二十話


 

 山の向こうから淡い光がにじみ出てきた。深い藍色の夜空は差し込んできた朝日と混じり合い、氷のように冷たい空気をかき乱す。

 そんな朝と夜の境に立つ山道を、渡辺と臼井、戸部の三人が下っていった。

「ここを抜ければ道沿いに出られる。あと少しだけふんばれよ、戸部」

 周囲に気を配りながら、渡辺は後方の二人に声をかけた。薄暗い景色の中、臼井は戸部に肩を貸しながら、彼の歩きやすい速度で慎重に石段を降りていく。

 支えられた戸部の方はといえば、昨晩よりかは顔色が良くなったものの、おぼつかない足取りで二人に続いた。暗がりのせいで顔色はよく見えないが、戸部の息づかいはずいぶんと荒いように感じる。

「渡辺さん、本当にいいんですか? 善光くんを待たなくて」

 臼井は額に流れる汗を吹きながら、小声で渡辺に話しかけた。

 渡辺は少しだけ言いよどんだものの、はっきりと答えた。

「いいんだよ、アイツは自分の意思でここに残るとを決めたんだ。俺たちがとやかく言うもんじゃない」

 袂に手をいれると、ざらついた紙の感触が渡辺の指を撫ぜた。

 部下たちが無事に村から出たことを確認した渡辺たちは、老婆の家に善光の姿がないことに気づいた。布団はすでにもぬけの殻で、代わりに走り書きで書かれた手紙が置いてあった。中には自分を置いて村を出るようにと簡潔な言葉が書かれているだけで、渡辺と臼井は、戸部をつれて老婆の家をあとにすることにしたのだ。

「ほら。ようやく麓が見えてきた」

 薄暗い石畳の先に、古ぼけた鳥居が見えてきた。ここまでは戸部の体調もあって比較的安全な石畳の道を通ってきたが、鳥居の向こうは村人たちが暮らす村がある。辺りが薄暗いうちに移動しなければすぐに見つかってしまうだろう。幸いまだ夜は完全に明けてはいない。顔も見えぬほどの暗闇は、渡辺たちの味方になってくれる。

 はずだった。

「旦那、どこへ行く気だい」

「・・・・・・ま、そううまくいくはずねえか」

 薄紫の空よりも濃い影の色が目の前に立ちふさがった。現れた人影に足を止める。

 鳥居の影から顔を出したのは、麓の村人だった。声色の若さからして昨日の青年たちだろう。彼の声が響くとともに、柱の影から次々と他の村人たちが姿を現した。

「こりゃまた随分と集めたもんだな。昨日よりも数が増えてるじゃねえか」

「旦那、自分たちだけ逃げようったってそうはいかねえよ。アンタたちも神様を怒らせたんだ。こうなったらみんなで神様の怒りを沈めようぜ。人間を神様の生贄に捧げて、許しを請うんだよ。もちろん生贄は・・・・・・アンタだ」

 先頭の村人が渡辺の背後を指で示した。その先にいたのはやはり戸部だった。指された本人は顔色一つ変えることなく、青年の方を睨みかえしている。

「あんたともう一人の兄ちゃんは、この村の掟を破った。人の良さそうな兄ちゃんの方はもう逃げたみたいだが、だったらお前さんがあの兄ちゃんの分も罰を受けてもらおうか」

「断る、といったら? 元々はお前たち村の人間が神様を祟り神にしちまったんだろう。その責任を他人に丸投げして、てめえらはまたぬくぬくと生き延びるつもりか?」

 村人が互いに顔を見合わせる。それもつかの間、先頭の村人は持っていた鎌を渡辺たちのほうへ向けた。鎌の切っ先が朝日に当たり、鈍い光を反り返す。

「そうか、あんた達も、あの婆さんの話を聞いたんだな。確かにその話が本当なら、オレたちも悪い。でもそれは全部爺さん婆さんの代の話だろ? オレたちは神様のことも、疫のことも、何一つ知らされずに昨日まで生きてきたんだ。今のオレたちにはなんの責任もない」

「・・・・・・あの婆さんはどうした」

「安心しろ、婆さんならオレたちの家で大人しくしてもらってる。いい年して無駄に元気だからなかなか骨が折れたがな」

 青年が背後に顔をむけると、後ろに控えていた村人たちが武器を構え始めた。これ以上はお互いに時間がないらしい。思わず腰につけた太刀に手をのばす。

「だいたい神様を一番最初に怒らせたのはそこの兄ちゃんだろ。だったらきっちり責任とって、オレたちだけでも助けてもらえるようにするんだよ」

「ばかが。一番神様を怒らせるようなことをしたお前らが何言ってやがる」

「うるせえ! もうお前らの話なんか聞けるか」

 青年の声に、互いの空気が一気に張り詰めるのを感じた。武器を構えた村人たちに渡辺と臼井も刃を抜く。戸部も二人の邪魔にならぬよう、しかしいつでも動けるように小太刀を抜いて身構えていた。

 互いににらみ合いながら相手の動作を伺う。

 一歩でも動けば、この場所はたちまち戦場に変わるだろう。

 空を飛び立つすずめの声がどこか遠くに感じた。

(こうなったら先手を取るしか・・・・・・っ!)

 渡辺の足が石畳の砂利を踏みしめる。その音に応えるように、村人たちも息を飲んだ。

 そのまま渡辺の足が二歩目を踏み出す。 

「そこまでです」

 刃が村人に当たるか否かの時、渡辺たちよりもやや高いところから声が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声色は静寂に針を刺すように双方の耳に飛び込んでくる。

「善光!」

「疫病神はもういません。これ以上、無益な争いをするのはやめてください」

 渡辺が振り返ると、石段の上にあの善光の姿があった。山頂から吹き付ける風が、彼の短く結わえた髪を揺らす。

 善光はあっけにとられた村人たちなど気に止めず、渡辺たちのほうへと降りていった。彼はそのまま渡辺の右隣に立つと、軽く頭を垂れる。

「遅くなってしまってすみませんでした」

「お前、この村に残るんじゃなかったのか?」

「そんなこと言った覚えはありませんよ。ちょっと野暮用を済ませてすぐに戻ってくるつもりだったのに」

「野暮用? なんだそれ、ってかお前、その格好は」

「おい、神様がいないって、どういう事だ!」

 渡辺の言葉を遮り、村人の一人が善光に詰め寄った。血走った瞳は大きく開かれ、善光の胸ぐらを掴みながら声を荒げていた。

 そんな村人に対し、善光はひどく冷静に見えた。差し込んできた朝日がその瞳に反射し、黄金のように輝いて見える。

「そのままの意味ですよ。はいこれ」

 村人に向けて善光が右腕をつきだす。

「ん、なんだ? ・・・・・・ひいっ!」

 思わず目を向けた村人の顔が、一気に怯えた表情に変わる。

 先ほどまで怒りで真っ赤になっていた顔が蒼白に染まっていった。後ずさりしようとして石段を踏み外し、村の青年は情けないほど無様に転がり落ちていく。後ろに控えていた村人たちもどうすることもできず、見えなくなったところで蛙を踏んだような悲鳴が聞こえた。

 しかし、誰も彼を助け起こそうとするものはいなかった。

 青年がいなくなったことで、善光の姿がよく見えるようになったからだ。

 正しくは彼の・・・・・・その手に握られた、白銀の髪の束が。

「それ、神様の髪じゃねえか! なんて罰当たりなことを」

 血の気の引いた顔をした村人が悲鳴じみた声をあげる。

 昨日の今日だ。見間違えるはずはないだろう。善光の手に握られている絹を編みこんだような光沢をもつそれは、間違いなくあの疫病神の髪の毛だ。毛の先は赤い結紐で束ねられており、その反対は刃物で切り取ったように散切りになっていた。

「罰当たり? 何をいってるんです、罰ならとっくに受けていますよ」

 そう言うと善光は無表情のまま、右腕の袖をまくった。布地の下の肌は鱗状の黒い布に包まれている。いや、よく見ればそれはまるで山火事で燃えた樹木のように、からからに乾いた彼の素肌だった。その黒くただれた皮膚は右頬まで続いており、熟れすぎた果実のような、あの甘ったるい匂いが風に乗って漂ってくる。

「今回の事件は僕らがきっかけであり、一番の原因は僕です」

 まくっていた袖を戻すと、善光は言葉を続けた。

「だからこそ、これ以上事態が悪くなる前にあの悪い神様を殺しました。きっと口先だけではあなたがたは信じないでしょうから、証として彼女の髪の毛を持ってきました」

 村人たちが持っていた武器はすでに石段の上に散らばっていた。それを拾い上げることも忘れて、村人たちは互いに困惑した表情で何事かをささやきあっている。

 その中の一人、さきほど石段から転がり落ちた青年がおそるおそるといった様子で声を上げた。

「本当に神様は死んだのか? もう神様はオレたちの畑を荒らさないのか?」

「・・・・・・はい、疫も彼女とともになくなりました。疫病が再びこの村を襲うことはないでしょう。ただし」

 善光は手に握られた髪の束を眺める。その眼差しは村人たちにとっては何の意図も読み取れないだろう。自分たちの安否のみを気にし、善光とあの疫病神の関係を知らない彼らには知る由もない。事の顛末を知っている渡辺たちだけが、その憂いを帯びた瞳の真意を察することができた。

「貴方たちのように邪な心を持つ者があの神社を訪れれば、疫病神は再び姿を現すかもしれませんね」

「そんな!」

「だからこそ、丁寧に祀ってあげてください。元々彼女はこの土地の守り神なんですから。そのことについては・・・・・・貴方がよく知っていますよね?」

 善光が鳥居の方を向くと、村人たちが一斉に後ろを向いた。歩み出てきた足取りに、彼らは慌てて道を開ける。

「・・・・・・」

 現れたのは、善光たちを助けたあの老婆だった。シワだらけの顔立ちは相変わらずだったが、おちくぼんでいた眼窩が大きく見開かれている。その視線の先は善光の手の中、あの疫病神の髪束に注がれていた。

「彼女はあの神社の家の者です。神の祀り方なら心得ているでしょう。彼女のいう通りにすれば、もう疫病神が現れることはありません。もしかすると、村を守る新たな土地神が生まれるかも、ですよね?」

 善光は村人をよそに老婆の元へと歩み寄る。背を丸めて彼女に目線を合わせた。

「・・・・・・」

 老婆はなにも言わず、ただじっと善光の目を見返した。シワの寄った口元が何かものいいたげにうごめいている。

 善光は腕をのばし、老婆のしわがれた手に三つ編みを手渡した。悲鳴をあげる者もいたが、すでに疫を受けている老婆には疫の侵食は見られない。老婆は渡された三つ編みをじっと見つめ、抱え込むように両手で握り締めた。震える指先が、彼女の中に渦巻く感情を表しているようだ。

「あとはお願いします。僕にできるのはこれだけですから」

「あの子は」

 村人たちに聞こえないくらいの声で、老婆がつぶやく。

 少し間を空けて、善光はようやく笑みを浮かべた。

「僕の役目はここまでです。だから・・・・・・お願いしますね」

「――――――」

 老婆が息を飲む。

途端、善光の体が膝から崩れ落ちた。

「・・・・・・っ」

「善光くん!」

そのまま倒れ込もうとするのを両手で支えてこらえている。

「善光!?

「おいアンタ、一体どうしたんだ」

「来ないで!」

 一歩前に進んだ村人に、善光は怒鳴りつけるような声を上げた。

「僕に、触らないでください・・・・・・疫がうつるから」

 うつむいた善光の口からかすれるような声が聞こえる。

 見れば、石畳に触れた彼の右手から、どす黒い蛇のようなものが出てくるのが見えた。それはあの神社で疫病神の少女から出てきたものと同じで、その影が石畳の枯れ草に触れた途端、一気に灰へと変わっていった。

「ひい・・・・・・っ」

 

「これが僕の選んだ道、なんです。最初からわかってたのに、知らないふりをして逃げ続けた。そしてあの子を傷つけた、全部僕のせいなんです」

 覗き込んだ彼の顔には珠のような汗がいくつも浮かんでいた。ぽつぽつとこぼれる言葉は熱気を含んでおり、渡辺は善光が、疫の高熱に蝕まれていることに気づいた。

 あの戸部でさえ疫の高熱に一晩うなされ、今もまだ調子が戻っていないのだ。腕一本まるごと疫に冒された善光が無事であるはずがない。

 それでも、ここまでその身体を動かしてきたのは、やはり。

「だから、僕は・・・・・・っ!」

 起き上がろうにも体に力が入らないのだろう。がくがくと震える腕が石畳の上に落ちる。

 それは冒された右腕だけのせいではない。爪をたてるように握りこんだ両手が石畳に朱色の線を残し、額から落ちる汗がその上に滲んだ。

 そんな時、善光の右腕がふいに宙をかいた。

「え?」

 草原を黒く枯らせた影は右腕の動きに合わせて空を舞う。その影が彼の腕をつかんだ手にまとわりつくが、相手の肌に侵食することはなかった。

 その男もまた、同じ少女から疫を受けているからだ。

「戸部」

 問いかけには答えず、戸部はそのまま善光の腕を引き上げ自分の肩へと回した。自分の方へ体重をかけるようにしながら善光の身体を支えると、戸部はゆっくりとした動作で歩き出した。

「さっさといきましょう」

「戸部!」

「では、これで」

 それだけ言い残すと、戸部は村人の開けた道を過ぎ、悠々と鳥居をくぐっていった。

「待ってくださいよ、二人とも!」

 あっけにとられていた渡辺たちも刀をしまい、後を追って走り出す。

 鳥居を抜け、村を過ぎた先には、街道へと続く草原が広がっていた。

 収穫を終えた田んぼは土肌が覗いており、刈り取った稲の残りが感覚を空けて点在している。膝まで伸びた雑草もすっかり黄金色に変わり、一見すれば稲穂の道を歩いているような感覚だ。  

「戸部、さん」

 かすれた声が戸部を呼ぶ。

乾燥した草の匂いが四人の体にまとわりついた。

呼ばれた本人は善光には見向きもせず、ただ前を向きながら一言だけつぶやいた。

「なあ善光、見えたか」

「え、なに」

「お前は、ちゃんとした道を選べたか?」

 かすかな声が渡辺の耳にも届いた。

問いかけの意味はわからない。だが善光には覚えがあるようで、高熱に侵される頭を抱えんがら、懸命に言葉を紡いだ。

「・・・・・・わかりません。心残りはありますし、これよりももっと良い方法が見つかったのかもしれません」

 朝日に照らされた目元は、うっすらと涙が浮かんでいる。

「でも、道は見えました」

 それでも善光は今も確かに生きている。心臓の音を鳴らし、今にも倒れそうになりながら自分の足で歩いている。自分が選んだ道の中で何をするべきかが、今の善光にははっきりと見えているようだ。

「そうか」

 戸部はそれだけつぶやくと、善光の腕を背負い直した。その表情をうかがい知ることはできなかったが、少なくとも彼を失望させるような言葉ではなかったらしい。

 戸部の顔が、道の先をまっすぐ見据えていたからだ。

「よう、話は終わったかよ」

「え、あ・・・・・・うわあ!?

 渡辺は頃合を見計らい、善光の肩に向けて豪快にのしかかってみる。

「ちょ、渡辺さん。急に寄りかからんでくださいよ、っ!」

 重心が一方に偏ったせいで戸部の体が大きくかしいだ。

 地面に膝をつきそうになったとき、戸部の右腕を優しくも力強い手が支える。

「臼井」

 戸部の視線の先で、臼井が笑みを浮かべていた。つかんだ右腕をその広い肩に回す。

 眉をひそめた戸部に臼井は呆れを含んだため息をついた。

「水臭いじゃないですか、僕たち数年来の同期でしょう? こういう時くらい頼ってくださいよ」

「うるせえ」

 聞きなれた二人の言い争いが今日は一段とにぎやかに聞こえた。一通り笑ったあと渡辺と臼井もまた二人に連れ添って歩き出した。

 いい年した男四人が肩を組合って歩く姿は、ひどく滑稽に見えるだろう。

 だがそうしなければ、この若者は今にも倒れてしまいそうだった。

 渡辺には善光の見つけた道というものがどんなものなのかはわからない。臼井も、もしかしたら戸部でさえもこの男の考えを一から十まで理解していないかもしれない。

 それでも今ここで善光に問いただすのは野暮というものだ。

 彼は今、心身ともに弱りきっていた。自分で立つこともままならず、けれど前を見据え、自力で這い上がろうとしている。

 なら自分たちは、それを支えてやるだけだ。

 それが年上としての礼儀であり、助けてやれなかった罪滅ぼしでもある。

「渡辺さん、臼井さん、僕」

 何事かを話そうとする善光の頭を思い切りなでてやる。

「とにかくだ。まずは無事にみんなで都に帰るぞ。わかったな?」

「・・・・・・はいっ」

 力強い返答とともに、善光の頬からまた一つ雫が溢れる。それを素知らぬ振りをして見逃し、渡辺たちは善光と戸部を支えながら足を動かした。

 頂上へと向かう陽光が、四人の歩く道の先を照らしていた。

 

                    *       

 

 残された村人たちは、呆然と彼らを見送ることしかできなかった。

「お、おい、どうする。あの人たちを逃がしちまったら神様への生贄がいなくなっちまう」

「ばか、話を聞いてたのか? 悪い神様はあの人が退治したって言ってただろ」

「けど、本当に神様は死んだのか? いくらあの髪があるからって、オレ、まだ信じられねえよ」

「だがオレたちが神社に行くわけにもいかんし・・・・・・どうしたいいんだ?」

 鳥居の周辺に村人たちのため息が広がる。元々彼らの目的は善光たちを捕らえることであり、神様の怒りを静めることだ。老婆もまた、そんな村人たちを止めようと息まいてきたのである。

 だというのに、その肝心の神様がもういないのであればため息のひとつもつきたくなるものだろう。村人たちにとって今回の出来事は、なんともあっけない幕引きであった。

 その中でもただ一人、老婆だけは、手の中の髪をじっと見つめていた。

 透き通るような白銀の髪はまだほんのりと甘い芳香を放っている。絹のような束の三つ編みは若干ほどけかかっており、しわがれた指の隙間をさらりと通り抜ける。その感触を確かめながら、老婆ははるか山頂の神社を仰ぎ見た。

「・・・・・・」

 青銅色の神社の瓦がわずかに見え隠れしている。八十年、いや、それよりもはるか昔から存在している建物は、ここ数日の出来事など気にも止めぬ様子でただずんでいた。

 自分がいなくなったあとも、あの神社は見続けていくのだろう。

 変わってしまったもの、変わらないもの。

 そして。

「なあ、婆さん。オレたちどうしたらいいんだ?」

 物思いにふける老婆に、村人の一人が声をかけきた。

「なに?」 

 老婆が眉をひそめる。自分でも驚く程の素っ頓狂な声色だった。

 村人はそんな老婆の様子など気にも止めず、居心地悪そうに言葉を紡ぐ。

「つい最近まで神様のことなんも知らなかったから、オレたち、どうやって神様のことを祀ったらいいかわからねえんだ」

「そ、それに、疫病神さまの髪に触れるのは婆さんだけだ。オレたちにできることなら何でもする!」

 その後ろでもまた別の村人が老婆に声をかけてきた。

 次々と自身につめよってくる村人たちに、老婆は目を丸くする。

 かつて父親たちの策略で信仰をなくし、自身の手で殺そうとしていたオヤヒロさまを、村人たちは再び信仰し始めようとしている。身から出たサビではあるが、その教訓を生かし、過ちを繰り返さないようにしている。

『私たちが忘れない限り、神様はずっとここにいらっしゃるわ』

 握りこんだ手のひらに、白銀の髪が揺れる。

 思い出すのは何十年も前に切り捨てた姉の言葉。あの夏に消えてしまった姉との思い出が、老婆の中で少しづつ蘇ってきた。

 胸の奥が燃えるような感覚に、老婆は左胸に手を置く。

 脈打つ鼓動はずいぶんと弱々しくなってしまったが、それでもまだ確かに感じられる。

 母から姉へ、姉から自分へと受け継いだ物語は、決して終わってなどいなかったのだ。

「あの坊主め、ようやく楽になれると思ったのに。余計な世話を託しおって」

 クク、と老婆の喉元から笑い声が漏れる。困惑した表情の村人が首をかしげていた。

「婆さん?」

「なんでもないよ。いいかい、そこまで言うんだったら、ワシがお前らに神様に対する礼儀ってもんを叩き込んでやる。覚悟するんだね!」

「いってえ!」

 老婆が思い切り青年のすねを蹴り飛ばすと、大げさなほどに痛がった村人は地面を転がる。それを見た老婆が、これまた大きく口を開けて笑った。

 彼女にとって、八十年ぶりの大笑いだった。

 笑い声が晴天のもとに響き渡る。

 林の向こうでは、大きな鳥の群れが飛び去っていった。




back top next





2014,10,13