8話



 

「どう? 落ち着いた?」

「はい・・・・・・お騒がせしてすみませんでした」

「そう、よかった。そっちの三人も頭は冷えたかな?」

「「「はい・・・・・・」」」

「できれば謝ってくれねえかな、俺に」

「「「それはヤダ」」」

 自分の服に着替えた先輩は、コップにインスタントコーヒーを注ぎ、杉浦たちに配った。杉浦たちはなみなみ注がれたコーヒーをありがたく頂戴し、ほうっと一息つく。確かにここは杉浦の家だが、勝手知ったるなんとやらだ。先輩のおかげでようやく落ち着いて話ができそうだ。

 あの大騒動の後、杉浦たちはとっちらかった部屋を急遽片付け、ようやく人数分入れるようなスペースを作った。それでもさすがに六畳半の部屋に六人はせまいようで、慣れないさやかは肩身がせまそうに畳の上で縮こまっている。

「それで・・・・・・え〜と、名前なんだっけ?」

「あ、私、東雲さやかといいます」

「そうそう、さやかちゃん。さやかちゃんはどうしてここに来たの?」

 隣に座った先輩が首をかしげると、さやかはうつむいた。所在無さげに遊ばせた指に細い黒髪がはらりとかかる。

 こうしてみると、先輩とさやかは本当に対照的だ。さやかの着ているワンピースが畳の上にふわりと広がり、汚い室内が一気に華やかになった。先輩が来た時も華やかにはなるのだが、さやかの比ではない。

「・・・・・・友だちの家に遊びにいって、近くだったから様子を見に来たんです。一人暮らしで仕送りももらってないから大変だろうと思って、何か作ってあげようと思って」

「優しい彼女だねえ。杉浦くん、大事にするんだよ?」

「彼女・・・・・・だと?」

「だから違いますって。あと中村もいちいち反応するな」

「良ちゃん家と私の家は茶道の家元で、親同士が仲良しだったから、昔からよく一緒に遊んでいただけですよ」

「へえ、こいつが茶道ねえ・・・・・・」

「杉ちんが茶道。似合わないね」

「うるせえ! 」

 松田たちが疑惑の目を杉浦に向ける。八木の言葉を聞いたさやかが、キッと鋭い目線を向けた。

「良ちゃんの腕前はすごいんですよ? 小っちゃい頃から大人たちに一目置かれてて、おじさん・・・・・・良ちゃんのお父さんからも後継ぎとして指導されてきたんです」

 そこからまた暗い表情に戻り、手のひらをきゅっと握りしめた。

「なのに、高校生になって、急に『家を継がない』って言って家を飛び出しちゃったんです。びっくりしたけど、良ちゃんが決めたことなら応援しようって思いました。なのに・・・・・・」

 さやかの小さな肩が震えている。

「なのに、アパートに来てみれば女の人を裸にして!」

「おい! だからデッサンだって言ってるだろうが!! なあ松田」

「そうだね、デッサンは身体の構造を知るうえで基本中の基本だね。でも学校でやるならともかくこんな狭いところでふたりっきりでやってるなんて知らなかったなあハハハ」

「おい! 悪意のあるフォローはやめろ。内緒にしてたことまだ根に持ってるのかよ」

「きゃ〜杉ちんのえっち〜」

「えっち〜」

「八木もからかうな、先輩も悪ノリしない!」

 八木のからかいに、先輩も煙草をくわえたまま茶化してきた。相変わらず子供みたいな人だ。

 だがそのせいで、標的が先輩のほうへ向いてしまった。

「あ、あなただってそうです!」

「あれ、私?」

 顔を真っ赤にしながらさやかが先輩に向かって指をさす。部外者面で楽しんでいた先輩は少し驚いたように目を丸くする。

「お、男の人の、しかも大勢の人の前で裸になるなんて恥ずかしいと思わないんですか!?」

 声をうわずらせながら、さやかは先輩に言いつのった。なるほど顔が赤いのは興奮からでなく頭に血が上っているからだろう。育ちのいい彼女にとって人前で裸になるなど大問題なのだ。

 だが、先輩のほうは少し頭をかいて、困ったように首をかしげる。

「う〜んでも学生時代からやってるからな。今さら羞恥心とかないんだよね」

「そ、そんな前から!?」

「うん、そうだよ。いや〜結構もうかるんだよね」

「信じられない…なんてはしたないの」

 さやかの顔が限界まで赤くなり、頬を押さえた。

「・・・・・・・」

 その一言をつぶやいたとき、先輩の目がすうっと細くなったのを見た。あきらかに今の状況はよくない。

 だが杉浦が止めようとしてもさやかの言葉は止まらなかった。

「はしたないとは思わないんですか!」

「おい、さやか」

「最低です…っ!?」

 ぱしん。

乾いた音が響きわたり、杉浦たちの耳に届いた。

杉浦の目の前にはいつのまにか松田がいて、さやかの頬を叩いていた。

おそらく手加減はしていたのだろうが、それでもさやかの柔肌には強すぎたようだ。透明な頬にゆっくりと朱色が広がっていく。

「おい松田、お前なにしてるんだよ」

「いい加減にしないか。なんでも君の尺度で図るんじゃない」

 普段よりいくぶん低い声がした。背中を向けているのでわからないが、おそらくその表情はものすごく怒っているのだろう。

 叩かれた頬を押さえながら、さやかが息を飲んだのがわかった。

「・・・・・・っう」

「ソラさんは、俺たち芸術家の卵のためにモデルをやってくれてるんだよ。最低とかはしたないとかいうんじゃない!!」

 普段温厚な人間が怒ると怖いとはよく聞くが、今の松田はまさしくそれだ。女相手に加減はしているのだろうが、それでもさやかには十分すぎるほどだった。長い睫に覆われた瞳は大きく見開かれ、涙がたまり始めている。身体を固くしながら、松田の鋭い眼光を受け続けていた。

 緊迫した空気が室内を覆う。かつてこの部屋で、こんな居心地の悪い思いをしたことがあっただろうか。

だが幸いなことに、この雰囲気を壊せる人物がいた。

 先輩はしばらくタバコをふかした後、何も言わずに立ち上がり、松田の前に立った。

そして無言のまま、彼の頬を両手で挟み込むように叩いた。

「こら」

「痛っ! 何するんですか」

「それはこっちの台詞、女の子に手をあげるのは感心しないよ」

「でもソラさん! この子、ソラさんにひどいこと言ったんですよ?」

「……!!」

 松田に指を刺され、さやかが息を呑む。

 だがその問いかけにも先輩は首をふった。

「だからって私が怒るならともかく、松田くんが手を挙げることはないでしょう?」

「……っ」

 松田はぐっと息がつまらせた。

 そして先輩は松田に背を向け、さやかと目線を合わせるようにしゃがみこんだ。びくりと身体を震わせるさやかに、先輩は優しい声色で話しかける。

「大丈夫? まずは冷やそうか。跡が残ったら大変だからね」

「あ…」

 さやかの顔から緊張がほどけていくのがわかった。その拍子にたまった涙が一滴落ち、ワンピースの上に透明な染みをつけていた。

 先輩はそれを見届けるとすくっと立ち上がり、杉浦たちのほうを見渡す。

「さやかちゃんが落ち着くまで見てるから、男の子達はいったん出て行きなさい。あ、ついでにタバコも切れてたから買ってきてね」

「ええええ?」

「はいこれ空き箱。品名は【ブラットデビル】だから。あ、この辺だと駅中のタバコ屋まで行かないと売ってないからよろしくね」

 先輩は杉浦の手のひらに灰色の箱を押し付けるように渡した。空き箱からはかぎなれたビターチョコの香りがただよってくる。パッケージの真ん中ではステッキを持った黒猫が帽子を掲げて愉快に踊っていた。

「ちょっと先輩!」

「ソ、ソラさん」

「はいはいさっさと行った行った。それじゃ、よろしくね」

 男たちが靴も履き終わらないうちに外へと押しだし、先輩は勢いよくドアを閉めた。ご丁寧にカギまでかけられたようで、かちゃりと錠の閉まる音が薄暗い廊下に響きわたった。家主である自分が追い出され、客である先輩に好きなようにされているのはいかがなものだろうか。

「「「「……」」」」

「どうしよう、杉ちん」

「俺に聞くなよ・・・・・・」

 妙な空気が流れる中、男たちは互いの様子をうかがうように目配せをする。

特に事の発端となった松田と杉浦に対してはほとんど無関係であるはずの八木と中村から戸惑いの視線が向けられた。

 沈黙に耐えきれなくなった松田は大きくため息をついた。

「しょうがないよ。とりあえずほとぼりが覚めるまで出てこよう。ソラさんの言うタバコ屋って最寄り駅の方にあるの?」

「いや、たぶん二駅先のところだったと思う」

「うわ〜完全に追い出す気満々だね」

「あの子、大丈夫かな」

「先輩なら大丈夫だ。あの人も大人だし」

 男たちはとぼとぼと力なく歩きながら、薄暗い夜の市街地へ向かった。

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「ほら、とりあえず頬を冷やしておこう。女の子なんだから痕が残っちゃ大変だ」

「はい・・・・・・」

 部屋に残されたさやかは座り込んだまま身体を固くしていた。赤くなった頬には絞ったふきんが当てられている。ひんやりとした感触がくすぐったくて、さやかはぶるりと身体をふるわせた。

 なんて妙な状況だと、さやかは思った。

 目の前には杉浦と一緒にいた謎の女性が、自分の頬を冷やしてくれている。両手で押さえ込まれるように冷やされているせいで、互いの顔はくっついてしまいそうなほど近くにあり、藤井が口を開くたびにほろ苦いビターチョコレートの香りがさやかの鼻をくすぐっていた。

「あの、私自分でできますから」

「ダメ、ちゃんと冷やしておかないと」

 おそるおそるさやかが申告しても、すげなく却下されてしまった。さやかにとっては跡が残るより、端正な顔立ちが目の前にある方が心臓に悪い気がする。うつむきたくても頬を押さえられているが、藤井の方は特に気にする様子もなく、さやかの頬を優しく冷やし続けていた。

「……」

「……」

 さやかにとって長く重い沈黙が続いた。絵の具のチューブや画材道具の散らばった部屋は、生活臭というより高校時代の美術室に嗅いだことのある匂いだった。ただ座り込んだ畳のチクチクとした感触が、幼なじみの住むアパートだということを思い出させてくれた。

(良ちゃん…)

 さやかは幼なじみである杉浦のことを思い出した。子どもの頃はさやかの手を引き、一緒に遊んでくれた。自分が困っている時に助けてくれる彼はまるで本当の兄のようで、ひとりっ子だった私は嬉しかったのだ。

 それがいつしかすれ違うようになり、大学進学の時には、誰にも相談せず一人で上京してしまった。

 それでも、自分にだけはアパートの住所を教えてくれたから、自分が慕っているように、杉浦もさやかのことを慕ってくれていると勝手に思い込んでいたのだ。

 だから、メールを無視されても、ひどいことを言われてもめげずに頑張ってきた。

 それなのに彼の隣にいたのは見知らぬ女性で。

(良ちゃん、どうして教えてくれなかったの? 私じゃ良ちゃんの助けになれないの?)

 飲み込んだ言葉はのどまで出そうになり、その度に歯を食いしばった。

 時計の針が九時に回ろうという頃だろうか。

「君は、杉浦くんの幼なじみなんだっけ」

 蒼空が口を開き、自分の頬を押さえたままじっとさやかの目をみつめてきた。

「そう、ですけど」

「へえ、こんなかわいい子が幼なじみなんて、杉浦くんもなかなかやるねえ」

「そんなこと、ないですよ。良ちゃん、私のことなんか全然気にかけてないんです」

「そうなの? それはひどいなあ」

「でしょう? こっちは心配してメールとか電話とかしてるのに一切無視してくるんですよ。今日だって、一人暮らし大変だろうから私が手料理でも食べさせてあげようと思ったのに」

「うんうん、確かにあの言いようは傷つくよね」

(なんだろう、この人と話してると楽になる…ってダメダメ! もしかしたらこの人は良ちゃんを惑わす悪い人かもしれないんだから!)

 そう思いながらも、せきを切った言葉は止まらない。

「・・・・・・私、良ちゃんが自分で決めたことなら応援してあげようって決めてたんです。何度メールを無視されても、電話でひどいこと言われても。それでも私だけは良ちゃんのこと、信じていようって。…でも、今日アパートに来てみたら」

「私みたいなのがいて心配になった?」

「・・・・・・東京にはほとんど来たことがなくて、お母さんたちからは怖い人たちもいるから気をつけなさいって言われてたから」

「はは、正直だね」

「・・・・・・ごめんなさい」

さやかは暴言を吐いた罪悪感から、肩を落として身体を小さくさせた。

 それでも藤井は朗らかに笑い、さやかの暴言もまったく気にしていないようだった。

「いいんだよ。それに、妹にもよく言われてたんだ。『そんな不良っぽい恰好はやめて。全然似合ってないし、みっともないよ』って」

「妹さん、いるんですか?」

「うん、もう何年も会ってないけど。でもね、どうしようもないんだ」

「え?」

「頭ではわかっていても、どうしてもやめられないんだ。タバコも、この格好も」

「それって、どういう」

 さやかが続きを聞こうとすると、藤井はさやかの頬から手を離した。

 細い金色の髪が、さやかの顔から遠のいていく。

「よし、もういいかな」

「あ、ありがとうございました」

「どういたしまして」

 藤井は使ったタオルをテーブルの上に置くと、さやかの隣にどっかりとすわりこんだ。あぐらをかいた上にひじをつき、さやかのほうに顔を向ける。

「とりあえず私は杉浦くんとは先輩後輩なだけだから、安心していいよ」

 藤井のフォローにも、さやかは信じられないという顔つきをした。

「・・・・・・部屋に上がって、裸になっていました」

「あれはデッサンだもの。ヌードモデルのバイトは学生時代からしていたし、もっと大勢の前でやったこともある。あの子たちにとって私はそういう対象には見られないんだよ」

「で、でも! それでも男の人のアパートで、二人っきりでいるなんてはしたないです」

「う〜ん、まあ君からしたらそうなんだろうけどね。でも私は、杉浦くんだったから、モデルの依頼を受けたんだよ」

「え?」

「確かここに・・・・・・お、あったあった」

 藤井は部屋のすみに無造作に置かれた画材道具の中から、一冊のスケッチブックを取り出した。大きさも暑さも市販に売られているものより大きく、ところどころに鉛筆のような汚れがついていた。

「これは?」

「杉浦くんのスケッチブック。多分学校でも使っていたやつだろうね。前に来た時に見たことあるよ」

「へえ・・・・・・って勝手に見ていいんですか!? 良ちゃん怒りますよ!」

「大丈夫、何度か見たことあるし」

 さやかの心配などおかまいなしに、藤井はぱらぱらとページをめくり始めた。紙のめくれる音とともに鉛の匂いがふわりと香る。鉛筆の香りを嗅いだのは小学生以来だ。

「私はね、本当はモデルを受ける気はなかったんだ」

 ページをめくりながら、藤井はどこか遠くを見るようにスケッチブックを眺めた。モノクロの絵をめくりながらとつとつと語られる言葉は、まるで独り言のようだった。

「昔モデルをやっていた時にいろいろあってね。それ以来、こういう芸術関係には近づかないようにしていたんだ。さすがに恩師に頼まれたときは断れなかったけど、個人で依頼されたときは断ってきた」

「じゃあどうして、良ちゃんのモデルは断らなかったんですか?」

 おそるおそるさやかがたずねると、藤井はにっこりと微笑んだ。

 まるで面白いものを見つけた子どものような無邪気な笑みだった。

「それはね・・・・・・これ」

 藤井はそっと、開いたページをさやかに見せてきた。

 そこに描かれていたのは・・・・・・。

 



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2013,08,25