六話
静かな闇を、ただただ振り払うように走り続けた。 「はあ、はあ・・・・・・っ」 私の左足が地面を蹴るたびに、乾いた木の葉が灰になる。秋口の地面は冷たくて、駒下駄の脱げた素足が凍えるように冷たい。 息を切らして走る機会などめったにないから、小袖がこんなに邪魔なものだとは思わなかった。金色の蝶が優雅に闇夜を舞う。その様子を横目に、飛べない少女は懸命に足を動かした。 駒下駄が片方脱げた足は土にまみれ、今にももつれてしまいそうになる。 それでも立ち止まるわけにはいかなった。 夜の闇は私を隠してくれないから。 「・・・・・・て、待ってくれ!」 宵闇をかき分け、聞きなれない低い声が私を追ってくる。 センちゃんみたいに飛んで逃げられないし、背の高い影は私よりもずっと足が速くて、こんな子どもの足ではすぐに追い付かれてしまうだろう。 「・・・・・・っ!」
低い声は、思っていたよりもすぐ後ろまで近づいてきていたようだ。そのまま振り返らず、暗闇の中をかき分けてくる。 以前の私だったなら、自分から相手に近づいていただろう。神使のカラスだけでは日々の退屈は癒せない。きっと善光がこの場所に訪れた時と同じように、この手を影に伸ばしていたかもしれない。 けれどなぜだろう。あの影がこの神社に現れて手に触れようとしたとき、反射的に思ったのだ。 ―――いやだ、と。
「頼む、待ってくれ」
少しだけ振り向くと、ぬっと伸ばされた太く長い腕が、私の肩に触れようとしていた。 「――――――っ!!」 途端、ユエの頭の中に見たこともない情景が次々と浮かびあがる。 『ゴメンナサイ』 雑音の入り混じった声。 床板に広がる赤色。 肺にのしかかる甘ったるい香り。 動かない身体。 ・・・・・・苦しい、息が。 「あ、うあ」 背筋に冷たいものが走る。反芻する無数の声が、頭の中で何度も瞬いては消えていった。 私は思わず体をねじらせた。 「いや、・・・・・・っあ!」 私は思わず身体をよじり、その腕を振り払おうとする。けれど片方の駒下駄をなくしたせいで足がもつれ、石畳の上に倒れそうになる。 「危ない!」 慌てた様子の声とともに、大きな腕が私の肩を掴んだ。同時にもう片方の手のひらが、私の三つ編みに触れる。 振りほどけないほど強く握られた肩に、私の身体は言いようのない恐怖に包まれた。 「ゃ・・・・・・」
「―――ぐぅ、っああああああああああああああああああ!!」 「っ!?」 とつぜん静まり返った庭の中に響き渡る叫び声。 ふいに私に触れていた腕が離され、支えを失った身体は硬い石畳の上へと落ちる。その拍子に鼻をしたたかに打ち、目の前に火花が散った。 「っ、なに?」
じんじんと痛む鼻を抑えながら、私は影の方へと目を向ける。 途端、息を飲んだ。
私の放つ光は、影の姿をはっきりと捉えた。影は私と同じく石畳の上にしゃがみこみ、うずくまるように手の平を抱えている。 「あ、ああ・・・・・・ぐっ!」 低いうめき声が、静かな境内に響き渡っていた。 「・・・・・・っ」
鼻の痛みはどこかに吹き飛んでしまった。目の前に見えたのは、墨を落としたような黒い蛇のようなものと、それによってただれていく影の手のひらだった。じゅうじゅうと嫌な音を立てて男の手に広がっていくそれは、微かな光の中でもはっきりととらえることができた。 やがて、どす黒いそれは動きを止めると、影の手のひらに張り付いた。 影はうめき声を止め、手首を握り締めたまま少しだけ顔を上げる。 鈍く光る眼差しが、私を捉えたような気がした。 「―――――――――」 気づいたら私は蔵に飛び込んでいた。 近くに置いてある長い棒を戸の端にはめ込む。こうすれば外から戸はあけられなくなると、前に善光たちが話していたのを聞いたからだ。 震える手ではなかなかはめ込めなかったが、どうにか戸が開くのを抑えることができた。 「・・・・・・は」
ようやく一人になると、小さな身体は力なく崩れ落ちた。走り続けた足が、影を振りほどいた腕が、自身でも分かるほどに震えている。胸の奥が締め付けられるような感覚とともに這い上がる地面の冷たさが夢ではないことを強く印象づけていた。 肩を抱き寄せると、自身の白銀の髪が視界の端に入り込んでくる。左側の三つ編みだけほどけかかっているのは先ほど影に掴まれたせいだろう。 そう思った瞬間に、私の思考は再びあの影を思い描いていた。 (髪の毛、引っ張られて、それで?) さきほどの光景が頭の中に次々と流れていく。 私の髪に触れた影の手が、ゆっくりと赤黒くただれていく。いやな音を立てて焼ける手のひらに、苦しそうな影の声が張り付いて離れない。 「・・・・・・!!」 私はこらえきれず、強く目をつぶった。 (なに、なにこれ。なんか、やだ、やだっ!) 辺りはようやく静かになったものの、私の身体はいつまでたっても落ち着いてくれない。言いようのない感覚が私の身体を押しつぶしそうとしているようだ。 こんな胸のざわめきは私にとって初めての経験だった。 「善光、センちゃん」
優しいぬくもりが恋しくて、私は小さく呼びかける。 誰も答えることのないそれは、ただただ闇夜の中へと溶けていった―――・・・・・・。 |