十九話
夜の闇がしらけ始める頃、善光は一人で山道を登っていた。 (結局、一睡もできなかったな) 右腕は何度も脈を打つように痛みが走る。澄んだ山の空気が善光の頭の中をすっきりとさせてくれた。いくら道のりが普段の半分とは言え、この傷で山を登るの不安だったが、善光の足は軽快に石段を登っていった。半年以上あの神社に通いつめた成果だろう。 「・・・・・・ユエ」 善光が楼門のところについた頃には、ようやく朝日が顔を出し始めた頃だった。朝焼けに照らされた楼門は、まるで黄金が塗られているかのように輝いている。少し瓦の禿げた屋根も気にならないほど明るく照らされ、かつて村人たちから信仰を受けていた頃の姿を取り戻したかのように見えた。 善光は門の方へゆっくりと足を進める。しめ縄が善光を歓迎するかのようにギシギシと揺らいだ。 善光はそのしめ縄の下、うずくまる少女に声をかけた。 「ユエ」 「・・・・・・」 ユエは動かない。膝を抱えたその姿は小柄な身体を更に小さく見せ、髪の隙間から見えるうなじが痛々しいほど頼りなく見えた。その腕の中には、昨日彼女にかけてやった善光の着物を抱えている。シワが寄るほど強く布地を握る手はかすかに震えていた。 「ユエ、僕だよ。善光だよ」 善光は視線を合わせるようにしゃがみこむと、左手でそっとユエの肩に触れた。丸みをおびた小さな肩がびくりと揺れ、ようやく顔をあげた。 「ぜん、こう?」 「大丈夫かい? 遅くなってごめんね」 焦点のあわない黄金色の瞳が、所在無さげに揺れる。薄桃色のぷっくりとした頬に色はなく、唇の色も青白く変色していた。小さな手はむき出しになっており、時折黒い影のようなものが腕の表面をうごめいているのがわかった。 たっぷりと時間をかけ、ようやくユエの瞳が善光をとらえる。焦点が合わさった途端、その瞳がたちまち潤んだ。 「善光、ぜんこう・・・・・・!」 ユエは勢いよく善光の胸元へと飛びついた。彼女の手から落ちた着物が石畳の上に広がる。あまりの勢いに尻餅をつきそうになったが、善光はどうにか踏みとどまった。 その間にもユエは善光にすがりつき、彼の身体を心配した。 「善光、よかった、無事だった! ケガ、痛くない? あのおばあちゃんにひどいことされなかった?」 「ユエ・・・・・・」 「センちゃんもどこかに行っちゃって、ひとりで、ずっとここで待ってたの。センちゃん、帰ってこないの。ずっとここで待ってたのに」 涙に濡れるユエの頬に、不気味な黒い影がうごめいている。赤黒いそれは、戸部の手のひらや老婆の顔にあったものと同じものだとわかる。おそらくこれが、長年彼女の中で抑えられてきた疫の、本当の姿なのだろう。 「ねえ、善光。善光はどっかに行っちゃったりしないよね? センちゃんみたいに私を置いて、どこかに行っちゃったりしないよね?」 「・・・・・・」 「一人ぼっちは、もう、やだよ。怖いのも、だれかに追いかけられるのもイヤ。お願い善光、ずっと、ずっと一緒に、ここにいて!!」 「・・・・・・ユエ」 ユエはすがりつくように、善光の胸元に顔をうずめた。長い白髪から、いっそう強く甘い匂いが香った。それは善光の決心を鈍らせるように、頭の中をかき乱していく。 善光は彼女の背中に左腕を回し、力強く抱き寄せた。ほどけかかった三つ編みに触れるように、左手で優しく背を撫でる。 (そうか、僕は) 二人の足元にはユエからあふれだした疫がじんわりと染み出していた。どす黒いそれは死を孕んだ甘い匂いを発し、墨を落とした和紙のように石畳を黒く染めていく。善光の足がついているところを器用に避けながら、疫はゆっくりと門の向こう側へと侵食を始めていた。 それを眺めながら、善光は静かに目を細めた。 傷の痛みに耐えながらも右腕も彼女の背に回す。腕の中のユエは、ただひたすら震えていた。その姿のなんと弱々しいことだろう。見えた首元の細さに目がくらみそうになる。その瞬間に感じたユエの危うさが、善光の中で気づいてはいけない思いを確信へと変えていった。 (僕はずっと、ユエのことが好きだったんだ) 腕の中の彼女に気づかれぬよう、善光は静かに息を飲んだ。 妹のようだと思っていたユエはいつしか妹以上の存在になり、涙を流す彼女を守りたいと思いはじめた。それが一晩の別れを経て、彼女をこんなに愛しく、そばにいたいと思うようになっていたのだ。 けれどもこれは本当に気づいてはいけない恋だった。 善光が自覚した瞬間に、二人の別れは決定的なものになっていたのだから。 「・・・・・・」 右手の中で乾いた音が鳴る。淡い光を放つ小刀は、少女にゆっくりと狙いを定めた。 善光は左腕で少女の体を抱き寄せる。 狙いがはずれぬよう、左手でしっかりと押さえつけた。 「ユエ」 「ん、痛っ、善光?」 「ごめんね」 右手の刃が振り上げられる。 「いっ、あ・・・・・・っ!?」 胸元から、小さな悲鳴がこぼれた。
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