二十一話


 

 

 朝日も登りきらぬ冷え切った空気の中。

 白銀の小刀が石畳の上に落ちる。

 小刀は数回石の上を跳ねたあと、石畳に落ちた善光の着物の上を転がっていった。

 鈍い光を放つ刀身に、赤はない。

「――――・・・・・・え?」

 黄金色の瞳が大きく見開かれる。ほんの少し走った痛みに、目の前の少女は瞳を瞬かせていた。

「ごめんねユエ、痛かったでしょ?」

 善光は自分でも白々しいと思えるような言葉を口にする。彼女に刃を向けておいて、何を今更、彼女に笑いかけているのだろうか。

「善光? なんで、どうしてこんなことするの?」

 ユエの手が自身の髪に触れる。押さえられた左側の髪に、おさげはない。善光の手甲がはめられた左手には、切り取られた白銀の束が握られていた。

 そう、善光がユエの髪を切り取ったのだ。

 彼女を殺すために託された刃を使って。

『それがお前の選んだ道か』

 手放された小刀は淡い光に包まれていく。善光の耳元で、馴染みのある男の声が聞こえたような気がした。

(そうだ、これが僕の選んだ道だ。君の願いは重すぎて僕には叶えてあげられない・・・・・・ごめんね、千鳥)

 心の中でそう語りかけながら、善光は消えゆく刀身をじっと見つめていた。かすかな声はそれ以上何も語ることはなく、役目を終えた小刀は朝日の中に溶けるように消えていった。散らばった白髪の残骸だけが、着物の上で瞬いていた。

「ねえ、善光ったら」

 胸元から顔をのぞかせたユエがじれた様子で善光に詰め寄る。その顔には未だあの疫の影がうごめいていた。

「・・・・・・」

 その影の動きを見届けると、善光は右腕を伸ばし、ユエの細い手首をつかむ。

「あ・・・・・・―――?」

 疫病神のむき出しの肌に、手甲をはずした己の右手で。

 力いっぱい、握り締めた。

「あ、ぐっ!!

「や、やだ、善光!? やめて、何してるの!」

 なめらかな肌の感触のあと、焼けた鉄板に触れたような熱気と痛みが手の平を走った。結んだ口元から思わず悲鳴が漏れる。

 指の端からじわじわと音を立てて疫が手のひらに浸食していく。真っ黒なそれはまるで水に落ちた墨汁のように、あっという間に善光の腕へと流れ込んできた。疫が腕を覆っていくたびに、善光の体は業火で焼かれるような痛みが走る。

「だめ、ダメだよ。離して・・・・・・お願いだからっ!」

 最初は呆然としていたユエも、善光の腕が炭のように変わっていくのを見て必死に腕をふるった。だが、力強い男の腕は少女の力では振りほどくことができない。それでも腕を振るうユエの姿に、善光はなだめるように声をかけた。

「ユエ、いいんだ、これで」

「ダメだよ何言ってるの。このままじゃ善光が!」

「僕の腕なんか、どうなったっていい!!

「っ!?

 突然声を荒げた善光に、ユエの抵抗が収まる。その合間にも疫は侵食を続け、ようやく腕が離れた頃には、善光の右手から頬にかけて真っ黒に染められた。かわりにユエの体に渦巻いていた黒い影はすっかり消えてしまっている。

「ぐっ・・・・・・!」

「善光!?

 めまいとともに重心が傾き、善光はユエの小さな体へと寄りかかるように倒れ込んだ。切り取った三つ編みの束が楼門の向こう、石段の方へと転がり落ちていく。

(疫がうまく僕に移ってくれてよかった。これでもう、ユエが疫をばらまくことはない)

 ユエは大の男に押しつぶされそうにながらも、懸命に善光の身体を抱きとめた。

「っやだ、やだやだ! しっかりして、善光」

「ユエ・・・・・・よく聞いて、聞くんだ」

 無事な方の左手でユエの頭を優しく撫でてやる。布越しの感覚がひどくもどかしい。

「千鳥はもういない。僕もまた旅にでなくちゃいけないんだ。お別れだよ、ユエ」

「えっ・・・・・・」

 声色だけでもユエの顔が曇っているのがわかる。きっとまた、黄金色の瞳には涙が浮かんでいるのだろう。

 だから善光は顔を上げ、安心させるように笑みを作った。

「でもね、僕はまた帰ってくるよ。ユエのいるこの神社まで。そうしたら、今度こそずっと一緒にいよう。もう二度と、君を一人にはしないから」

「!」

 涙の浮かんだ黄金色が大きく見開かれる。ぷっくりとした頬は朝日に照らされ、暖かく蒸気していくのが見えた。

「だからね、約束してくれる? それまでに自分で三つ編みを結えるようになるって」

「・・・・・・無理だよ、いつも善光にしてもらってたから、できない」

「大丈夫。ユエなら三つ編みも結えるし、文字だって読めるさ。その頃には必ず、君のところに帰ってくるよ」

(嘘つき)

 善光は顔には出さぬよう、心の中で自身に毒づいた。

(そんな約束、守るつもりもないくせに)

 現状、善光がこの場でできることは何もない。大切な彼女を殺すことは出来ないし、かといってこのままユエとともに神社に残ったとしても、村人たちから彼女を守ることは出来ないだろう。いや、たとえ村人たちのことがなくても自分はただの人間だ。どうあがいても自分はユエよりも先に死んでしまう。

 彼女を一人にしてしまう。

 だから善光は、ある賭けをすることにした。

(人間たちの信仰心がなくなれば神様は消える。逆に言えば、人間たちが忘れなければ、神様はずっと存在することができるんだ。現にユエも、あのおばあちゃんが覚えていたからこそ、僕の時代まで生き続けることができた)

 彼女を好きだと自覚した時から、善光の中である決心がついていた。

(なら僕は、彼女が誰からも忘れられないように、ユエの物語を書こう。読んだ人の子どもの、その人の子どものもっと先まで、語り継がれるような物語を)

 自分の寿命はたかだか数十年だ。だが物語ならば、伝える者がいる限り何百年と語り継ぐことができる。それは、それだけユエが生き続ける可能性があることを表していた。

 もちろん成功するとは思えない、無謀な賭けだ。仮にうまくいったとしても気の遠くなるような長い時間がかかるだろう。だが、だからこその賭けなのだ。

 残りの一生を、自身の恋心を犠牲にしてでも成し遂げなければならない賭けなのだ。

 そう、大切な彼女に嘘をついてでも。

(でもきっと、優しい君のことだから)

「・・・・・・わかった。私、頑張る! 髪の毛も自分で結ぶし、書物の文字も読めるようになる! だから、早く帰ってきてね」

 えへへ、と涙混じりの少女の顔が、嬉しそうに微笑んだ。

(やっぱり、信じちゃうんだね)

 自分が思い描いた通りの言葉に、善光は目を細める。

 自分の嘘も見抜けないような純粋な少女。彼女はこれから、長い時間を生き続けることになる。うまくいかなかったとしても、善光の寿命分くらいは余裕で存在できるはずだ。

 数十年、その年月は人でさえも記憶をあやふやにさせる。かつて妹だった少女の顔を忘れてしまうくらいに。

 だとすれば、彼女の中の自分はいつ消えてしまうのだろうか。

「善光、どうし・・・・・・!?

 そう思ったときには、すでに身体が動いていた。

 突然善光は彼女の頭を引き寄せると、桜色の唇に自分のそれを押し付けた。右腕を疫に侵された時よりもずっと熱く、柔らかな感触に包まれ、めまいが一層ひどくなる。見開かれた黄金の瞳が、あらためてとても綺麗なものであると気づいた。

 唇に触れたのはほんの一瞬。唇を離すと、尾を引くように甘い匂いが鼻をくすぐる。

 疫のような濃い匂いではない、風に吹かれればすぐに消えてしまいそうな、彼女本来の香りだった。

「ぜんこ、今」

 口元を押さえたユエが、じっとこちらを見上げてくる。普段よりもさらに拙く、子どもっぽい口調に、善光は思わず吹き出しそうになった。

(きっとユエは僕のことを忘れてしまうだろう。八十年前に会ったおばあちゃんのことも忘れていたみたいだし)

 ユエたちと初めて会った頃、自分以外の人間がこの場所を訪ねてきたか聞いたことがあった。実際には楓が神社を訪れていたのだが、彼女の答えは否だった。つまりはそういうことなのだ。

 長い年月の中で、ユエは自分のことを忘れてしまう。善光自身もユエの場所に帰ってくるつもりはないのだから、きっと彼女にとっては星の瞬きのように一瞬の時間なのだろう。

(だからね、ほんの少しだけ、君に傷をつけさせて欲しい)

 善光の願いは、彼女が自分で知識を身につけ、自分がどんな存在なのかを知った上で、たくさんの人間とともに生き続けることだ。自分のことなど忘れて、これからも生きて欲しい。

 だが、それを認めるのは少しだけ悔しかった。

(すぐに消えてしまうとしても、ちょっとでもいいから、僕のことを覚えていて欲しいんだ。僕がどれだけ君を大切に思っていたか、僕がどれだけ、君を好きでいたか)

 ユエの小さな身体を強く抱き寄せる。強く、強く、壊れてしまいそうなほどに。

「ずっと、こうしてみたかった」

「ふ、え」

 顔を上げれば、黄金色の瞳が今まで見たこともないほど大きく見開かれていた。その顔をまぶたの裏に焼き付けると、善光は自分にできるだけの精一杯の笑みを作った。

「大好きだよ、ユエ」

 彼女にそうと悟られぬように手向けの言葉を投げかける。

 歪む視界が邪魔をして、ユエがどんな顔をしていたのかを知ることは出来なかった。

 善光はすぐに立ち上がると、放心したままの彼女を置いて門を抜けた。石畳の上には、さきほど放り投げてしまったユエの髪束が落ちている。黒ずんだ右手で拾うと、それを静かに口元に寄せた。

 一筋の秋風が林を抜け、背後からは太いしめ縄が軋む音が聞こえる。初めてこの場所を訪れた時はひどく不気味に思えたその音も、今では自分を引きとめようとしているとさえ思えた。

 けれど、振り向くことはもうできない。

 善光はまっすぐ前に向き直り、甘ったるい匂いと痛む身体を抱えて、山道を下りていった。

 

                    *

 

 一人残されたユエは、青年の姿が見えなくなったあともその場に座り込んでいた。

やがて日がすっかり登りきったころ、ユエはようやく立ち上がった。

 足元に転がったままの善光の着物を拾い上げると、境内の中へと走りだした。

 あてもなく社の回りを数周歩き回り、それもとうとう疲れて、漆喰の壁を背にずるずると座り込む。荒い息を繰り返し、顔を隠すように着物を頭からかぶる。

 林の向こうからは柔らかな日差しに誘われた小鳥たちが顔を出していた。小さな池の水面には赤子の手のような紅葉がいくつもの波紋を揺らし、アメンボがすいと横切っていく。

 何十年も前から変わらぬ、見慣れた風景。

 しかしそんな情景も、ユエの心を落ち着かせてはくれなかった。

「善光、なんで、あんな」

 青年に触れられた唇はまだ熱を持ち、じんわりとした感触が残っていた。痺れるような唇の感覚に、少女はひどく動揺していた。

(胸のところがバクバクいってる。熱いよ、痛いよう)

 少女は力なく胸元を押さえつけた。途端、かぶっていた水色の着物がずり落ちる。それを直そうと伸ばした手にはたと目が止まり、そういえば掴まれた手はごつごつしていて力強い手だったと思い出して、それすらもまた鼓動をかき乱す。

 あらわになった頬は、燃えるような紅色へと変わっていた。紅葉よりも赤々としたそれは、少女の耳たぶどころか首にまで到達している。

 かつて少女が人間だった頃にも、こんな感情は味わったことがなかった。激しい鼓動が彼女の胸を打ち付けたる。それに加え、胸の奥を締めつけるような痛みが彼女を襲う。今まで過ごしてきた中で、こんな身体の症状は初めてだった。

「どうしたんだろう。センちゃん、ぜんこ、あ」

 思わず呼んでしまった名前に、先程の情景が頭の中に蘇る。

 声を、ぬくもりを。

 耳元でささやく、乱れた吐息を。

『大好きだよ、ユエ』

「うわ、わああ!!

まぶたの裏に焼き付いた笑顔に、ユエはまた力の入らない悲鳴を上げた。

「なんなの、これ・・・・・・」

 体中をとろりととかされたような熱に、少女は膝を抱え込んだ。病の塊であった少女を、原因不明の病が蝕んでいる。

 彼女がその病の名に気づくのは、もうしばらく先のこと。

 

 感情を持て余す少女の下に紅葉が落ちてくる。

 艶やかな色のそれは彼女の髪に一瞬触れ、そのまま池の水面へと滑り落ちていった。

 




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2014,10,13