十四話
『ねえ、セン。貴方はどう思うかはわからないけれど、私は後悔していないわ。あの時、村人たちを助けたことも、オヤヒロ様として社に祀られたことも、すべて私が選んだ事。貴方が悔やむことではないの』 「ですが、主よ」
『村の子ども達がすこやかに生き、私を信仰し続けてくれたことが、すごく嬉しかった。でも、私がふがいないばかりに・・・・・・こんなことに、なってしまって』 「主よ、もういいのです。わかっておりますから」 『ごめんね、私のせいで。御使いも、とうとう貴方ひとりになってしまった。けれど、それでも、私は・・・・・・』 「どうか、もう喋らないでください。主よ。お体に触ります」 『ねえ、セン。お願い、最後にわがままを聞いてくれる?』 「・・・・・・」
『いつか私が、私でなくなっても、それでも、私に仕えてくれる?』 「・・・・・・」
『お願い、セン』
「・・・・・・もちろんです。この千鳥、最後まであなたにお仕えしましょう。たとえ貴方が、貴方でなくなったとしても」 『・・・・・・』
「だから今はおやすみください。この千鳥が、最後までそばにおりますから―――」 * 事が起こったのはその年の秋の頃。 残暑が名残惜しくすぎていき、いよいよ実りの秋を迎えようとしていた頃に、突然村の作物が枯れ始めたのだ。 干からびていく作物の葉や稲には、墨を落としたようなどす黒い紋様がいくつも浮かんでおり、周囲に異様なほど甘ったるい芳香を漂わせている。無論そんな作物など食べられるはずもなく、今年の収穫は絶望的なものとなっていた。 さらにたちの悪いことに、紋様は人にも伝染りはじめた。体中を埋め尽くすように丸い紋様が浮かび上がり、体中を覆う頃には息を引き取ってしまう。そんなおそろしい病が近隣の村中に現れ始めた。原因も分からず、解決の手立てはいっこうに見つからないままだった。 村人たちは当然、オヤヒロ様にすがった。自身の体に浮かび上がる不気味な紋様を消してもらうために、いくらでも祈りを捧げた。だが、いくら祈っても村から病は消えることはなく、病の被害は深刻化するばかりだった。 今日もまたオヤヒロ様の救いを求め、楓たちの家に村人たちが押し寄せてきた。 「一体どういうことなんだ! オヤヒロ様は何をしている」 「ウチの子も病にかかってしまったんです。どうか、どうかお助けください!」 「このままじゃ冬を越せない。オレたちみんな死んでしまいます」 閉ざされた門の向こうでは何十人という村人が押しかけている。そんな騒音を遮るように、父親は思い切り格子の戸を閉めた。幼い楓は村人たちの悲痛な声を毎日のように聞いていたせいですっかり滅入ってしまい、布団の中でぐったりと横になっていた。そんな楓のそばで由縁もまた心配そうにその背を撫ぜた。 「どうして、こんなことになったんだ」 由縁たちの隣で独り言のように父親がこぼした。 その言葉にこらえきれなくなった由縁は、とうとう非難の声を上げる。 「だから言ったでしょう! 疫を移しすぎてオヤヒロ様も具合が悪くなってしまったのよ。お父様、村の様子は見ました? ひどい有様でしたよ! 畑には草の一本も生えず、あの胸の奥にのしかかるような甘い疫の匂いが村中に漂って・・・・・・それもこれも、お父様が私の忠告を聞いてくださらなかったから!」 「私が悪いというか! 私はただ、村人たちを救うため役目を果たしただけだけではないか。祈祷も供物も、いくら捧げてももうどうにもならん。オヤヒロ様など、所詮は役立たずの土地神だったのだ!」 「オヤヒロ様のこと、悪く言わないで!」 村人たちの喧騒に代わり聞こえてきたのは父親と姉の喧嘩だ。楓を間に挟み、また長い言い争いを始めた。胸の奥がムカムカとする感触が湧き上がり、口元をおさめる。 その時、父親の目が楓をとらえた。痩せこけた頬に張り付いた鋭い眼差しが弱った楓の顔をとらえる。 「こうなったら、もう一度ちゃんとした供物を捧げるしかない」 「・・・・・・お父様、何を考えているのです?」 「もうこれしか、これしか方法がないんだ。たとえどんな犠牲を払っても、あいつの願いを叶えてやらなくては」 「やめてください、何を言っているのですか!」 楓の方に伸ばされた腕を由縁が振り払う。そして再び言い争いが始まった。 楓はこらえきれず耳を塞いだ。これ以上誰かの怖い声を聞きたくはなかった。できるものなら、この家を飛び出して、どこか遠くへ行ってしまいたかった。 目を伏せれば、まぶたの裏に思い浮かぶのはあの神社だ。山の中を駆け回り、神社に務める姉に出迎えてもらう。社の階段で髪を結ってもらいながら姉の語る物語に耳を傾けるのだ。あの夏の日のなんと眩しかったことだろう。境内の木の葉はすっかり赤くなった頃だろうか。セミの代わりに、今度は赤とんぼが林中を飛んでいるのだろうか。もう何日も外に出ていない楓にとって、あの神社での思い出は随分と過去のことのように思える。 塞いだ手の向こうでは、今なお父親たちの言い争う声が聞こえてきた。楓はいっそう強く耳を押さえると、少しずつ意識を飛ばしていった。 どれくらい眠っていたのだろう。気づけば楓は、すっかり眠ってしまっていた。灯りのない部屋は指先も見えるほど真っ暗にかわっていた。楓はまだ夢の中にいるような心地で、布団の中でまどろんでいた。 (父様、姉さま?)
ふと、そばにいたはずの二人が部屋にいないことに気づく。起き上がろうにも身体は重く、まぶたは今にも閉じてしまいそうだ。まどろむような感覚が、ひどく心地良い。 そんな時、楓の目の前でふすまが開いた。飛び込んできた明かりが眩しくて、思わず目をつぶる。そうしている間に、衣擦れの音が室内に入りこんできた。 (だれだろう)
そう思いながらも動く気はせず、楓は寝たフリをすることにした。 衣擦れの音は楓の元へと近づき、すぐ目の前で止まった。おそらくロウソクの灯火であろう光源がまぶたごしにうつる。楓がまぶしがらないような位置にロウソクを置き、衣擦れの主が優しく少女の頭を撫でた。その手のひらの感覚は、馴染みのある柔らかい感触だった。 (なんだ、姉さまか)
自分を起こしに来たんだろうか。そう思った楓は気づかれぬように薄目を開け、姉の姿を盗み見る。視界の先には、やはりロウソクを掲げた由縁の姿があった。しかしその出てたちにやや違和感を覚える。 (きれいな着物・・・・・・) 先程までしっかり三つ編みにまとめていたはずの黒髪はそのまま肩へと流れており、毛先まで丁寧に櫛で梳かされた髪はロウソクの明かりに光の筋を伸ばしている。また着物も純白の衣に金の刺繍が施された豪奢なものにかわっており、刺繍の蝶が袖の中で舞っているようにも見えた。姉の表情はよく見えなかったが、いつものように背筋の伸びた佇まいは、それはそれは美しいものだった。 それにしても由縁は、なぜこのような格好をしているのだろうか。そう思いながらも楓のまぶたは再び落ちようとしている。 「――――――」
その時、開けたふすまの向こうから、誰かが声をかけてきた。由縁は頭を撫でるのを止め、かわりに楓の手のひらに何かを握らせる。 (これは、なに?)
それからロウソクを持ち直した由縁は、再び衣擦れの音を響かせて廊下へと出ていった。遠のくロウソクの明かりは廊下に佇む数人の人影を映し出す。よく見えなかったが、おそらく村の大人たちだろう。姉より頭二つ分高い頭身が、由縁のほうへ身をかがめて何かを話している。由縁はそれに、一つだけうなづきを返すと、廊下の向こうへと姿を消した。 そして一人の村人が取っ手を掴み、ふすまを閉めていく。 足音が遠のくと、楓は勢いよく飛び上がった。自身の手に握られた何かを格子戸に向けて掲げる。それはいつも由縁が髪を梳かすのに使っていた、べっ甲の櫛だった。確か姉が幼い頃、母から譲り受けた大切なものだったと聞いた覚えがある。 「なんで櫛なんか渡したんだろう。姉さまが持ってればいいのに」 楓が首をかしげると、家の外からなにやら鈴の音が聞こえてきた。一定の間隔で鳴り響くそれは祭り事の歌のように合いの手を刻み、楓は掛けふとんをまとったまま格子戸へと歩み寄った。 庭の景色はずいぶんと奇妙なものに変わっていた。 階下の庭には村人たちと思ワシき無数の人影があり、皆一様に火のついたロウソクをもって佇んでいる。中央には開けた道のようなものがつくられており、それを境に村人たちは二手に分かれていた。また、何人かの村人が時折腕を動かし、鈴の音を奏でている。楓は今まで見たことのない光景に、自分はまだ夢の中にいるのではないかと錯覚し始めた。 しばらくすると、開けた通路にも人影が現れた。提灯を持った大人が先頭を歩き、そのあとからもう一つ、小柄な影が後を進んでいく。 その小さな影に、楓は首をかしげた。 「あれ、姉さま?」
人影の正体はは、先ほどまで楓の頭を撫でていた由縁だった。まばゆいばかりの衣をまとった姉は、遠目で見てもわかるほどしっかりと背筋を伸ばし、凛とした佇まいで歩みを進めている。ほどけた黒髪がロウソクの火の中で艶やかになびき、純白の衣へと流れていった。楓は今にも姉が振り向いて自分を呼んでくれるのを待ったが、結局その思いは叶わなかった。由縁はそのまま提灯の灯りとともに門の向こうへと消えていってしまった。由縁の姿が消えると、ロウソクの灯りもまばらになり、やがていつもの庭の風景へと戻っていった。 楓は、それでも格子戸の向こう側を見つめ続けた。先ほど見た不思議な光景に目はすっかり冴えてしまい、かすかな鈴虫の音も大きく感じるほどだった。 いったい先ほどの光景はなんだったのだろう。 姉はどこへいったのだろう。 疑問は次々に浮かんでくるものの、彼女の問いに答えてくれる人はいなかった。 「姉さまが帰ってきたら、聞いてみようかな。『どこに行ってたの?』って」 楓ははやる胸元を抑えながら、朝日が登るまで外の景色を眺めていた。 それが楓にとって、最後に見た姉の姿だった。 その夜の出来事以来、由縁は姿を消した。忙しい父に代わり、楓の世話は村の女性たちが見てくれるようになった。楓が村人に姉のことを聞くと、彼女たちは少しだけ悲しそうな顔をしながらこう答えてくれた。 『由縁ちゃんは、神様のところにいったのよ』
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