三話
ロウソクの芯がだいぶ短くなった頃。 善光がふと顔をあげると、格子戸のすき間から月明かりが差し込んでいることに気づいた。濡れていた着物はすっかり乾き、先程まで感じていた肌寒さは感じなくなっていた。 「よかった。これなら朝一で山を降りれるかな」 善光は息をつき、読んでいた書物を膝に置いた。気づけば床の上には今まで読んだ書物や巻物がちいさな山のようになっていて、少しだけ苦笑いを浮かべる。 「あれ、ロウがもうない」 ふと、ロウソクの灯火が小さくなっていることに気づく。そろそろ新しいものに変えなければ、また火を打ち直さなければならない。 ちょうど善光が読んでいたのは子ども向けにまとめられた昔話だ。桃太郎や竹取物語など、幼い頃に聞いたお伽草子がつづられており、懐かしさについ読みふけってしまった。できればキリのいいところまで読み切りたい。そのためにも早くロウソクの火を新しいものに移さなければならないだろう。 「え〜と、替えはまだあったかな・・・・・・」 ロウソクのかすかな明かりを頼りに、ふたたび荷物の中を探る。 すると突然、かすかに木がきしむ音と共にどこからか風が入り込んできた。 冷たい夜風にさらされた小さな灯火が、名残惜しむように掻き消える。 「あっ、火が!」 突然の暗闇に、善光は目を瞬かせた。月明かりも雲の向こうに隠れ、ロウソクの燃えた、ほんのりと甘味を含む煙だけがあたり一面に漂っていた。 「困ったなあ、なかなか見つからないよ」 急な暗闇で目が慣れぬまま、善光は必死で荷物をあさり始めた。先ほどぐちゃぐちゃにかき回したせいでどこに何があるのかわからなくなってしまった。目をつむって全神経を手に集中させながら、善光は必死に巾着の中をひっくり返した。 しばらく荷物をあさっていると、ふと、まぶたを閉じていてもわかるほどの眩しい光が目の前に差し込んでいることに気づいた。それに加え、なにか濃厚な甘い匂いが鼻先をかすめる。熟しすぎた果物にも似たその香りは暗闇の中でもひときわ強く香っていた。 (どこからか甘い匂いがする・・・・・・なんだろう?) これでロウソクが探しやすくなると善光はなんの気なしにぱっと目を開けた。 だが、そこには月明かりなど存在しなかった。 かわりにまるで月のように輝く二つの瞳があったのだ。 吐息が触れそうなほどすぐ近くに、あどけない子どもの顔が善光の目に飛び込んできた。 「うわっ!? っ、痛った!」 突然現れた子どもの顔に、善光は思わずのけぞった。その拍子に棚にぶつかり、したたかに頭を打つ。さらにその衝撃で棚から数冊ほど木簡がくずれ、追い討ちをかけるように善光の頭へと落ちてきた。 「・・・・・・」 目の前の子どもはうろたえる様子もなく、じっと善光を見つめていた。肩口まで伸びた白銀の髪がさらりと揺れる。よくよく見れば、子どもは幼い少女であることに気づいた。 年は十を超えたくらいだろうか。光沢のある白地の小袖に黒檀色の袴をはいており、その裾には金糸で刺しゅうされた黄金の蝶が数羽舞っていた。袴の先からちょこんと覗いた足先には赤い駒下駄を履いており、丸みを帯びた幼い足を包み込んでいた。 おそらくそれだけ見れば、善光もただの少女だと思えただろう。だが彼女は白銀の髪に黄金の瞳を持っており、なおかつ少女の体はほのかに光を放っていた。 ロウソクよりも数段明るい、まるで月が人の形を持って現れたような、そんな錯覚さえ感じるほどに少女の体は輝いていたのだ。 人間ではないことは、ひと目でわかった。 「・・・・・・」 少女は赤子のように地べたを這いずりながら、善光の方へ近づいてくる。細く小さな指先が、徐々に善光の足元にまで迫ってきていた。頭をぶつけた衝撃に目を回しながら、善光の体から冷や汗が吹き出ている。ようやく着物も乾いてきたのにと、混乱した頭で妙に場違いなことを思った。 (もしかして、この子がお婆さんの言ってた『悪い神様』? ど、どうしようこっちに来てる!!) 善光が思考を巡らせている間にも、少女との距離は確実に縮まっていく。衣擦れの音が妙に耳に響いて、胸の鼓動をより早くさせた。 とうとう少女の体がひざまでたどり着いた。濃厚な香りが善光の周囲に強くただよう。 善光に向けて、少女の手がゆっくりと伸ばされようとしていた。 (もう、ダメだ!) 善光は覚悟を決め、ぐっと目をつむった。 「・・・・・・?」 だが、いつまでたっても何も起こらない。 おそるおそる目を開けてみると、少女は腕を宙に浮かべたまま頭(こうべ)をたれている。 正しくは、善光のひざにある書物に視線を向けているのだ。 「・・・・・・」 少女はじっと食い入るように書物を見つめていた。善光へ向けた手のひらをそのまま書物へと向け、興味深そうに指先ではじいている。その動きにあわせて白髪が揺らめき、透き通るような白いうなじが顔をのぞかせた。 どうやら彼女の目的はひざの上の書物だったようだ。 そう善光が気づくには、ひと呼吸ほど時間がかかった。 「この本が、どうかしたの?」 善光はおそるおそる少女に話しかけた。逃げることもできただろうが、少女に襲う気配がないとわかると好奇心の方が優ってきたのだ。 少女はゆっくりと顔を上げ、善光を見つめる。先ほどは近すぎてわからなかったが、よくよく見ればあどけない可愛らしい顔つきをしていた。ふいに故郷にいる妹の姿に重なり、善光は懐かしい気持ちになった。 そう思っていると、薄桃色の小さな唇がゆっくりと開かれる。 「おにいちゃん、じがよめるの?」 舌っ足らずで、鈴の鳴るような可愛らしい声が聞こえてきた。善光の問いかけには答えず、少女は逆に問いかけてきた。 「字? 文字のこと? 一応、読めるけど・・・・・・」 「わたし、じがよめないの。おにいちゃん、なにか、おはなし、よんで」 「え、ええ?」 「ねえ、よんで、よんで」 着物の裾をきゅっと掴み、少女は何度もひっぱって訴えてきた。だだをこねる子どものように口元をきゅっと結んで、じっと善光の方を見つめてくる。 善光はひどく戸惑いながら、膝の上の書物に手をかけた。 「えっと、それじゃあ、このお話でもいい?」 「うん!」 少女は目を輝かせながら善光の左端にちょこんと座り込む。ロウソクの光がなくとも、少女自身の放つ光のおかげで明るさの心配はなくなった。少女は待ちきれない様子で書物をのぞきこみ、わくわくとした様子で、善光が語りだすのを待ちわびていた。 (ううん、どうしよう) 善光は内心頭を抱えた。あまりにも無邪気な様子につい承諾をしてしまったが、少女はおそらく人間ではない。このまま少女を置いて逃げ出せば、今度こそ襲いかかってくるのかもしれない。 ここは機嫌をとりながら、隙をついて逃げ出すのが得策だろう。 「とりあえず、竹取物語でいいかな。『むかしむかし、あるところに・・・・・・』」 ゆっくりと話し始めた善光の声に、少女はワクワクした様子で耳を傾けていた。 それからどれほどの間、読み聞かせをしていただろう。 少女は思ったよりも熱心に話を聞いていた。 本人は文字が読めないと話していたが、善光の言葉に耳を傾けてはわからないところは質問したりと、学ぶことに対して存外に熱心な様子だった。文字を読むほどの学はないが、もともと頭の回転が速いのかもしれない。 その上、その質問というものがこれまた難しいものであった。 たとえば桃太郎の物語を読んだ時、少女は『川』とはなにかと尋ねてきた。 「ここから出たことないから、わからない」 質問の意味を問うた善光に少女はすこし困った様子でつぶやいた。 普通の人間が当たり前に知っていることを、この少女は何も知らなかったのだ。 おそらく理由は、彼女が外の世界を知る術を持っていないからだろう。 (だからあんなに書物を読んでほしいって、せがんでいたのかな) 。 少女の一言で善光はようやく理解した 長い間置き去りにされた書物は、少女にとって唯一外の世界と繋がったものだったから。 「・・・・・・あのね、『川』っていうのは、たくさんの水が流れていて・・・・・・」 善光はしばらく押し黙ったあと、幼い少女にもわかりやすいように説明した。言葉で上手く表現できないときは、持っていた筆と半紙をとりだし、筆で絵を描いて見せたりもした。そうしながら、善光は何度も根気よく彼女の質問に答えていった。 善光の中で、隙をついて逃げ出そうという考えはどこかに吹き飛んでいた。 気がつくとすっかり夜は明け、格子戸のすき間からは雀の鳴く声が聞こえ始めた。月明かりとはちがう暖かな陽光が格子戸の隙間から差し込んでくる。 それまでずっと物語を読んでいた善光は、いつの間にか静かになったことに気づいた。 横を向けば、少女の頭が何度も傾いているのが見える。黄金色の瞳がまぶたの陰に半身を隠し、今にも閉じてしまいそうだ。夜通し話を聞いていたせいで眠くなったのだろう。神様なのに眠くなるなんて、まるで人間のような神様だ。 善光は苦笑いしながら、少女に声をかけた。 「大丈夫? もうおしまいにしようか」 「やあだ、もっとお話聞くぅ」 「夜通し起きてたから疲れたんだよ。また読んであげるから、もう寝よう?」 逃げ出す算段をしていたのはどこへやら、善光は安心させるように少女の頭を撫ぜた。白髪のそれは手袋越しでもわかるほどさらさらしていて、まるで絹のようになめらかな触り心地だった。 「んう〜」 善光が頭をなぜると、少女は気持ちよさそうに目を細めた。そしてそのまま、善光の肩にもたれかかるようにして眠りにつく。甘ったるい匂いと、規則正しい寝息が胸元から聞こえてきた。 「やれやれ、困ったなあ」 善光は小さな体を支えながら、あまり困った様子ではない表情でため息をついた。善光自身も疲れていたはずだが、不思議と眠くはない。むしろこの少女のおかげで穏やかな気持ちでもあった。善光の妹と同じくらいの背格好だったからだろう。 少女と出会ってから、ふいに故郷の妹が懐かしくなった。 (もしこの子が普通の子どもだったら妹と友達になれたのかな、なんてね) 格子戸の隙間から空を眺め、遠くの故郷に想いを馳せる。 都にいる彼女は今も元気に過ごしているだろうか。さみしい思いを抱えていないだろうか。幼い少女の姿が、妹の面影を思い起こさせた。 善光はちらりと少女の方を盗み見る。その寝顔はあどけなく、警戒心などまるで見えない。この子が本当に老婆の話していた悪い神様なのか、甚だ疑問に思い始めていた。どちらかといえば悪い神様というよりも、年の離れた妹の友達といった方が合っているような気さえする。 「んん」 「あ、ごめん」
善光がすこし動いたせいで抑えていた頭がずれたようだ。少女が身じろぎをし、顔をしかめる。善光はあわてて体を支え直し、もう一度落ち着かせるように頭を撫でてやった。少女の顔が、また穏やかなものに戻っていく。その姿にホッとしながら、昔妹がうたた寝をした時にも同じように頭を撫でたことを思い出した。 (もうちょっとだけ、こうしてようかな) あと少しだけ、懐かしい思い出に浸っていたい。 そう思いながら善光もまた、ゆっくりと目を閉じようとした。 「キサマ、主になにをしているか!!」 だが、ゆるやかな時間は、一つの怒号によって唐突に終わりを告げる。 低くしわがれたような男の声が蔵の中に響き渡った。 「ふぁいっ!? え、なに?」 棚が震えるほど大きな怒声に、善光は思わず飛び上がる。声の主を探そうと辺りを見回せば、蔵の入口の扉が大きく開かれていることに気づいた。だが、あの低い声を出していそうな男の影はどこにも見当たらない。 首をかしげている善光の元に、トトトと小走りに歩み寄る姿が見えた。 「いいか、これはキサマのためにも言っているのだぞ。さっさと主から離れんか!!」
「・・・・・・え、カラス?」 歩んできたそれは、小柄な少女よりもさらに小さい、真っ白なカラスだった。透き通りそうなほど真っ白な羽をたずさえたそれは、まっすぐ善光の足元まで来るとくちばしを大きく開いて抗議してきた。 「カラスではない! 由緒正しい主の使い魔・千鳥(ちどり)だ!」 いきなりカラスに怒鳴られるという不思議な体験に目を瞬かせていると、腕の中の少女がのっそりと起きあがった。 「う〜、センちゃんうるさい・・・・・・」 「主! なぜこのような人間とともにおられるか! 早く離れてください!」 「ええ〜」 「『ええ〜』ではありませぬ! あなたの力で、この者の体がただれ落ちますぞ!!」
「えっ、なにそれ怖い! どういうことなの!?」 殺されるならともかく、ただれ落ちるとはいったいどういう了見だろうか。思わず善光が身体をすくませると、白いカラスはふんと偉そうに鼻を鳴らす。 「我が主は、人間どもの言う病(やまい)の象徴、『疫』を司る神である。人間が疫を宿すその御身に触れれば、たちまち疫に冒され、体が醜くただれてしまうのだ。どうだ、恐ろしかろう!」 そう胸を張って話すカラスに、善光と少女は顔を見合わせる。寝起きの少女は聞いているのかいないのか、こくりと頭をかしげた。 善光は、そっと彼女の頭に手をのせる。 「さあ、命が惜しければ早く・・・・・・ってキサマ、何をしているか!! 主に触れれば疫がうつると言って・・・・・・」 無言のまま、もう一度少女の頭を撫ぜた。ひと回りふた回り撫で回したところで手を離し、白いカラスに右手をかざして見せる。手袋にも、もちろん善光の手にも、なんら異常は見られない。 一瞬の沈黙が善光たちの間に流れる。 「む、なぜキサマには疫がうつらんのだ?」 「さあ?」 「んん〜?」 今度は二人と一羽が一斉に首をかしげた。 * 手袋や着物ごしならば触れるということに気がついたのは、しばらくしてからだった。 ためしに善光が自分の髪を一本引き抜き、少女の手に乗せてみた。すると髪の毛はたちまち音を立てて灰になり、風に吹かれてどこかへ飛んでいった。灰の行方を目で追いながら、善光は素手で触っていなくて本当に良かったと背筋を凍らせた。 白いカラス・・・・・・もとい千鳥が言うには、『疫』を身に宿す少女・・・・・・ユエは以前はもっと力があったが、人間たちから忘れられて徐々に弱体化していたらしい。使い魔である自身も弱り、最近はともに社の中で眠っていたそうだ。そこへ善光が偶然来たことによってユエが目を覚まし、千鳥を置いて社から蔵まで勝手に出歩いたのだ、となぜか善光が悪いように怒られた。 また、ユエが『疫病神』であるということは、蔵に残された文献で知った。 本人は覚えていないようだったが、八十年ほど前にこの地を収めていた神様が疫に冒され、悪神となって疫を振りまいた。その力のせいで畑の作物がすべて枯れ、人間にまで疫病が広がっていったらしい。困り果てた村人はこの山の神主に頼み、神社の中へと封印したそうだ。 楼門に貼られた御札や大きなしめ縄は、ユエを社から出さないための封印だったのだ。 その後、とある理由で近くの村に留まることになった善光は、毎日ユエに会いにいった。 「ユエ、焼き栗の皮がむけたよ。手を出して」 「わ〜い! ・・・・・・あちっ」 「こらこら慌てない。ちゃんと冷ましてね」 「ふー、ふー・・・・・・おいひい!」 「そう、よかったね。ほらちゃんと座って。食べてる間に髪の毛結おう」 「あい!」 善光はユエを社の階段に座らせると、後ろに回って櫛を取り出した。漆の塗られた塗櫛は加工されているためかユエの疫に当てられることはない。善光は慣れた手つきで白銀の髪を丁寧に梳いていく。 ユエは善光が神社を訪れるたびに歓迎してくれた。彼女にも手袋があれば過ごしやすいだろうとお古の手袋をあげると、よほど嬉しかったのかずっと身につけていた。特に葉っぱや野草に触れることができるようになったのが嬉しいらしく、たくさん集めては善光に見せびらかしていた。また、遊びついでに蔵の中のお話を読み聞かせていたところ、語彙が少しずつ増えてきたようだ。まだまだ舌足らずなところはあるものの、使える言葉が増えたことでお喋りが楽しいらしく、善光が来るたびにたくさん話をするようになっていた。 最初の頃は人間と戯れるなど言語道断だと善光の来訪を頑として反対していた千鳥も、当の主が喜んで迎えているため、しぶしぶ主人の相手をすることを許してくれた。善光の手袋のおかげで、ユエが触れるようになると、目つきが和らいだような気はする。 「今日も三つ編みでいいの?」 「うん! 早く早く〜」 「はいはい」 「ねえねえ、終わったらまたお話読んでね?」 「もちろん、いいよ」
「きゃ〜!」 「ほらほら暴れないの」 ユエは出来たての焼き栗をほうばりながら、また嬉しそうに鼻歌を歌い始めた。善光はそんなユエを微笑ましく思いながら、今日もせっせと髪を結い、お話を読み聞かせるのだ。まるで故郷にいた頃、妹の世話をしていた時のように。 はしゃぐユエの姿に、時々本当に疫病神かと疑ってしまうことがある。けれどその『疫』は、小さな体の中に確かに宿っているのだ。 それでも、善光にとってユエは、妹のような存在だった。 手のかかって愛らしい、まるでもう一人妹が出来たかのような心持ちだった。 (少しでも長く、ユエと一緒に過ごしたいな) すべらかな髪に櫛を通しながら善光はそう願った。 やがてその願いが恋になるなど、この時の善光には知る由もなかった。 |