七話


 

 翌朝、善光はいつものように山道を登っていた。

「・・・・・・・・・」

 隈の浮かんだ目をこすり、普段よりも幾分ゆっくりとした足取りで石段を登る。足元に咲く草花に積もった朝露がつるりとした光沢を放ち、薄暗い山道を照らしていた。善光が一歩足を踏み出すたび、草履からじんわりと朝露が染み込んでいく。そのかすかな感覚すらも善光の足取りを重くさせた。 

 普段ならば村人に見つからないよう、明るくなる前に山を登りきっていなければならないのだ。けれど善光の身体はどうにもうまく動いてくれない。

 それというのも、渡辺からもうすぐこの村を立つことを告げられたからだ。

 つまりそれは、善光がユエに別れを告げなければならないということだった。

『たしかに、俺たちは物語を編纂し、失われた歴史を世の中に伝えるのが役目だ。だがな、それでも触れちゃあならねえ真実ってモンがある』

 渡辺の声が、昨夜からずっと頭の中で鳴り響いていた。

『考えてもみろ。農民にとって作物を枯らす疫病神ってのは天敵だ。なのに、なんで農民たちは疫病神の存在を知らずに過ごしてるんだ? 八十年前の話だからって誰ひとり知らないっていうのはおかしいだろ。俺の憶測だが、おそらく誰かによって意図的に隠されたんだ。それも一人や二人じゃねえ。村単位で隠蔽された可能性がある。それだけやばい秘密が、あの社の中に眠っているってことだ』

 何度も頭の中で繰り返される言葉と、申し訳なさそうな渡辺の顔。

『俺には組の代表として、お前たち部下を守る義務がある。それにお前は可愛い後輩で、俺の弟分だ。下手に禁忌に触れて、おいそれと失いたくはないんだよ。今まで散々利用させてもらって何だが、もうあの社に近づくのはやめろ。お前も別れが辛くなるだけだ』

「・・・・・・言いたいことは、わかりますよ、渡辺さん」

 そう言って善光は、昨晩から何度目かのため息をついた。ため息をひとつ吐く事に、体の力がどんどん抜け落ちていく。このまま動けなくなったら山を登らなくてもよくなるかと考えてしまうくらいに、善光の気持ちは落ち込んでいた。

「でも、あまりにも急すぎるじゃないですか」

 頂上の神社では相変わらずユエが待っているのだろう。今日の土産はなにかといいながら、いつものように抱きついてくるかもしれない。

 ふだんならば無邪気な様子に微笑ましくさえ思えるのだが、これから別れの言葉を伝えるとなれば、それは真逆の意味を持つことになる。

 善光は奥歯を噛み締めて目を強くつぶった。まぶたの裏に浮かぶのは、やはりユエの姿だ。

読み聞かせをすれば喜び、髪を結えば笑い、お土産を持っていけばはしゃぐ。妹のように思っていた少女を、どうして切り離すことができようか。

 だが、組の一員である善光には頭領の意向に反対する権利はない。

「でも、それでも僕は」

 善光の足取りはゆっくりとしたものだったが、歩みを止めない限り終わりは必ず訪れる。

 善光の内心とは裏腹に、自身の身体はとうとう山頂にたどり着いてしまった。もはや見慣れた楼門が、見下ろすように善光を出迎える。しめ縄がギシギシと揺れる様は相変わらず不気味だったが見納めと思うと少しだけ感慨深い気持ちになった。

「はあ・・・・・・ん?」

 胸の奥の憂鬱を押し出すように、善光は深いため息をつく。

その際、楼門と境内の境目に何か赤いものが落ちていることに気づいた。

「これって、ユエの駒下駄じゃないか。どうしてこんなところに落ちてるんだろう?」

 身をかがめ拾ってみると、ユエがいつも履いている赤い駒下駄だった。手のひらよりもやや小さめのそれは薄く漆が塗られており、彼女の袴に刺繍されているものと同じ、羽を広げた蝶の模様が金粉で描かれている。見るからに上等な代物であるこの下駄はユエもいたく気に入っている一品で、いつも身につけていたはずだ。

 だが今はどういうわけか、冷えた石畳の上に無造作に投げ捨てられている。

「大事な駒下駄を放り出しておくなんて、ユエはどこにいるんだろ?」

「小僧、ようやく来たか!」

 善光が首をかしげたとき、頭上から聞きなれた声が落ちてくる。

 白銀の翼を翻しながら、千鳥が屋根の上から飛びこんできた。

「あ、おはよう千鳥。ねえ、これって・・・・・・」

「この馬鹿者が、来るのが遅い!!

 善光はいつものように声をかけた。しかし千鳥の方は、慌てた様子で善光の言葉を遮り、怒鳴り声をあげる。

「ちょ、千鳥! いきなりどうしたの? そんなに怒らなくたっていいじゃないか」

 あまりの声の大きさに思わず耳を塞ぐ。身に覚えのない善光はなぜ千鳥が怒っているのか検討がつかず、ただ困惑するばかりだった。千鳥の方は翼を慌ただしく羽ばたかせながら、くちばしを突きつけるように再度つめよってくる。

「いいから早くこんか! 主の様子がおかしいのだ」

「・・・・・・ユエが? ってちょっと、どこ行くの!?

 主、の言葉に、善光の身体がぴくりと反応する。

 千鳥はそれだけ言い残すと、慌ただしく羽を広げて境内の中を飛び回り始めた。善光もまた白いカラスの後を追う。

 楼門を抜けると、境内の庭は相変わらず赤色に染まっていた。紅葉はやや瓦の禿げた社の屋根にも降りかかっており、まるで紅色の雪のようにも見えた。月明かりよりもまばゆい白銀の翼が、紅色の葉の中でよく映えている。

 昨日ユエたちと行った焚き火の燃えかすが残されている以外は普段となんら変わりはない、見慣れた神社の風景だ。

 ただ今日だけは、まるで時が止まったかのように静かだった。

 理由は明白だ。いつも賑やかなユエが未だに姿を現さないのだ。

 善光を急かすように宙を二度三度旋回すると、千鳥は蔵の方に向かって飛んでいった。ちらばった落ち葉の道をかき分けながら、善光もその姿を追う。白いカラスは蔵の前に降り立つと、翼の先で扉を示した。

「ここだ。ここに主がおられる」

「蔵の、中?」

「ああ。なぜだか主は、昨日から蔵の中に閉じこもっておられるようだ。私がいくら呼びかけても一向に出てこようとしない。格子戸の隙間から覗こうとすれば入ってくるなの一点張りで、私では手がつけられんのだ」

「そんな、一体何があったの?」

「わからん。昨夜は村の偵察に行っていたのだ。帰ってきたらこの有様だった」

「・・・・・・」

 善光は目を細めると、静かに扉の前にしゃがみこんだ。ところどころ塗料のはげた扉は楼門と同じくささくれ立っていて、壁との間からすきま風がかすかに吹いている。鼻先をかすめる風の中には、かすかに熟しすぎた果実のような甘い匂いがした。

(間違いない、ユエはこの中にいる)

 そう確信した善光はそっと扉に手をかけ、呼びかけるように声をかけた。

「ユエ、遅くなってごめんね。何かあったのかい?」

「・・・・・・」

 中からの返答はない。代わりにぎしりとなにかが動く音が聞こえた。おそらくユエは扉の近くにいるのだろう。ならば自分の声は間違いなく届いているはずだが、それでも少女はかたくなに出てこようとしない。

(本当に、どうしたんだろう?)

「千鳥も心配しているよ。早く出ておいで」

「・・・・・・」

「門のところにユエの駒下駄が落ちていたよ。裸足だから足が冷たいだろう? キレイに拭いておいたからね」

「・・・・・・」

「そうだ、今日はお土産に干し芋を持ってきたんだ。とっても美味しいんだけど、ユエがいらないなら僕が食べちゃってもいい?」

「食べる!」

 少し枯れたような声色が、慌てたように声をあげる。一時の間のあと、扉の向こうから長い棒を動かすような音が聞こえた。それに続き、年代物の扉が嫌な音を立ててゆっくりと開いていく。

「よかった、ようやく出てきてくれたね」

 まるで何かに怯えるように、小さな身体がゆっくりと蔵から出てきた。

「え・・・・・・」

「な、主! そのお姿は」

 ユエの姿を見た瞬間、一人と一羽は息を飲む。

「・・・・・・」

 現れたユエは、見るからにひどい様相だった。

 丁寧に編まれていた髪は片方だけぼさぼさになっており、結紐の結び目がほどけかかっている。夜でも月明かりのように輝く瞳は赤く充血して、薄桃色の頬はすっかり青白くなっていた。腕にはもう片方の駒下駄を固く握りしめ、裸足の足は乾いた土がこびりついている。

「あ、主。一体何があったというのだ! どうしてそのようなお姿に」

 千鳥は慌てた様子でユエの周りを飛び回っては執拗に尋ねる。けれどもユエは千鳥の問いかけに答えないまま動かなくなってしまった。

「ユエ?」

 ユエは答えない。口をへの字に曲げ、なにか堪えるように顔をしかめている。

 善光はしばらく迷ったものの、いつものようにユエの頭を撫でようとした。

「っ、や!」

「え、どうしたの?」

 手を伸ばした途端、とつぜんユエの体が身を引いた。

「っ・・・・・・!」

手に持っていた駒下駄ごと自分の身体を抱き寄せ、小さく首を横にふる。まるで触れられることを拒んでいるようだ。

 今日のユエは、あきらかに様子がおかしい。

「・・・・・・」

 善光はしばらく考えたあと、そのままほどけかかった三つ編みをつかんだ。

「っ!!

 ユエはほんの少し身じろぎしたものの、それ以上の抵抗は見せなかった。善光の手のひらが動く様子を静かに見つめている。

 善光の手袋にほどけた白銀の髪がまとわりつく。ひと房つまんでみると、絹のようになめらかだったそれは所々に土がついており、ごわごわとした感触が手袋越しにも伝わってきた。

「髪、ほどけちゃったね。また結ってあげようか」

「・・・・・・うん」

 そう声を掛ければ、小さな頭がこくりと頷いた。

 
                              *

 

「最初はね、善光がやってきたと思ったの」

 土産の干し芋をつついばむように食べながら、ユエがぽつぽつと言葉を紡いでいく。

 善光はいつものようにユエを社の石段に座らせ、彼女の後ろで相槌を打ちながらほどけた髪を結い直していく。土煙がまじってくすんでいた髪は何度か櫛を通すと少しずつ輝きを取り戻していき、元の白銀の髪へと戻っていった。

「真っ暗で、顔もよく見れなかったけど、ここに来るのは善光以外にいないから。でもなんにも言わずに門のところで立ち止まってて、おかしいなーって思って近づいていったの」

 細くしなやかな髪に指を絡ませながら、善光はあっという間に左側の三つ編みを結い終えた。そのまま慣れた様子で右側に分けた髪をとかし始める。

「そしたら善光よりもおっきな影で、善光よりももっと低い声がしたんだよ。『お前が、疫病神なのか?』なんて言って。善光じゃないって気づいたらすごく怖くなって、あわてて逃げたの。そしたら後ろから影が追いかけてきて、すごく怖かった」

 ユエは口元から干し芋を離すと、重いため息をついた。いつもならあっという間に口に詰め込んでしまうのに、今日に限ってはしおらしく干し芋は一向に減る様子もない。それどころか途中で食べるのをやめ、食べかけのそれを握りながら手をひざに置いてしまった。

 彼女の弱りきっている様子が痛いほどに伝わってくるようだ。

「それでね、しばらく神社の中をぐるぐると逃げ回ってたら、そしたら、すぐ近くにあの影がいて、おどろいて転びそうになって」

「ユエ、落ち着いて。ゆっくりでいいから」

「髪を引っ張られたの」

「え?」

 櫛の動きが止まる。昨日臼井に書物について尋ねられた時よりも大きく、心臓が跳ね上がった。

 ユエの話は止まらない。少し枯れた声色のまま言葉を続ける。

「そしたら、影の手の色がどんどんおかしくなって、影の声が、すっごく辛そうな、苦しそうになって。その間に蔵に飛び込んで鍵をしめたの。それからはずっと、善光たちが来るまであの場所でかくれんぼしてたんだよ」

「・・・・・・そう、大変だったんだね」

 善光は結紐を締めながらそう答えた。うなだれた頭からのぞく細い首筋が弱々しくかしいだ。

(こんなことになっていたのなら、もっと早くに来てあげれば良かった)

 昨日は渡辺から言われたことをどう切り出そうかと悩み、ほとんど寝ていない。そのせいで出発も本当にギリギリの時刻になってしまったのだ。

 おそらくユエの話す影とは村の人間か誰かだろう。もしかしたら自分が山を登っているところを見られてしまい、不審に思ったその人物が神社を訪れたのかもしれない。

(どうせ眠れなかったなら早く神社に来ていれbsよかったんだ。いや、むしろ誰かが来る前にユエを隠れさせていれば、ユエが怖い目にあわなくてもすんだのに)

 善光は奥歯を強く噛み締め、自分を恨んだ。

 そんな彼の心中を知ってか知らずか、ユエは善光に問いかけてくる。

「ねえ善光。善光もあんな風になるの?」

「あんな風って?」

 結い終わった二つの三つ編みが、善光の手のひらから離れていく。

「善光も私に触ったら、あんな風に真っ黒になっちゃうの?」

 息が詰まった。

 振り向いたユエの表情は、はっとするほど辛そうな顔をしてこちらを見つめていた。

 黄金色の瞳が、不安そうに揺らいでいる。

 善光はようやく合点がいった。

(そうか、だからユエは蔵から出たがらなかったのか)

 ユエは今まで自分の疫の力に無頓着だった。彼女と普通に接する人間がいなかったせいだろう。人に疫がうつるとはどういうことなのか、ユエは理解していなかったのだ。だからせいぜい触れれば大変なことになる、という程度の認識しか持っていなかった。

 だが今回、実際に人間が疫で苦しむ様を見て、自分の力がどういうものなのかを思い知った。自分の力が人間にとってどれほどの害があるのか気付いてしまったのだ。

 だからユエは、善光や千鳥に触れることをとまどった。

 自身も怖い思いをしたけれど、それよりもずっと、誰かを傷つけてしまう事の方が怖かったのだろう。慰めてほしいが、触れてしまえば相手に痛い思いをさせてしまうかもしれない。

 ユエは幼いながらも聡い子どもだ。そのくらいのことは容易に考えついてしまうのだ。

「・・・・・・」

 ユエは黙ったまま善光の返答を待ち続けた。薄紅色の頬はすっかり色をなくし、薄い唇はこらえるように固く噛み締められている。

 一時の間ののち、善光は静かに答えた。

「そうだね、そうかもしれない」

「っ、」

 途端、ユエの瞳が大きく見開かれる。小柄な体が小さく震え、瞳に淡い粒が浮かびあがった。

 そんな様子のユエに善光は優しい声色で言葉を続けた。

「でもねユエ。手袋とか着物越しなら触っても大丈夫なんだよ。ほらこんな風に」

 善光はユエの左手を掴むと、自身の右頬にそっと触れさせる。小さな指が一瞬だけ身を引こうとするが、無理やり頬に押し付けた。分厚い手甲の布からはざらざらとしていてこそばゆかったけれど、ユエを納得させるのならばこのくらいどうということはない。

 ユエは呆然とした様子で善光の顔を眺めながら、おそるおそる指をはわせる。もちろん善光の顔に変化はない。

「大体、今までだって散々抱っこをしたり髪を結ったりしてきたじゃないか」

「でも、」

「うん、わかってる。誰かが疫で苦しむのを見て怖くなったんだよね」

「・・・・・・うん」

「大丈夫だよ。要は素手で僕に触らなければいいんだ。それともユエは、僕が痛い目に合うとわかってて、わざと触ろうとするかい?」

「し、しない、そんなの絶対しない!」

 ユエは勢いよく首を横にふった。

 真剣に首をふる少女の様子に、善光はいっそう笑みを深めた。

「だよね。ユエは優しい子だから、ちゃんとわかってるよね?」

「・・・・・・」

 ユエのこわばった顔つきが少しずつ和らいでいく。

 揺らぐ瞳に、善光は少女を安心させるように言葉を重ねた。

「ね、大丈夫なんだよ。だから、僕たちに触れることを怖がらないで」

「・・・・・・ふぇ」

 目線を合わせるように微笑みかけると、ユエの顔がくしゃくしゃに歪んでいく。

小さな身体が、善光の胸元に向けて勢いよく抱きついてきた。

「うんうん、やっぱりユエはこうでなくちゃ」

 嗚咽をもらす少女の背を撫でながら、善光は満足そうに笑みを浮かべた。




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2014,07,27