八話


 

 

 しばらくするとユエがうとうととまぶたをこすり始めた。たくさん泣いたからか少し眠くなってきたようだ。昨晩からろくに眠っていないせいもあるのだろう。

 少し早いが、善光もまた一度村に戻ることにした。善光のいない間にまた誰かがやってくることも考慮し、ユエには社殿ではなく鍵のかかる蔵の中で眠ってもらうことにする。

「もう帰っちゃうの?」

 蔵の前で別れる前、ユエはまた涙目になりながら善光を見つめてくる。あの事件はつい昨日の出来事だ。ようやく立ち直ってきたがまだ不安なのだろう。

 善光は身をかがめ、頭をなでながら申し訳なさそうに声をかけた。

「ごめんね。そばにいてあげたいけど、やらなきゃいけないことがたくさんあるんだ」

「・・・・・・」

「ほら、僕の羽織を貸してあげる! これをかぶって寝てればなにも怖くないよ。もし何かあったら千鳥に知らせて僕を呼んでね? すぐにユエのところに戻ってくるから」

「・・・・・・うん」

 荷物の中から替えの着物を取り出し、ユエに手渡す。それを受け取ると、ユエは羽織を抱き寄せて首を縦に振った。

 ささくれだった蔵の戸が、きしみを上げながらゆっくりと閉じられる。善光はすぐに戸に耳を寄せ、中の様子を伺った。

 木と木がこすれる音がした後、ユエの足音は遠くに離れていき、音はぴたりと止まった。どうやら鍵は言いつけ通り、しっかりとかけたようだ。

 確認が終わると、善光はすぐさまその場を離れて帰り支度をはじめた。持ってきた書物は事前に戻してあるし、着物などが減ったおかげで荷物はほとんどない。このさいなので持ってきたかごも神社に置いていくことにする。

(これなら急いで帰れば半刻で村に着くかな?)

楼門を抜けようとすると、見慣れた白いカラスが待ち構えていた。

「主の様子はどうだ?」

 千鳥が足元から見上げるようにしながらユエの様子を尋ねてくる。

「泣き疲れて寝ちゃったよ。それで千鳥、この辺りの様子はどうだった?」

「山の中には人影はなかった。おそらくすでに下山しているのだろうな」

「そっか、まずいなあ。村の人たちに話してなければいいけれど」

 善光が空を見上げると、陽はもう随分と高くまで昇っていた。焦る気持ちが一層強まる。

 昨晩、何者かがこの社にやってきた。そしてユエの存在を知ってしまったのだ。その上ユエの髪に触れてしまい、疫におかされた。

 もしかしたらその人物は、彼女を危険な存在だと思ったかもしれない。もしそれが村人たちの耳に入れば、大変なことになるだろう。

「とりあえず、僕は村に戻ってその人を探してみるよ。村人たちに見つかる前に話ができたらいいけどね。千鳥はユエを頼んだよ」

「まて、善光」

 そういって善光が千鳥の横を通り過ぎようとしたとき、低い声が呼びとめた。

 抑揚のない声色に思わず足が止まる。

「どうしたの、まだなにかある?」

 善光は振り返り、身をかがめる。千鳥は頭をくいと上げ、相変わらず表情の読めない顔を向けてきた。つるりとした光沢を放つくちばしがゆっくりと言葉を紡ぐ。

「お前はなぜ私たちに手を貸すのだ?」

「はあ? なぜって、僕以外の人間にユエのことが知られちゃったでしょう? こんな大変な時なら協力するのは当たり前だよ」

「だがお前は、もうすぐこの村をでていくのだろう?」

善光は大きく目を見開いた。そうして何事かをつぶやこうと口を動かした後、居心地悪そうに視線をそらす。

「・・・・・・知ってたんだ」

 ばつが悪そうに話す善光に千鳥は冷ややかな目を向けた。

「ここ最近、見回りをしている時にお前の部隊の人間が妙な動きをしているのを見かけた。村人たちの目を盗みながら、こそこそと何かを運び出していたのだ。おそらくはお前たちがこの村で集めていた物語の調査結果だろう。都へ帰還する準備をしているのだとすぐに感づいたぞ」

(そうか、千鳥は渡辺さんの考えに気づいていたんだ)

 千鳥は淡々と言葉を紡いでいく。善光はその声を聞きながら、心の中で渡辺に感服した。

 元々渡辺は頭の切れる人間だ。この村の違和感に気づいてから、人知れず準備をしていたのだろう。昨日、戸部が仕事を急かすよう渡辺に言われていた話にも納得がいく。隊の仲間に危害が加わらぬうちに、なるべく内々で話を進めていたのだろう。

 それでも善光は渡辺本人から告げられるまで隊の動向に気付いていなかった。善光自身が鈍いということもあるかもしれないが、おそらく渡辺も、善光に気づかれぬよう配慮していたのだろう。

 ユエと過ごす日々が少しでも長く、楽しいものとなるように。

(渡辺さん、貴方って人は)

 上司の心遣いに、善光は思わず頭をかかえた。だがそれよりも厳しい千鳥の言葉が胸を貫く。

「いいか善光。お前はもうすぐ私たちを置いて都に戻る。そんな人間が、なぜ我々に手を貸そうとする。なぜ主に心を砕く。主はお前に大層心を許しておられるのだ。それを突然突き放すなど、いったい何を考えているのだ。それともお前は仲間を捨てて、この地に残る気でいると?」

「それは、」

「否と言うのであれば、お前の行動は無責任そのものだ。心を許した相手に手放されたとき、それがどれほどの絶望を伴うものか、若造であるお前でも理解できるはずだ。なればこそ、今の己の行動を返り見ろ。私は従者として、主を傷つけるものを決して許しはしない。お前のような無粋な人間が、これ以上主に近寄るな!」

「・・・・・・っ」

 千鳥が乳白色のくちばしを大きく広げて一喝する。善光が身をかがめていたせいで、その怒号は痛いほどに響いて聞こえた。

 二人の間に流れる空気が激しく震える。

(千鳥の言い分はもっともだ)

 善光はうつむいたまま、唇を強く噛んだ。言い返す言葉がなにも浮かばない。

 初めてユエと出会った時から、この日が来ることはわかっていた。どれだけユエと一緒にいたいと思っていても、自分がそばにいられるのはこの村に滞在しているわずかな間だけ。編纂組が仕事を終えて都に戻るのならそれに続くだけで、編纂組の一員である善光に拒む理由はない。

 そんなことはとっくにわかっていた。

 けれど、どうしてもできなかったのだ。

 初めて彼女に出会い、自分に無邪気になつく様子を見て。また、このような寂れた神社に閉じ込められた彼女の境遇を知って、手を差し伸べずにはいられなかった。掴んだこの手を離す日が来るとしても、それでも目の前の少女が笑ってくれるのなら、それでよかった。

 それはユエに故郷の妹を重ねていたから。

 ―――・・・・・・本当に、それだけが理由だったのか?

(・・・・・・いや、今はそんなことを考えている場合じゃない)

 善光は目を強くつむり、今やるべきことをもう一度考え直した。その心の葛藤を見透かすように、足元から千鳥がじっと見つめてくる。紅葉をまとった秋風が、二人の間を駆け抜けていく。

「わかった。もうユエには会わない」

 風がやむ頃、善光はようやく声をあげた。

 千鳥は問いかけの答えに眉一つ動かすことなく言葉を待つ。

「でも、今回の件は僕の責任だ。もともと僕が神社に通うところを見られなければこんなことにならなかったはずだよね? だからせめて編纂組が都に戻るまで、手を貸すことを許してほしい」

「・・・・・・」

「お願いだよ、千鳥」

「・・・・・・いいだろう。どのみち今回の件はお前の力がなければどうにもならん。人間の手を借りるなど癪だがな」

 ため息混じりの低い声が力なく首を振った。

「だが私が話したことを忘れるようであれば、容赦なく叩きだすぞ」

「わかってる。ありがとう、千鳥」

「フン、わかったらさっさといけ」

 それだけ言い残すと、千鳥は白銀の翼を大きく羽ばたかせ、境内の方へと飛び去っていった。白銀の翼は降り注ぐ紅葉の中で何度も旋回し、自身の主人が眠る蔵の方へと姿を消した。

「・・・・・・急がなくちゃ」

 千鳥を見送ると、善光は顔を引き締め、足を踏み出した。

                              *


 人間の体力には限界というものがある。

 山道を抜けて村の麓にたどり着くと、善光はとうとう草陰のすみに座り込んでしまった。開けた平地の中に善光の荒い呼吸音が漏れる。片道一刻ほどの道のりを全速力で降りてきたため、足には言いようのない疲労がたまりきっていた。首筋や背中をとおる汗は普段の山登りよりはるかに多く、上着を絞れば汗がしたたりそうなほど染み込んでいた。その汗の重さが力つきた体にさらに重くのしかかる。

(た、体力の配分、考えてなかった・・・・・・)

 善光はぼやけた視界の中で、沈みきっていた。この半年間山に通いつめていたおかげで多少は体力がついたものの、全力で山道を駆け抜ければこうも疲労がたまるはずだ。

「あ〜もう、早く村に戻らなくちゃいけないのに!」

 善光は自分の体力の無さにあきれながら、半ばやけになって叫んだ。紅葉の枝葉に止まっていた小鳥が一斉に飛び出し、辺りには風の通りぬける音だけが聞こえていた。

 とにかく少しでも早く体力を取り戻そうと、善光が竹の水筒に手を伸ばした時だった。

「お前さん、ここで何をしておるんじゃ」

「ぶっ!?

 低くしわがれた声が背後から聞こえてきた。吹き出した口元を拭いながら、善光はおそるおそる振り向く。見れば道の向こうから、小柄な人影が歩いてくるのが見えた。

「お、お婆さん」

 ボロボロの小袖に紺の前掛けをつけたその姿は、半年前に出会ったときと変わらない、あの老婆の姿だった。落ち葉掃きをしていたのか、片手には竹ホウキを携えている。顔の半分を覆うように白く染まった長い髪がだらりと下がって、相変わらず不気味な雰囲気を漂わせていた。

「こ、こんにちはお婆さん。こんなところで会うなんてすごい偶然ですねっ!」

「なんじゃ、少し前に見かけた坊主か。この山には近づくなと忠告したじゃろう。なんでこんなところにおる?」

「ううっ」

 背中の汗がさっと引いていく。蒸気していた頬は血の気が引いて、青白い色に変わっていた。

(どうしよう・・・・・・お婆さんの忠告を無視して半年間通いつめてましたとか言えない!)

 不審な様子の善光に、老婆の目が訝しげに光る。

「もしやお前、あの神社に行ったね?」

「え!? あ、あは、やだなあそんなこと!」

 どきり、と心臓が跳ね上がる。先ほどの全力疾走からようやく落ち着いてきたはずの心臓が、ばくばくと早鐘を打つ。引いたと思った汗が、ふたたび吹き出してきた。

 そんな善光の様子を、老婆は冷たい片目で見つめてくる。

「フン、坊主はずいぶんと嘘が下手だね。お前さんみたいな若者にとってあの神社は何の面白みもないじゃろうに・・・・・・あそこには近づいてはならんといったじゃろうが」

「〜〜〜!!

 善光は言葉にならない声をあげる。渡辺からも言われていたし自分でも気をつけていたのだが、最後の最後でへまをしてしまった。

 固まってしまった善光の様子を尻目に、老婆はグチグチと説教をするように語り続けた。

「いいかよくお聞き。あそこにいるのは、おそろしい疫を持った神様なんじゃ。今は封印された社の中で眠っておられるが、その眠りを覚ましてしまえばとんでもないことになる」

「す、すみません」

「なにがあっても、あの子の眠りを覚ましてはいかん」

「・・・・・・え?」

 老婆は地面に視線を落とした。長い白髪がさらりと揺れる。ところどころちぢれていて触り心地も悪そうだったが、なぜか弱りきったユエの姿が重なって見えた。老婆はため息をつくと、ふたたび善光に向き直る。威嚇するようにホウキの先を善光につきつけた。

「わかったらもう二度と神社に行くんじゃないぞ! まったく、最近の若造は人の話を聞かんのじゃから・・・・・・」

「ま、待ってください!」

 それだけ言って満足したのか、老婆はブツブツと何かをつぶやきながら歩いていこうとする。

 善光は慌てて老婆を引き止めた。うんざりした表情を浮かべて老婆が振り向く

「なんじゃ、話は終わったぞ?」

「あの、どうしてお婆さんは、社にいるのが神様だと知ってるんですか?」

「・・・・・・なに?」

「村の人たちは、『あの神社に入ると悪いことが起こる』『たたりにあう』としか話していませんでした。具体的にどんな悪いことが起きるとか、みんなわからないと言っていたんです」

(そうだ、前々からおかしいと思っていた)

 善光は口元に手を当て、じっくりと頭の中で考えをまとめる。

田畑を耕して生計を立てる村人たちにとって作物の流行り病は深刻な問題だ。それが人間にも害を与えるとすれば、なおさらだろう。

 だが実際には、『悪いことが起こる』という曖昧な表現でしか伝わっておらず、村人たちはその詳細も分からぬままおざなりにしてしまっている。いくら封印されているとはいえ本来ならもっとユエの存在に怯え、祀られていてもおかしくはないのだ。

「それに、どうしてお婆さんは神様が『あの子』と呼ばれるほど幼い姿をしていると知っているんですか?」

「!」

 老婆の顔が驚愕の表情を浮かべる。片方だけのぞいた目が大きく見開かれた。

『おそらく、誰かによって意図的に隠されたんだ。それも一人や二人じゃねえ。村単位で隠蔽工作された可能性がある。それだけやばい秘密があの社の中に眠っているってことだ』

 ふと、渡辺の言葉を思い出した。善光の中で何かがつながっていくような気がした。 善光はふたたび老婆の方へ向き直った。

「お婆さん、あの神様に会ったことがあるんですね?」

 この時、善光は確信した。

 この老婆は、なにかを隠している。

自分でも驚くほどに心臓が早鐘を打っているのがわかる。

 いまだ驚きの表情を浮かべる老婆に、善光は問い詰めるように話し続けた。

「やっぱり知っているんですね。ユエのことを」

「・・・・・・なぜじゃ、なぜその名を」

「え?」

 その時、茂みの向こうから、がさがさと音を立てて何かが飛び出してきた。

「キサマ、こんなところで油を売っていたのか! 手間をかけさせよって」

 千鳥だ。真っ白な羽にいくつも枝葉をつけて、善光の周りを飛び回る。善光は一瞬呆然としたが、老婆がいることを思い出して慌てて捕まえようとした。

「ちょっ、ちょっと千鳥!? 人がいるんだから出てきちゃダメだって」

「そんなことを言っている場合ではない!」

「いやいや、お婆さんいるよ? すっごい君のこと見てるよ!?

 善光が目を向ければ、老婆は先ほど善光が詰め寄った時よりも目を大きく見開いて固まっていた。まるで信じられないものを見たように口を大きく開けている。その老婆の様子に善光は一層焦りを募らせた。

 だがそれも、千鳥の持ってきた報告でどこかへと吹き飛んでしまった。

「主が危ないのだ!」

「ユエが?」

 互いにぴたりと動きを止めると、千鳥が足元まで舞い降りてくる。人間が手振りで説明するように、その大きくて真っ白な翼を動かして懸命に話を続けた。

「先ほど村の見回りをしていた時、村人たちがクワや弓を持って山に入っていくのを見かけたのだ。先頭に立っていた男が、『村を苦しめる疫病神を退治する』等と大声で喚いているのが聞こえた」

「そんなっ」

(遅かった!)

 善光は思わず頭を押さえた。

最悪の考えがとうとう現実になってしまった。

昨夜神社から逃げ出した人物はさっそく村人たちに告げ口し、味方を引き連れて神社に向かっているのだ。

「・・・・・・」

 千鳥と善光の会話を、老婆はじっと聞いていた。どうにも説明のしづらい状況だが、今はかまっていられない。

「でも『村を苦しめる』って、一体どういうこと?」

「今年は作物の実りが悪く、不作だったのだ。おそらくそれを主のせいだと言いたいのだろう。まったく馬鹿なことを・・・・・・主がそのようなことをなさるはずがないというのに」

「・・・・・・とにかく、早く神社にいこう! 村人たちが、ユエに会う前に!」

「うむ。ならば私のあとについて来い。石段よりも近い道を教えてやる」

 善光の返答を聞き、千鳥はいち早く空へと羽ばたき、林の中へと消えていく。残された善光もまた素早く身支度を整え、千鳥の後を追おうとする。

 そこでふと老婆を思い出し、おそるおそる振り返った。老婆は呆然としたままその場に立ち尽くしている。

「あ、ええと・・・・・・すみませんお婆さん、そういうわけで失礼します」

「待て、坊主」

「あとで話をしますから、今は見逃してください!」

 老婆がなにか口を開こうとする前に、善光は山道へと駆け出した。一日に二度も同じ山を登るのは厳しいが、そうも言っていられない。こうしている間にも村人たちはユエの元へ迫っているのだ。

「・・・・・・まさか。でもあの鳥は、たしかに」

 取り残された老婆は、掻き消えそうなほど小さく葉をこぼした。




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2014,08,06