十五話
姉がいなくなってから、一年の歳月が流れた。 村中を覆っていた流行病はすっかり消えてなくなり、病の者も元気を取り戻していった。また、病に冒された土地も水で洗い流されたように元通りになり、今年は例年をはるかに凌ぐ大豊作となったそうだ。まるで病など最初からなかったかのように平和な日々が過ぎていく。 ただ変わってしまったのは、由縁が帰ってこないことだ。 いや、変化はそれだけではない。あの日の夜以来、オヤヒロ様を祀る神社は出入り禁止になった。村人たちの中には自ら感謝を言いに行きたいという者もいたが、神主である父は首を振るばかりだ。 楓自身も一度父に訪ねてみたが返答は濁された。それどころか父は、忙しさを理由に楓に会うことすらしようとしない。一緒に食事を交ワシたことすらずいぶんと前のように思う。 当然、楓の不満は募るばかりだ。父の代わりに村の女性たちが世話を焼いてくれるが、どこか態度がよそよそしく、楓は心を開ききれずにいた。今の楓には家の手伝いをしながら退屈を押しつぶすことしか出来なかった。 「・・・・・・もうやめた、つまんない」 楓は手に持っていた雑巾を放り投げると、部屋の床の上にごろりと寝転がった。拭き終わったばかりのそこはまだ湿っていて、ごわごわとした木目の感覚が楓の頬を撫でる。わざとこすりつけるように顔を寄せれば、伸びた髪の束が左頬にのしかかってきた。恨めしそうに自分の髪をにらみつけながら、楓はそれを払いのけた。 昨年からずっと伸ばしたままになっている髪は、とうとう肩口まで通り過ぎてしまった。三つ編みは邪魔になるので村の女性に教えてもらいながら自分で結んだものだ。だが太く硬い髪質のせいでしめ縄のようにどっしりとした三つ編みしか作れず、姉の三つ編みとは比べられないほど拙い出来栄えに楓はいっそう肩を落とした。 (どうせ結うのなら、姉さまに結ってもらいたかったのに・・・・・・) もう何度目かのため息をつく。由縁がいなくなって以来、このため息とも随分仲良くなってしまった。 そんなため息に誘われたかのように、格子戸の隙間から一枚の葉が舞い降りてくる。拾い上げたそれはカエデの葉で、四方に伸びた葉の先まで赤々と色付いていた。楓の手のひらにも余るほど大きい、見事な紅葉だった。 楓はゆっくりと起き上がり、木の葉が入ってきた格子戸の方へと歩み寄る。この家は山の中腹にあるため四方八方に彩られたカエデやクヌギ、ツツジの木々が楓の目に飛び込んできた。階下の庭では数人の村人たちがせっせと落ち葉をはいている。彼女たちがどれだけ落ち葉をはこうとも、落ち葉の山は一向に減る様子がなかった。 「・・・・・・姉さま」 楓は庭から目線をそらし、山の方を見た。日が傾きかけてきた空に紅葉の色がよく映えている。かつて夏に響いたセミはどこへ行ってしまったのだろう。山の静けさがひどく重く感じた。 格子戸を吹き抜ける涼しげな風に、楓はまた一つ季節が過ぎてしまった事を思い知らされる。そのことが楓の寂しさを一層募らせた。 「姉さま、会いたいよ」 黒檀色の瞳に涙が溜まっていく。 その時だった。視界の端に、何か輝くものが飛んでいるのが見えた。 「ん、あれは・・・・・・」 目を凝らしてみると、真っ白な何かが空を飛んでいるのが見えた。山頂を何度も旋回する。それは大型の鳥のようで、夕焼けに照らされた翼は鈍い光を放っている。 間違いない、かつて神社で見かけたオヤヒロ様の御使いだ。 「御使い様だ! どうしてあんなところにいるの?」 楓は身を乗り出し、格子戸の隙間を覗き込んだ。白いカラスはその後も山をめぐるようにぐるりと飛び回り、やがて山頂からわずかに覗く神社の方へともどっていった。庭の村人たちはせっせと落ち葉を集めていたため、御使いの姿に気づいたのは楓だけだった。 ほんのわずかな時間だったが、それでも御使いの姿は楓の目に焼きついて離れなかった。御使いの話をしてくれた姉の思い出が蘇ってきた。 また、楓にはもう一つ思い出したことがある。 由縁ちゃんは、神様のところにいったのよ』 かつて村の女性から聞いた言葉だ。 村人たちはそれ以上の返答をくれなかったが、この辺りで神様と呼ばれるのはオヤヒロ様だけだ。つまり由縁はオヤヒロ様の元へと行ったのだろう。 ならばあの神社にいけば、由縁のことがわかるのかもしれない。 「・・・・・・行かなくちゃ」 楓は立ち上がると、棚の引き出しを引っ張りだした。道具を元に戻すのがもどかしく、磨いたばかりの床に引き出しの物をぶちまける。三段目にしてようやく目当ての物を見つけ出した。 「あった、姉さまの櫛!」 楓は引き出しの中から手ぬぐいに包まれた櫛を取り出した。日に透かされた櫛は全体が琥珀色に輝いて見える。 あの日の夜、由縁に手渡されてから大切に保管していたものだ。世話を焼いてくれる村の女性たちにも触らせたことはない。由縁が戻ってきた時にもう一度髪を結ってもらうために取っておいたものだからだ。いつか由縁が帰ってきてくれると信じて待っていたが、これ以上待つことなど今の楓にはできなかった。 「姉さまが帰ってこないなら私から会いに行く。だからお願い、無事でいて」 楓は櫛を大切に包みなおして懐にしまう。着物の上から感触を確かめると、その上で強く拳を握り締めた。はやる心臓の鼓動が楓の小さな身体を焦らし始める。 楓は部屋を飛び出し、村人たちの目をかいくぐりながら山頂へと向かった。 |