし出していく。 「・・・・・・」 杉浦は無言で鉛筆を走らせようとする。 だが、裸の先輩と二人きりというこの状況のせいで集中できない。二・三度HBの鉛筆を走らせ、すぐに止まる。 (だあああくそ! 集中できねえ) 杉浦の中で、いらだちだけがどんどん積もっていった。 「ねえ」 「は、はい!?」 顔を上げると、先輩は肘を付いて退屈そうにこちらを見ている。シーツで若干隠れているものの、年下の異性の前であぐらをかいているのはいかがなものか。しかも裸で。 「なんか話しよ」 「へ?」 「じっとしているのも暇だし、何か話ししながら描こうよ。授業じゃないんだから」 がしがしと頭をかくたびに、女性にしては短めの金髪がさらさらと流れる。 「話って…何話したらいいんすか? 俺そんな気の利いた話できないっすよ」 「なんでもいいよ。大学の友達のこととか、授業のこととか」 「そんなん聞いて楽しいっすか?」 「楽しいよ〜。大学なんてとっくの昔に卒業しちゃったからさ。あっそれが嫌なら家族の話とかは?」 ピクリ。思わず体がはねた。 「・・・・・・」 「あれ? どうしたの」 「・・・・・・すみません、家族の話はちょっと。それ以外だったら答えますから」 「・・・・・・家族の話はイヤ?」 「・・・・・・」 じっと見つめてくる瞳に、黙ってうなずく。その間も杉浦はカンバスに立てかけたスケッチブックを見つめ続けた。 夜も更けた安アパートの一室には、たがいの息遣いだけが聞こえている。都心の喧騒は程遠く、自身の心臓の音でさえも聞こえてしまいそうでなおさらドキドキしそうだ。 ひとときの沈黙のあと、静寂を破ったのは、やはり先輩だった。 「私はね、父と母と、妹がいるの」 先ほどの沈黙などものともしない、軽やかな口調だった。潤んだ唇が光を帯びる。 「両親は兵庫の実家に暮らしていて、妹も最近上京したの。まだ大学生なんだけど私よりもしっかりしていてね。医学部に入学して、医者になるんだって言ってたよ」 「・・・・・・医者? すごいですね」 「そう、私より頭がいいんだ。『私はお姉ちゃんみたいにフラフラしない』って生意気いっていてね。事実だけど悔しいから、その時は軽く小突いちゃった」 「はは、なんか意外っすね。先輩って頼りがいがあるから、ずっとお姉さんしてるのかと思った」 「姉と違って出来のいい妹だからさ。そうそう、小さい頃なんかね…」 ちらかったアパートの一室で、思い出話に花を咲かせる先輩は、まるで子どものように生き生きとしていた。杉浦はといえば、話を聞きながら、いつの間にか軽快に鉛筆を動かしていた。さっきまで筆が止まっていたのが嘘のようだ。スケッチブックには、シーツにくるまりながら楽しそうに笑う先輩の姿が浮かび上がってきた。 その後も先輩は昔話を続けた。妹と一緒に近所のお寺に忍び込んで怒られた話。中学で初めて着たセーラー服が似合わず、従兄弟の学ランと取り替えたいといって大泣きした話。杉浦は相づちをうち、大学の同級生・特に松田や八木たちとやらかしたバカ話を話したりした。 (もしかしたら、俺がガチガチしてるのに気づいて、緊張をほぐそうとしたのか?) 鉛筆を走らせながら、杉浦はふと思った。 なにかと勘のいい先輩のことだ。もしかしたら気づいていたのかもしれない。杉浦が家族の話を嫌がった時も、さらっと流していたから。 (・・・・・こんなに絵を描くのが楽しいの、久しぶりかもしれない) 終電の時間が近づくまで、杉浦たちの話は尽きなかった。 「ありがとう、駅まで送ってくれて」 「いえ、こちらこそありがとうございました。ここで大丈夫ですか?」 「うん、後は自力で帰れるから」 アパートから一番近い駅には、終電の時刻ということもあり人気はほとんどない。秋も深まりつつあるこの季節は空気も澄んでいて、肌寒い風が衣服の隙間を通り抜けていく。窓口にいる駅員も透明な仕切り板のむこうで眠そうにあくびを押し殺していた。 「じゃあ、もうすぐ電車来るから」 「・・・・・・あの!」 「うん?」 杉浦は、あー、とかうー、とか言葉にならない声を発しながら、周囲に何度も目を走らせる。 「・・・・・・今度は唐揚げとか食べたいです」 「ぶっ」 杉浦がそうつぶやいたとたん、思い切りふき出された。顔がみるみるうちに赤くなっていくのがわかった。 「な、なんすかその顔!?」 「いや何、杉浦くんにもそんな可愛いとこがあるんだね」 「はあ!?」 「いいよ、いっぱい作ってあげる。その代わりちゃんと揚げ物用のなべ買っておいてね」 先輩は笑い続けながらも杉浦の肩をポンポンと叩いた。息が苦しくなるほど大笑いしたせいで目元にはうっすら涙が溜まっている。うるんだまつげがてらてらと輝いて見えた。 赤くなってる杉浦にはそれ以上何も言えず、口元を尖らせながら軽く返事だけした。 「…うっす」 「それじゃ、また来週、同じ時間にね」 先輩は切符を買いに自販機の方へ向かい、杉浦もまた駅のドアを通り抜けていった。 見上げれば、星々の光がまばたきをするように点々と輝いていた。地平線の向こう側には大都市のビル群の灯りが見え、まるで少し早めの朝焼けを見ているようである。 杉浦は大きく息を吸い込み、澄んだ空気を体内に取り入れた。胸のほてりとともに吐き出せば、顔の赤みも少しはまともになるような気がした。 (結局言えなかったな…今日の礼) 羽織ったパーカーのポケットに手を入れ、首元をすぼめる。 情けない話だ。自分で頼んでおきながら、いざ二人きりになった時にすくんでしまうなんて。 (松田にバレたら殺されるかもしれねえな) 先輩の大ファンである彼のことを思うと、あながち冗談でもないだろう。ぶるりと身体を震わせると、ちょうどポケットの中の携帯が震えた。 「・・・・・・」 宛先を確認すると、すぐさま携帯の電源を落とす。 今日はまともな夕食を食べられて、先輩の絵を描けていい気分だったのだ。どうせならそのままの気分で眠りにつきたい。 ふと振り返れば、先輩もまた改札の近くで立ち止まっていた。メールでも来ていたのだろうか。電車が来るのが見えると、慌てて改札を通り過ぎていった。 その姿を見送り、杉浦もまたアパートへの道のりをたどっていった。 それから杉浦と先輩は週に一度、たがいの休みの日にアパートへ通うようになった。 先輩の作った夕食を食べ、デッサンをしながら話をし、帰りは駅まで先輩を見送りに行った。まるで付き合っているような関係に見えるが、本人たちにその気はない。すくなくとも杉浦は最初、芸術対象という面で彼女を見ていたはずだった。 けれど、それに気づいたときには、もう遅かった。 |