6話
都内に設置されている国立公園は、都民のあいだでも人気のスポットだ。 ちょっとした遊園地ぐらいの広大な芝生があり、ビル群の立ち並ぶ都会人にとって憩いの場になっている。また、公園内には図書館や美術館が併設されており、ちょっとした休憩所がわりに立ち寄る人も多い。特にこの美術館で個展を開けるのは世界に認められた有名作家のみと言われており、杉浦たち美術作家の卵にとっても憧れの場所である。 杉浦たちは今日、その美術館にやってきたのだ。 「はいこれ、杉浦の分」 「おう」 まとめてチケットを買ってくれた松田からパンフレットと一緒に受け取ると、杉浦は思わず顔がにやけた。それを見ていた八木と中村が、薄気味悪いものを見たかのようにうへえ、と顔をしかめる。 「なんて顔してんだよ杉浦…」 「杉ちん、顔がキモい」 「うっせえ、元から変な顔だよ」 そう反抗しながらも、口元はゆるんだままだ。にやにやしやがら怒る友人に、八木と中村は一層気味悪がっていた。一番杉浦と付き合いの長い松田も、これには苦笑いである。 「仕方ないよ、だって今回の個展、緒方さんだもん」 松田のその言葉に、残りの友人たちも諦め気味に同意した。 緒方とは、今世界でも有数の若手油絵画家・緒方貴弘(おがたたかひろ)のことだ。まだ二十八歳と若輩ではあるが腕は確かで、すでに受け取った賞の数は二ケタを超えている。人物画を中心とした繊細なタッチが特徴で、キャンパスに描かれた人物はまるで本物の人間のように生き生きと描かれている。また、甘いルックスとゆったりとした雰囲気のある好青年でもあり、女性からの支持が多いのも特徴だ。 杉浦にとって、緒方は特別な存在であった。 「当たり前だろ! 俺はな、緒方さんの作品を見て画家になるって決めたんだよ」 「はいはい。その話もう何度も聞いたから」 緒方の魅力について熱く語りだそうとする杉浦を松田がなだめる。 そう、この緒方こそ、杉浦を芸術の世界に引っ張り込んだ張本人なのだ。 きっかけは高校時代、夏休みの課題でしぶしぶ美術館見学にいくことになった杉浦は、そこで一枚の油絵に一目ぼれしたのだ。 タイトルは、【遼遠】。 壁一面に描かれた子どもの油絵だった。 膝をかかえた子どもが、ヘッドホンやテレビなどのガラクタに囲まれながら、何かを求めるようにこちらへ手を伸ばしている。愛おしそうに、切なそうにみつめてくる瞳に、当時の杉浦は目を奪われた。ガラクタの喧騒をものともしない少年の細い四肢が、今にも杉浦の頬を撫ぜてきそうで、ほうと息をはいた。 こんなに美しい存在がここにいるのか。 こんなに心奪われる作品を描く存在がいるのか。 高校生だった杉浦にとって、それはまさしく己の運命を変える出会いだった。 (自分も描いてみたい) (誰かの心を揺さぶる存在を、描いてみたい) その日はどうやって家に帰ったのかはわからない。気がつけば、自分の部屋で授業用ノートに絵を描いていた。何が描きたかったのかはわからないが、ただひたすらに、衝動に任せてペンを動かし続けた。 そのうちそれすらも満足できなくなり、しまいには親の反対を押し切って都内の芸術大学へ進学してしまった。おかげで貧乏苦学生となってしまったが、絵をかけているので今の杉浦にとっては満足なのだ。 杉浦と松田たち三人は受付を抜けたところで解散となった。 「杉ちん、どうせまた三週くらい見直してくるんでしょ」 「ばかやろうそれじゃ足りないくらいだ! ホントは五週くらいしたいんだが、お前らがうるさいからな」 「三週でも十分文句をいいたい位だけどね。こっちとしては」 「それじゃ、解散だな。なるべく早くでてこいよ」 「おう!」 中村の言葉を合図に、杉浦は一足先に展示室へ足を踏み入れた。 (これは『群青の園』。前の作品展にもあったな。こっちの新作もいいよな。やっぱ他の画家と違って筆の使いどころがうまいよな) 杉浦はパンフレットを片手に、一つ一つの絵をじっくり見て回っていた。すでに二週目の終盤に差し掛かっており、松田たちは先に杉浦をおいてロビーの方へ出てしまっていた。 こういう時は卵といえど芸術家。同じ油絵を専攻している者として、どうやってかいたのか、どんな技法で描いているのか自分なりに考察してみることが多い。また、どこからそんな自尊心が生まれてくるのか、『これくらいなら俺でも描けるかも』という気持ちが芽生えてくることもあったりする。 (けど、緒方さんのは違うんだよな) 杉浦にとって、緒方の作品は尊敬ばかりだった。自分ならこう描くとか、自分の方が上手く描けるという思いすら湧いてこない。ただただ感動ばかりで彼の作品を越えようという気持ちは不思議となかった。 ただ、いつかこの人のように絵を描くことができたら、もっと楽しいだろうと、杉浦は漠然と考えている。 「……ん?」 展示も終盤に差し掛かった頃。通路の前方に見覚えのある人影を見つけた。 「……」 『飛翔』の先輩、藤井蒼空だった。 いつものvネックに薄手のニットカーディガン、裾をまくったハーフパンツに足首までのブーツという相変わらず性別の判断しづらい服装をしていた。あの目立つ金髪も健在で今日はワックスをつけていないのか、先週会った時よりも髪の毛が落ち着いているように思えた。 「……」 ただ、先週会った時よりもすこし雰囲気が違うように感じるのは、髪型のせいだけではないだろう。 先輩は、一つの油絵をじっと見ていた。いや、見ていたというより、睨みつけていた、という方が正しいかもしれない。普段のひょうひょうとした雰囲気はなく、すこし近寄りがたい空気を醸し出している。 杉浦は気づかれないように先輩のそばまで近づき、後ろからそっと絵を盗み見た。 その絵は緒方の代表作の一つであり、杉浦もよく知っている作品だ。 上下ともに人一人分ありそうな巨大なカンバスに描かれた、美しい子どもの姿がはっきりと描き出されている。 『遼遠』だった。 描かれてから数年は立っているものの、その魅力は色褪せることはない。 相変わらずガラクタにうもれながら、美しい子どもはこちらへ向かって細い腕を伸ばしている。潤んだ瞳は心の痛みに耐えるように細められ、愛おしい相手に向かって艶かしい視線を送っていた。 「……」 しかし先輩は、その艶かしい視線をものともせず、自分の身長よりも高い位置に掲げられた絵をじっと見つめ返していた。そのまなざしはまるで遠い昔を思い出しているような雰囲気を醸し出しており、その横顔はどこかもの哀しく見えた。 杉浦は息を飲みつつ、声をかけてみた。 「ちわっす」 「っ・・・・・・杉浦くん」 よほど集中して見ていたのだろう。杉浦が声をかけると、藤井はようやく杉浦の方を見た。その表情はどことなく晴れない。 「こんなとこで会うなんて珍しいすね。美術館、好きなんですか?」 「いや。そういうわけじゃ、ないんだけどね」 「この絵、好きなんですか」 「……」 先輩は答えない。杉浦と目を合わせようとせず、きょろきょろと周囲の様子を見回している。その顔にはいつもの飄々とした感じは見られず、どことなく焦っているようだ。 杉浦は再度声をかけた。 「あの、先輩?」 「ごめん」 「えっ?」 「本当にごめん、今ちょっと急いでるから」 「ちょっと、先輩?」 「それじゃあ!」 そういうや否や、先輩は身をひるがえしていってしまった。人ごみの中をかき分けていく金髪の後ろ姿に唖然としながらも、訳のわからない杉浦も後を追った。 館内には油絵の他に彫像も展示されており、何度もぶつかりそうになってひやひやした。 小柄な先輩はそんな人ごみの中をするするとかき分けるように通り抜けていく。ひときわ目立つ金髪がひょこひょこと見え隠れするおかげで、どうにか見失わずに追いかけることだけが幸いだった。 (くそ、一体どうしたんだよ先輩。なんで俺のこと避けるんだ?) 杉浦は内心舌打ちをしながら、小柄な後ろ姿を追いかけた。その距離はじょじょに縮まっていき、とうとう一メートルくらいまで短くなっていた。目の前の通路はT字路に分かれている。 「先輩!」 「・・・・・・!」 「、っと!」 杉浦は手を伸ばし、その手をつかもうとした時だった。 通路の右側に曲がろうとした瞬間、先輩がはじかれたように杉浦の方に飛んできた。どうやら角を曲がろうとした時に誰かとぶつかったらしい。柱の奥に誰かの人影が見えた。おそらく体格的に男性だろう。 「きゃっ!」 「わ、大丈夫ですか」 「ご、ごめん・・・・・・っ!?」 突然、先輩が目を見開いたかと思うとくるりと後ろを向き、今まできた方と逆の方向へ走っていってしまった。 先輩を追いかけたかったが、ぶつかった人をおいていくわけにはいかない。 (と、とりあえず、俺が謝っておいたほうがいいよな?) 「す、すんません。連れがぶつかってしまったみたいで…っ!?」 仕方なく杉浦は、彼女の代わりに謝るべく、柱の影にいた男性に声をかけようとした。だが、今度は杉浦の方が目を見開く番だった。 「・・・・・・ん? ああ、いや、私は大丈夫だよ」 細身ながらがっしりとした体格に、低く艶っぽい声色は穏やかだ。三十代前半くらいのやや濃い目の整った顔立ちはスッキリとしており、今着ているようなカジュアルスーツがよく似合っている。杉浦が声をかけると、ゆるりとこちらを向いて安心させるように微笑んだ。その顔は見間違えようのない、杉浦のよく知る顔だった。 「ああああああ貴方は、も、ももっもしかして!」 「うん?」 「緒方、貴弘さんですか?」 わきあがる興奮を抑えながら、目の前の男に訪ねてみた。鼻息を荒くしながら詰め寄る大学生はさぞかし気味が悪いだろうが、男は動ずることなく暖かい笑顔で答えてくれた。 「ああ、そうだよ」 「・・・・・・ッッ!! あああああの初めまして! 俺、杉浦良太郎って言います。高校時代から先生の大ファンです!」 「おや、嬉しいねえ。ありがとう」 憧れの画家を前に、杉浦の心は大きく舞い上がった。さらに緒方は握手までしてくれて、杉浦は自分の顔が真っ赤になっていくのを感じた。手汗が滲んでないか少し心配しながらも、感触を覚えるようにがっしりと握り締めた。 (うわあああ憧れの緒方さんの手・・・・・・。ところどころゴツゴツして筆だこも出来てる。もう今日は手洗えねえよ!!) 「ところで、さっきの子は・・・・・・」 緒方はふと横を向き、先輩が走り去った方向に目を向けた。横顔もしゅっとしていて隙のない。 「あ、すみません。あの人、俺のバイト先の先輩なんです。今日偶然会ったんですけど、なんでか急に逃げ出しちゃったんですよね」 「ふうん、そうなのか」 「ぶつかったのに謝らなくてすみませんでした。普段はそんなことする人じゃないんですけど」 「いや、大丈夫だよ。きっと何か用事があったんだろうね」 緒方がそう話したとき、その後ろからスーツ姿の男が話しかけてきた。どうやら緒方の秘書らしく、今後の講演会についての話があるので集まってほしいとのことだった。男は緒方からすぐ向かう旨をいわれると、各担当者に伝えるためまた足早にかけていった。 「すまない、ちょっとミーティングがあったのを忘れていたようだ。もう行かなくては」 「あ、いえ。こちらこそ貴重な時間をすいません」 「そうだ。君、今度の講演会にくるかい? よかったらそのあと一緒に食事でもどうだろう」 「えっ? いいんですか!?」 「もちろんだとも。私もファンの子の話を聞いてみたかったんだ」 「い、行きます!」 杉浦は一も二もなく承諾した。緒方は世界中をかけ回る油絵画家であり、こうして日本で展覧会を開くのも久方ぶりのことだった。 その緒方と、食事ができるなんて! (うあああああ!! 生きててよかった、ホント生きてて良かった!!) 「それじゃあまた、彼女にもよろしく伝えておいてくれ」 「はい!」 緒方の後ろ姿を見送ったあと、杉浦は近くの壁に寄りかかるように身体を預けた。 心臓がまだバクバクしているのがわかる。頭の中がふわふわとして、まるで夢でも見ていたかのような心地だ。だが確かに杉浦の手には、緒方の大きくてゴツゴツとした感触が残っている。 「はああああ、マジか。俺、あの緒方さんとしゃべっちまったし、握手もしてもらった…。しかも一緒に昼食を食べようなんて。ど、どうしよう、マジで何着てけばいいんだ!?」 頬を赤く染めながら、杉浦は初デートにいく少女のように悩み始めた。顔をにやけさせながら身体をくねらせる姿はさぞかし滑稽だろう。周囲の注目を集めていることに気がつかないまま、杉浦は友人からの着信があるまで、夢見心地のまま立ち尽くしていた。
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