7話



 

 だがその夢見心地も長くは続かなかった。

今日は週に二度のデッサンの日。アパートに戻ると、すでに扉の前で先輩が待っていたのだ。

美術館をでてそのまま一緒に飲みに行こうと松田たちに誘われたが、先輩との約束もあり、一人だけ先に電車で帰ってきた。だが、今思えば飲みに行ったほうが良かったのかもしれない。

 先輩の機嫌、というか雰囲気が、すこぶる悪かった。

一見普段と変わりないように思えたが、その表情は暗く、いつもよりどこかぼうっとしているように思う。原因はおそらく美術館でのことだろうというのはわかったが、原因そのものがなんなのかは聞けなかった。

『なんで美術館にいたんですか?』

『どうして、俺を見て逃げたりしたんですか?』

そう聞きたかったが、『理由は聞くな』という無言の圧力を受けているような気がして、結局聞くことができなかった。

 重い雰囲気を夕食ごと胃袋におさめ、早々にデッサンを開始する。

「……」

「……」

 今ほど沈黙がつらいと思ったことはない。

 普段ならその一筆一筆のあいだにも言葉が交わされるのに、今日は互いに一言も話さなかった。冬が近づいてきたせいなのか、先輩の機嫌が悪いせいなのか、透き通るような肌は青白く、艶がない。その整った顔立ちもあり、まるでマネキンのようにも見える。これはこれで良いのかもしれないが、杉浦が描きたいのは、普段の子供っぽくて艶のある、生き生きとした先輩だ。

 その時、玄関のチャイム音が室内に響き渡った。

「・・・・・・すみません、ちょっと出てきます。テキトーにこれ着て待っていてください」

「・・・・・・うん」

杉浦は畳んであった洗濯物のなかから自分のTシャツを引き抜き、先輩に

手渡した。秋口とはいえ夜は肌寒い。さすがに先輩を裸で放っておくのは

気が引けたし、先輩も何も言わずに受け取っていた。

(ああもう、誰だよこんな時に!!)

「はいはい、どちらさんで・・・・・・うおっ!?」

 年季の入ったドアを開けた途端、小さくて黒いかたまりが、杉浦の胸元に飛び込んできた。

「良ちゃん! やっと見つけた」

 つややかな黒髪が尾を引くように宙を舞い、小柄な背中をふわりと覆う。腰と腹部のあたりが柔らかい感触に包まれ、抱きしめられているのだと気づいた。彼女が持っていたビニール袋が腰元でがさりと音を立てる。

 中村たちが見たら羨ましがるだろう光景の中、杉浦はわなわなと唇を震わせた。

「お前、まさか」

「そう、さやかだよ。久しぶりだね良ちゃん」

 顔を上げたさやかと名乗る女は、なつかしそうに笑みを浮かべる。ふわりと揺れる髪からは品のいい香の匂いが漂った。少しファンデをのせただけであろう肌は透き通るほど白く、先輩とは違った部類の美人であった。彼女が垢抜けた都会風の美人であれば、こっちは清楚で着物の似合う和風美人だ。

 だが杉浦にとってはただの幼なじみで、恋愛対象ではない。杉浦はめんどくさそうに身体を押しのける。

「お前、なんでアパートまで来るんだよ!?」

「だって、私からのメールとか電話とかいっさい無視するじゃない」

「余計なお世話だ。帰れ」

「余計じゃない! たったひとりの幼馴染がせっかく心配してあげてるのに。良ちゃんのことだから絶対食事とかろくなものとってないだろうと思っていろいろもってきたんだから。感謝してよね」

「頼んでない、いいから帰れ」

「嫌! 帰らない」

「か・え・れ」

 互いに押し問答を繰り返していると、奥の部屋から先輩が顔を出してきた。

「杉浦くんどうしたの? なんかずいぶん騒がしいみたいなんだけど・・・・・・って、あれ?」

 先輩がさやかに気づくと、さっきまでの暗い表情はどこへやら。大きな瞳を輝かせながら、杉浦とさやかの顔を見比べた。

「なになに、杉浦くんの彼女!? こんな可愛い子がいたなんて知らなかったよ! もう、もったいぶらずに紹介してくれれば良かったのに」

 口元を押さえてはいたが、にやけているのは隠しきれていなかった。年上としての性なのか、杉浦に彼女がいたことを大いに喜んでいる。

 だが、さやかの方は、先輩の姿を見た途端、顔を真っ赤にしていた。

 それもそのはず、今の先輩は裸にブカブカのシャツだけを羽織った、非常にきわどい姿だったからだ。

「なっなななな、なんて格好してるの!」

「先輩! その格好で出てくるのはいろいろとまずいですよ!」

「あ、ごめん忘れてた」

 細身で小柄な体格の先輩には、杉浦のTシャツは少し大きすぎたようで膝下まで隠れてしまっている。しかも肩の部分はゆったりしすぎて片方だけずり下がっており、凹凸の少ない胸元まで露わになっていた。どこからどう見ても彼シャツを着た彼女の姿だろう。

 さやかが杉浦の方に向き直るとずいと詰め寄った。こころなしか目が据わっているように見える。

「ちょっと良ちゃん! この人誰よ良ちゃんのなんなのよ!!」

「ただのバイト先の先輩だよ、お前には関係ないだろ、ぐえっ!?」

「ただのバイト先の先輩が、こんな格好で良ちゃんの部屋にいるわけがないでしょー!?」

 さやかに胸ぐらを掴まれ、息が苦しくなるほど締め付けられた。

 小柄な体のどこにそんな力があるのか、徐々に締め上げる力が強くなっていく。 

「私には、私にだけはなんでも打ち明けてくれるって信じてたのに・・・・・・おじさんたちに内緒で都会の大学に行った時も私にだけは教えてくれたのに。良ちゃんの馬鹿! アホ! 嘘つき!」

「だからちげーって言ってるだろ!」

「いや〜はっは。すごい言われようだね、杉浦くん」

「先輩も見てないで止めてください、ていうか着替えてきてください!」

「いやいや、せっかくの再会を邪魔しちゃいけないかと思って」

 先輩は自前のタバコをくわえ、甘い香りの煙を吹き出す。後輩が首を絞められているというのに、この先輩は背後でのんびりタバコを吸っていた。絶対にこの状況を楽しんでいる。しかも自分に害のないように杉浦の背後に隠れながら。

どうにか手をはずさせようと腕を掴み、軽く力を入れた。とたんに相手の態勢が崩れ、襟元から手が外れる。

 (よし、やっとはずれた!)

「いたっ・・・・・・きゃあ!」

 だが、態勢が崩れたさやかはそのまま杉浦の胸元に飛び込んでくる。受け止めたまでは良かったものの、開いたままのドアからバカでかい叫び声が聞こえてきた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

玄関の方に目をやれば、大口を開けている中村と八木、そしてその後ろからひょっこりと顔を覗かせている。

「げえっ! 中村、八木、松田まで!?」

「お前・・・・・・せっかくひとり寂しく飯を食ってるだろうお前のために酒やらなんやら買ってきてやったのに! 誘いを断ったのは女に会うためだったのか!」

「ちげえよ!」

「し、しかも、玄関で抱き合って、一体何しようとしていたの? 良ちゃんのえっち!!」

「うるせえよ妙な勘違いすんな! ちげーから! 倒れそうになったところを支えただけだから!!」

「うわ〜ん! 中村〜杉ちんが俺らをいじめる〜」

 彼女いない歴イコール年齢の男どもは気色悪い声を上げて抱き合っている。

 人の話を全く聞かない連中に、杉浦の怒りもたまり始めている。

 その上厄介なことに、松田が杉浦の後ろにいる先輩に気づいてしまった。

「あれ、蒼空さん。こんなところで何してるんですか? …って!?」

「げっ」

「あれ、松田くんも来てたんだ。やっほ〜」

 先輩は特に気にせず手をふる。その拍子にTシャツがずるりとはだけ、きわどい位置まで下がった。

「きゃー!!」

「おっと」

 なぜか八木の方が甲高い悲鳴をあげ、先輩は全く気にせずはだけたところを元に戻した。一部始終を見た松田は、今まで見た中で一番おそろしい笑みを杉浦に向けた。

「ちょっと杉浦・・・・・・なんで先輩がお前の服着てるの? 二人で何してたの?」

「お、落ち着けって松田」

「おま、杉浦! 可愛い女の子の他にこんな美人まで連れていたのかよ! お前は親友だと思ってたのに、最低だ」

 男たち三人はじりじりと杉浦に迫り、言い募ってくる。松田に至っては完全に目が据わっており、杉浦の首をじわじわと握りこんできた。

「ねえ杉浦、僕にもわかるように説明してくれない? なんでソラさんが半裸で、お前の服着てるの?」

「ちょっ・・・・・・松田・・・・・・苦し、お前ガチでやろうとしてるだろ」

「いや〜杉浦くんもモテモテだね」

「先輩ははやく着替えてきてください!!」

 杉浦の悲痛の叫びが、アパート中に響きわたった。

 



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2013,08,17