十話


 

 勢いよく吹き出したそれは彼女がはめていた手袋を容赦なく引き裂き、地面へとめり込んでいく。そして、ゆっくりと村人たちに向かって黒い波紋を広げていった。

「な、なんだあれ?」

「触るな! それに触ると疫が伝染るぞ!」

「えっ!」

 呆然とする村人たちを、戸部が後ろから押す。ただ、下手人の青年は冷や汗を浮かべながら、皆をなだめようとした。

「だ、大丈夫だ。確か悪い神様は門から出られないって・・・・・・え?」

 浸食した疫は門を通り抜け、ゆっくりと村人たちの足元にまで伸びていった。甘ったるい芳香を放つそれは戸部たちの足元に到達すると、草履がじゅうじゅうと音を立てて黒く染まっていった。横を見れば、門の近くに生えていた草花が真っ黒になり、風に吹かれて灰となっていた。

「ひえっ・・・・・・!?

「た、祟りだ! 神様の祟りだあっ!」

「この黒いのに触れると焼けただれるぞ、早く逃げろ!!

 村人たちは慌てて持っていた農具を捨て、石段の方へと逃げていった。高熱と痛みで逃げ遅れそうになった戸部も、一足早く動いた臼井に担がれて石段を下る。

 楼門の下に残されたのは傷ついた善光と千鳥、そしてユエだった。疫の侵食は止まらず、周囲の草花を枯らしながら、渡辺たちのほうへと少しずつにじり寄っていく。

「くそっ、だから言ったんだ。隠された歴史は無理やり掘り返しちゃならねえって!」

 荒々しく髪をかきあげて、渡辺が悪態をつく。その体にすがるように、青年が話しかけてきた。

「お、お役人さま、オレたちどうしたらいいんだ・・・・・・?」

「知らねえよ! お前らがやらかしたことだろうが! いいから早く村の奴らにも知らせてこい。このままだと、疫が村のほうにも降りて来るぞ」

「ひ、ひいいい」

 石段の下では、村人たちの慌てふためく声が聞こえてくる。

 それを耳にしながら、善光は何度もユエを呼び続けた。

「ユエ、やめるんだ。僕たちなら大丈夫だから」

「・・・・・・」

 だがユエはうずくまったまま動こうとしない。白銀の髪の隙間から肌を蠢く影の姿が見える。うつろな瞳は見開かれたままだ。

「ユエ・・・・・・」

 善光の視界がぐらりと揺らぎ始めた。肩から流れる血は一向に収まる気配をない。鈍い痛みと熱に冒されながら、善光は力なく頭を壁に寄せた。

(このままじゃ、みんなが・・・・・・どうすればいいんだ)

 自分の無力さに、善光が強く拳を握る。

 その時だ。

「やれやれ、随分と賑やかじゃのう」

 不意に、どこか落ち着きのはらった声が山道の向こうから聞こえてきた。渡辺たちが振り返ると、そこには腰の曲がった小柄な姿があった。

 さきほど麓で善光が話をした、あの老婆だ。

「お、おい婆さん。こんなところで何やってるんだ! 早く逃げろ」

 村人の一人が老婆の肩に手をかけ、来た道を戻るよう促す。しかし老婆は鼻を一つだけ鳴らすと若者の手を振り払った。

「フン、そりゃあコッチの台詞だね。あんたたちこそ、この神社に何しに来たんだい。ここは入っちゃイカンとお前の親父たちがガキの頃から話していただろう」

「そ、それは・・・・・・」

「挙句には神様まで怒らせちまって。全く世話の焼ける奴らだねえ」

「って、婆さん何やってるんだ。そっちはダメだって!」

 老婆はあろうことか、草履を脱ぐと、すたすたと神社の方へ歩いていった。石段はすでに、半分以上が黒く染まっている。直に触れたらひとたまりもないだろう。

 それでも老婆は歩みを止めない。腰が少し曲がっている割にはしっかりとした足取りで石段を一歩一歩登っていく。

そして、とうとう老婆の足が疫の影に触れた。

思わず村人たちが目を背ける。

「ひいっ・・・・・・い?」

 村人たちの想像を裏切り、老婆の足はスイスイと石段を上がっていく。足には土で汚れた後以外、なんの変化も見られなかった。

「フン、このくらい。ワシには痛くも痒くもないね」

唖然とする村人たちを見下ろし、老婆はフンと鼻を一つ鳴らした。そうしてそのまま、善光たちの元へと歩み寄る。

老婆の姿を捉えた善光の瞳が大きく見開いた。

「お、婆さん? どうしてこんなところに」

 戸惑う善光には何も答えず、老婆は門の手前側に伏せていた千鳥の体を拾い上げた。傷の具合を確認すると、懐から取り出した手ぬぐいをまいてやる。

「・・・・・・」

「ふん、お前さんも相変わらずだね」

 老婆の言葉にも鮮血にまみれた翼がわずかに上下するばかりで千鳥はなにも答えなかった。もしかしたら、すでに意識を失っているのかもしれない。

 そんな千鳥を抱きかかえたまま、老婆はまっすぐユエの前に立ちふさがると、今度はユエの方へと向かった。

「いつまでそうしている気なんだい」

「・・・・・・」

「そこの坊主の傷が深い。早く手当しないと、死んでしまうよ」

!!

はっと顔を上げたユエが、老婆の顔を見つめる。途端に石畳から疫が引いていき、ユエの体へと戻っていった。

 老婆はそれを認めるとユエの膝の上に千鳥をのせてやる。ぴくりと震えた手が千鳥の身体に触れようとした。

だがそれよりも早く老婆が制止する。

「やめときな。いくら御使いだとて、傷口から疫が入ったらひとたまりもないよ」

「っ・・・・・・!」

 ユエの身体がびくりとはねる。おそるおそるといった様子で自身の手を確認すると、着物の袖を一生懸命伸ばし、余った布の部分で千鳥を抱きかかえた。   

ユエの着物にも鮮血がじんわりと染まっていく。その様子に、ユエの顔がまた泣きそうになった。

 その間に老婆は善光の腕をとり、懐から取り出したもう一枚の手ぬぐいを腕に巻きつける。血の流れがようやく止まり、善光の口から深い溜息がもれた。

 老婆が善光の顔を覗き込む。その際、顔の左半分を隠す白髪が、さらりと揺れた。

(・・・・・・ん?)

「立てるかい?」

 老婆に支えられながら、善光はどうにか体を起こした。何度ももつれそうになる青年を見て、老婆は石段の下で固まっている渡辺たちにむけて声を荒げた。

「兄ちゃん達、こいつはアンタたちの連れだろう? さっさと連れてったらどうなんだい。それともお役人ってやつはこんな老体に鞭打つつもりなのかねぇ?」

「は? あ、ああ」

 状況が読み込めず呆然としていた渡辺は、慌てて石段を駆け上がってくる。門のところまで入ってくると、善光の体を軽々と背負った。

「さあ、アンタたちも帰った帰った!! くだらないことに時間を費やしてるんじゃないよ!」

「ひ、ひいい!」

 肝の座った声色に、村人たちは大慌てで山道を駆け下りていった。残されたのは呆然とした様子の臼井と戸部だけだった。

 白髪の老婆は草履を履き直しながら、渡辺に声をかけた。

「ここからならワシの家の方が近い。さっさといくぞ」

「婆さん、アンタ一体」

「話はあとにせい。その坊主も兄ちゃんもとっくに限界じゃ。早急に手当をせねば、命も危ういぞ」

「う・・・・・・」

 臼井の背の上で、戸部がうめき声をあげる。本来なら立っているのもままならないほどの高熱と痛みに冒されながら、あの立ち振る舞いをしたのだ。気を失うのも無理はない。

「待って! っ!」

 石段を降りようとしたところで、ユエが呼びかけた。引きとめようと振り上げた片手は見えない壁に遮られ、鈍い音を立てる。おそらくそれが、壁一面に貼られた御札と、門の上にある巨大なしめ縄のせいだろう。封印の話は本当だったのだと、朦朧とする意識の中で納得した。

 歩きだそうとしていた老婆はゆっくりと振り返る。

「なんじゃ」

「善光をどこに連れてくの? 善光を返して、返してよ!」

「ユエ・・・・・・」

 ユエの悲痛な声が響き渡る。見えない壁を破ろうと、非力で小さな腕が何度も拳を振るう。せめて声だけでも答えようと、少女の名前を呼ぶ。

 だが老婆はただ冷静に言葉を返すだけだった。

「お前さんに何ができるというんじゃ。手当しようとしても疫はうつるし、そもそもこの場所じゃまともな治療は出来んじゃろう」

「でも、」

「いい加減にせい! お前さんのわがままで、この坊主を殺す気かい?」

「ッ!」

 ユエの表情が悲しげに歪む。抱きかかえた千鳥の体をぎゅっと抱き寄せた。

 老婆はそれ以上は何も言わず、渡辺の腰を叩いて急かした。

 善光自身、後ろを振り返る気力もなかった。重くなっていくまぶたの向こうに、むせび泣くユエの姿が焼き付いた。今もまだ、ユエの呼ぶ声が聞こえてくる。

「善光、行かないで、善光」

(ユエ、僕は一体、どうすればよかったのかな・・・・・・?)

 渡辺の背に揺られながら、善光は完全に意識を手放した。

 




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2014,08,10