十三話


 

 もともと楓たちの先祖は、山の麓で暮らしていた村人だった。

ある日その先祖が重い病にかかり、それを助けたのが『オヤヒロ様』なのだという。土地神であったオヤヒロ様は病にかかった先祖を哀れに思い、病の元である疫を自身の身に移して助けた。元気になった先祖は感謝の気持ちを示し、山の上に神社を立て丁重に祀ったのが始まりだそうだ。それ以来、村人からも多数の信仰を受け、厄払いの神様として近隣の村からも参拝の者が来るほどの神様となったのだという。

 そして先祖はオヤヒロ様のお世話をする役割として次第に権力を持つようになり、今ではいくつもの村をまとめる代表役を兼任することになった。その慣習は楓たちの代まで変わらずに引き継がれている。

「あ〜、むっ!」

 楓は大きく口を開け、冷水で冷やされたきゅうりにかぶりつく。水滴のついたそれを噛み砕くと、青臭くみずみずしい香りが口の中いっぱいに広がった。きゅうりから溢れる水分が乾いた喉を潤していく。

 楓は社の階段からゆらゆらと足を伸ばしながら、またキュウリを一口ほおばった。水で泥を落とした楓の頭を手ぬぐいで拭いていた由縁は、少しだけ呆れたように声をかける。

「楓、そんなに慌てて食べなくても誰も取りはしないわよ」

「らって、おいひいんらもん」

 もごもごと口を動かしながら楓が振り向く。きゅうりがたっぷり入った頬袋に、姉は口元を抑えながら吹き出した。彼女の吐息が頬を撫ぜる感覚が少しだけこそばゆい。

「はいはい、わかったから。よく噛んで食べなさいね」

 そういいながら由縁はふたたび妹の顔を前に向けさせ、濡れた髪を丁寧に乾かした。髪と地肌の間を姉の暖かい指が通り抜けるたびに楓はこそばゆい心地になる。

 多くの人々から崇められ敬われるオヤヒロ様だが、彼女たち姉妹にとって誰よりも身近な存在だった。オヤヒロ様の祀られる神社は姉妹にとってはどちらかといえば遊び場のような感覚が近い。幼い頃から境内の中で追いかけっこやかくれんぼをして遊んだりしていたためだろう。

 現に今も二人は社の階段に座り、髪の毛をいじる場所にしている。神主である父に見られたらきっと怒られるのだろうが、今は村の方に出かけていて不在だ。姉妹を咎めるものは誰もいなかった。

 楓がもう一本のきゅうりを食べている間に、由縁は手際よく妹の髪を整えた。ある程度乾いた髪をべっ甲の櫛で丁寧に梳かし、前髪部分を藍色の結い紐で結ぶ。由縁が手を離すと、結んだ髪が天へ向けてピンと立ち上がった。

「はい、できたわよ」

 由縁が声をかけると、楓は着物の袖で軽く手をぬぐい、結ばれた髪に触れた。泥と砂にまみれた髪はサラサラになったものの、真っすぐに結ばれた髪には不満が残る。

「え〜、またこの髪型? 私、姉さまみたいな三つ編みがいいよ」

「ダメよ。楓の髪は短いし、まだ早いわよ。楓はいつも山の中を走り回るからすぐどこかにひっかけちゃうわ。三つ編みはもう少しお姉さんになってからね」

「むー!」

 楓は頬をふくらませたが、楓のささやかな抵抗は姉の頬を緩めるばかりだ。しかたなく膨らました頬をしぼませ、残りのきゅうりにかぶりつく。そんな楓の頭を由縁の手のひらが優しく撫でた。

「ふふ、私も楓くらいの頃はそうだったわ。早く髪を伸ばしたかったけれど、お母様からまだ早いって止められたわ」

「そうなの?」

「ええ」

 振り返った楓に、由縁は優しい表情を向ける。

 その時、なにか羽をばたつかせるような音が聞こえた。

「あっ、カラスだ」

 社から門をつなぐ石畳の上に、真っ白なカラスが舞い降りた。手入れされた純白の毛並みは、太陽の光を浴びずともほんのりと輝きを放っている。まん丸に開いた黒い瞳はじっと姉妹の方を見つめ、乳白色のくちばしが何か物言いたげに上下していた。

 楓は眉をひそめ、姉のそばに寄り添った。幼い頃の楓は、時折姿を現す真っ白なカラスがどうにも苦手だった。初めて見たときはなんてきれいなカラスだろうと思わず見とれたものだが、何か物言いたげにじっと見つめられることが多いので苦手意識が芽生え始めたのだ。

 だが姉は、なだめるように妹の髪を撫で、カラスにむけて声をかけた。

「こんにちは、御使い様。今日も暑うございますね」

「・・・・・・」

 当然ながら、カラスは何も答えない。それでも姉はめげずに笑みを浮かべる。

「社の裏の湧水に、楓の持ってきた野菜が冷やしてあります。よろしければお召し上がりくださいませ。もちろんオヤヒロ様にもお供えいたしますから、存分に召しあがってください」

「・・・・・・」

 純白のカラスは少しだけくちばしを広げると、大きな翼を広げて飛び上がった。そして真っ青な空に数度円を描くように回ると、そのまま社の奥に向かって飛び去っていった。

 立ち去ったカラスにほっと息をつくと、姉が優しく背を撫ぜてくれた。彼女の体からほんのりと香る香の香りが楓の心を和らげてくれた。

「怖がることはないわ。楓だって何度か見たことあるでしょう。あれはオヤヒロ様に仕える御使い様よ。悪いことなんてなさらないわ」

「でも、じっと見てるから怖いよ」

「楓のことを見守ってくださってるのよ。昔はお御使い様もたくさんおられたそうだけれど・・・・・・オヤヒロ様も、私たちや父様、村の人たちのことを守ってくださるの」

「姉さまは、オヤヒロ様に会ったことがあるの?」

 楓がたずねると、由縁は小さく首をふった。

「私はないけれど、お母様が一度お会いしたことがあるらしいわ。お御使い様のような真っ白な髪をした、優しくて綺麗な方だったそうよ」

「ふうん・・・・・・いいなあ」

「どうかしたの?」

 楓がため息をつくと、由縁はきょとんとした顔で妹を見る。長い三つ編みがさらりと揺れて、花のような香りが漂ってくる。

「姉さまは本当になんでも知ってるんだね」

「なんでもじゃないわ。お母様やお父様、それに蔵で読んだ書物のお話くらいよ。お母様の代わりを務めるにはまだまだ勉強が足りないわ」

 由縁は柔らかな笑みを引き締め、真剣な表情になった。

 姉妹の母は楓が物心つく前に亡くなった。重い病にかかっていたのだが、オヤヒロ様に助けてもらうことを拒んだらしい。楓にとって母とは姉の話す物語の登場人物のような存在だった。大好きな姉の口から尊敬の念を込めて語られる彼女は、それこそオヤヒロ様のように尊く感じた。だからこそ、幼い楓は溜息が出るばかりだ。

「でも私、まだ字が読めないもん」

「大丈夫、これから覚えていけばいいのよ。私が教えてあげるわ」

「本当!?

「ええ、最初は私もお母様から字を教わったの。御使い様のお話も、お母様から聞かせてもらったのよ」

「そうなの?」

 楓が尋ねると、姉は嬉しそうに何度も頷いた。母のことを語る姉は年相応に子どもっぽくはしゃいでいるように見える。人一倍に笑顔を見せてくれるので、楓も母の話を聞くのは好きだった。

 由縁は背後から楓に抱きつくと、とかしたばかりの髪の毛を撫で始めた。唐突に抱き寄せられたせいで階段から落ちそうになる。顔をあげれば姉の満面の笑みに迎えられ、楓は文句を言う隙を逃してしまった。

「これはお母様が教えてくれたことなんだけど・・・・・・物語はね、親から子へ受け継がれ、永遠に伝えられていくものなの。お話を伝えた人は死んでしまっても、その想いは誰かの心の中でずっと生き続ける。こうしてオヤヒロ様がいらっしゃるのも、ご先祖様が感謝の気持ちを忘れずに私たちの代まで伝えてくださったからよ」

 聡明な姉は目を細め、まるで祈りを捧げるかのように胸元に手を重ねた。楓も姉を真似て自身の左胸に手を当てる。サラリとした布地の下で小さく脈打つ音を手のひらに感じた。

「私たちが忘れない限り、神様はずっとここにいらっしゃるわ」

「本当に? 私のここにもいるの?」

 楓が自分の胸に手をあてたまま首をかしげる。小さな鼓動が布地ごしに手を叩くだけで、神様という存在は見当たらない。それでも由縁は楓に向けて優しく微笑んでみせた。

「もちろん。だって私がお母様から聞いて、楓に伝えたんだもの。だからね、楓もいつか子どもが生まれた時は、今度はその子にも教えてあげるのよ?」

 姉の眼差しは柔らかいながらも真剣そのものだ。その目をみれば、この話がとても大切なものであることは幼い楓にもわかった。

 だから楓は胸元に手を当てたまま、元気よく頷いてみせる。姉から受け取った物語が胸元からこぼれ落ちることのないように。

「うん、わかった! 楓の赤ちゃんが生まれるまで、ずっとこうしてる!」

「やだ楓ったら。ずっと胸を押さえてなくてもいいのよ」

 くすくすと微笑む由縁につられ、楓も大きな笑顔を浮かべて姉に抱きついた。重ねた手のひらは夏だというのにぬくもりが心地よくて、楓は頬をすり寄せて甘えた。

 神社に鳴り響くセミの声は遠く、姉と過ごすこの瞬間が楓はなによりも好きだった。この時間がずっと続いくのだと、幼心にずっと信じていた。

 だが穏やかな日常をかき消すように、野太い声が境内に響き渡った。

「由縁、楓、またここで遊んでいたのか」

 声の方を向けば、楼門の下に数人の人影が見える。何人かは楓にも見覚えがあった。麓の村に住む人間だ。みなあの山道を登ってきたのだろう、汗だくで、特に一人の老人はひどく青い顔をしている。傍らの青年に寄りかかり、今にも倒れてしまいそうなほど具合が悪そうだ。

「・・・・・・お父様」

彼らの姿を確認すると、由縁の顔がみるみるうちにしかめつらに変わっていった。

 父親は石畳の上をどかどかと踏み鳴らし、まっすぐ二人の元へと近づいてきた。由縁は社の階段から降り、楓も姉に促される形で立ち上がる。食べかけのきゅうりは小袖の中に隠した。

 涼しげな境内の中が先ほどとは違う意味で冷え込んできた。

 あの山道を登ってきたというのに、父親の顔に疲労の色は見られない。背筋を伸ばし、楓の身長のはるか高いところから見下ろされ、思わず胸元においた手を強く握った。

 由縁はそんな父親の目線にも臆することなく、自分から一歩前に出て見つめ返した。

「後ろの方々はどなた? まさか、またオヤヒロ様に疫を移しに来た方ではないでしょうね」

 娘の言葉に、父親はふんと鼻を鳴らした。村人たちが父親の背後で心配そうに二人の様子を眺めている。

「それ以外に何がある。由縁、お前は楓を連れて家に帰りなさい。儀式の準備をしなければならないんだ」

 由縁の顔が一気に陰りを見せる。

 『疫を移す』とは、その名のとおり、オヤヒロ様に疫を渡すことだ。

 かつて楓たちの先祖が病に苦しんだとき、オヤヒロ様が病の元である疫を吸い取りその身で清めることで助けてくれた。以来オヤヒロ様は病気を治す神様として祀られ、訪れた病人の疫を移して癒している。行為自体には問題はない。だが姉は、その量の多さに声を荒げているのだ。

「ここ数日だけでオヤヒロ様は何十件と疫を吸い取り続けているわ。そんなに病の元を受け取ったら、いくら神様でも具合が悪くなってしまうわよ」

 姉の声は勢いを増した。セミの喧騒をかき消すように響いた言葉は、怒りよりも懇願しているようだった。黒檀色の瞳がわずかに潤んでいるのが見える。

 だがそんな姉の言葉も、父親には届かない。

「うるさい。仕方がないんだ。都で流行っている病が村にも出てきて、みな不安になっている。オヤヒロ様に病を完全に沈めてくださるほどの力があればこのようなことにはならなかったのだ」

「そんな、オヤヒロ様のせいだなんて」

「それに、今回の方は特に重症だ。お前は病を押してこられた村の人を、無下に返すというのか?」

「っ!」

 父親が後ろをさせば、村人たちは心配そうな目を由縁に向ける。彼らに支えられた老人の顔はさっきよりも青白く、立っているのもままならない様子だった。このまま追い返せば、きっと帰る途中で倒れてしまうだろう。

 姉はなにかを言いたそうに何度も口を開いたが、結局何も言い返せないままうつむいてしまった。

「わかったら、さっさと楓を連れて帰るんだ」

「・・・・・・楓、行きましょう」

「あっ」

 由縁は道を開けると、楓の手を引いて歩き出した。胸元に重ねていた手はあっけなくほどけ、宙を舞う。

「うちの娘が失礼をいたしました。さ、どうぞ社の中へ。すぐに準備をいたしましょう」

 父親の声を背後から聴きながら、由縁と楓は門をくぐり抜ける。途端つんざくようなセミの鳴き声が姉妹を追い立てるように飛び込んできた。

「姉さま、待って。早いよう」

「・・・・・・」

 楓が声をかけても返答はなかった。握られた手首がいっそう強く引かれ、楓は転ばないようにするだけで精一杯だった。引いたはずの汗が額から吹き出し、息が荒くなる。

 楓は空いている方の手を胸元に重ねた。小さな心臓が早鐘を打ち、胸の奥で膨縮を繰り返しているそのあまりの早さに、姉からもらった物語をなくしていないかと少しだけ不安になった。

 姉はかわらず前を向き、早さを緩めることなく家路へと向かっていく。うつむきがちに歩く姉の後ろ姿に、楓もそれ以上声をかけるのをやめた。

 二人分の静寂をかき消すように、雑木林にはセミの鳴き声が響き続けた。

 




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2014,08,23