6話





 取り戻した記憶の衝撃に、ひざをつきそうになる。

 浸食する『黒』は範囲を広げ、シロが立っている場所を残して部屋中を埋め尽くした。
 クロは胸をかたく押さえ必死で影を抑えようとするが、体からは黒い影があふれて止まらない。心臓の音がうるさい。息切れがとまらない。なによりひどい恐怖感があった。

 胸元を押さえるクロの手から新たな影がにじみ、なくしていた記憶がまたよみがえる。
 どうやらこの影は、クロの今までの感情が混じり合って出来ているようだ。自分の母親に対する不透明な感情も、クラスメイト達への嫉妬や羨望も、そして、自分自身に対するひどい罪悪感もぜんぶ含めて。薄ら寒い記憶から湧きあがる感情はとてもみにくく、ひどく冷たかった。
 あらゆる色彩で彩られたそれは色濃く深く混ざり合い黒く染められ、いま、すべてを覆うように部屋を駆けめぐっている。  影に包まれた手足は鉛のように重く、刺すような鋭い冷たさをまとっていた。


 体中、この『黒』に包まれてしまったらどうなるだろうか。

 そんなこと、考えたくもない。

「こっちにくるな!白山、早く逃げろ!!
 クロは、自分に駆け寄ろうとする目の前の少年にさけんだ。
 もしも、もしも本当に自分たちが死んでしまったというのなら、これは一体どういう状況だろうか。自分のせいで死んだシロといっしょにいて、今、いっしょに黒い闇のなかに飲まれようとしている。

 
地獄とか天国とかいうものは信じていない。けれど、もしそんな場所があるのなら。

 自分とシロの行き着く先は決して同じ場所ではないはずだ。


「なにいってるの!?そんなことできるわけないでしょ!」
 この状況においても、シロはなおクロのほうへ近づいてくる。一歩一歩の足跡が黒く染まるごとに、なおさら焦りを覚えた。

「いいから、早く離れろってッ!?」
ぐらり、と視界が揺れる。『黒』の衝動に耐えきれなくなった身体が、黒い影の海へと崩れおちた。
「クロッ!!」
 体勢を崩したクロの腕にシロの手が伸び、しっかりと握り締める。
 途端、クロに触れている部分から『黒』がにじみだした。

ッ!?やめろ!離せっ、白山!!
「イヤだ!!」
 振り払おうとしても、シロのほうもしっかりと握ってくる。そうしているうちに、影はシロの体を侵食し、すでに顔にまで達していた。
―――…
ああ、また、自分のせいで汚してしまうのか≫
 
クロは、愕然とした気持ちになった。 どうして、うまくいかないのだろうか。
 自分はもう誰かを傷つけたり汚したくないだけなのに。

「いいから離せって!いつもいつもお前は、何で俺にばっかりかまうんだよ!お前には、もっとふさわしいやつがいただろ!?」

「なにそれ、そんなの関係ないよっ!オレはクロのそばにいたいから一緒にいたのに!」
「関係あるだろ!俺なんかと一緒にいるから、お前まで悪口言われてたんじゃないか!!それに、俺なんかと一緒にいたから、お前もまきこまれて


 目を閉じれば、脳裏に響くクラスメイト達の嘲笑。

“白山ってさ、よく黒羽とつるめるよな。アイツすぐ暴力ふるうし、チョーキレやすいのに”
“だよな。見た目も暗くてなんかこえーし”
“なのに白山、殴られたりしても「あはは」って笑ってケロっとしてるし。俺らより黒羽といっしょに遊びたがるしさ”
“アイツもどっかおかしいんじゃねえの?なんたって『白黒コンビ』の片割れだしな”
“いえてる〜”

 忘れ物を取りに行った放課後の教室。夕日の差し込むドアの向こう側から、そんなクラスメイト達の笑い声が聞こえた。黒い感情が入りまじったそれはクロの胸の奥まで深く突き刺さる。殴り込もうと振り上げた右手を、ぶらりと落とした。
≪そうか、そうだよな。・・・アイツと俺がいっしょにいるなんて、おかしいよな≫
 そう思えば、気持ちは随分と楽になった。
 クロは教室には入らず、うわばきのまま裏口から外へ出る。玄関で待ちぼうけているシロを置いて、まっすぐ家に帰った。
 わき目もふらず、まっすぐまっすぐ、息が切れても走り続けた。

 痛む心臓ものどからあふれそうななにかも、全部そのせいだと言い訳して。


 
・・・言い争いをしているうちに、クロはだんだん何を言ってるのか分からなくなってきた。
 自分でも忘れるほど奥底に沈めていた強い感情が、影と一緒に吐き出されていく。生まれたときから、つよくつよく感じていた思いが、あふれていく。


―――俺なんか、生まれてこなければよかったのに。そうすれば、お前も、こんな目にあわなくてすんだのに!!」


 とうとう影が目まできたのか、目の前がひどくにじんだ。
 長い前髪も相まって、シロの顔が見えなくなる。



 そのとき、


いいかげんにしてよッ!!」

 怒気を含んだシロの声が部屋の中で反響し、その声に、黒くつめたい体がふるえた。
 シロはいままで、クロに対して怒ったことはなかったのだ。どれだけクロが暴言を吐こうが手を上げようが、シロは決して怒らず、いつも気の抜けたような顔で笑っているだけだった。
 そんな彼が、怒りをあらわにし、クロの腕を強く握りしめている。

 おそるおそる顔をあげると、にじんだ視界の先に信じられないものを見た。

 目の前の少年が顔をひどくしかめ、こっちをみながら、 涙を流して泣いていた。
 その涙は、暗闇の中でもなお強く、光を照らして輝いていた。


記憶がないって分かったとき、オレは、クロが覚えてないなら、そのほうがいいって思ったんだ。つらいこと全部、忘れていられるならそれがいいって」


 あふれるそれをぬぐおうともせず、シロは一つ一つ言葉を続ける。ほおを伝う涙は、影のなかに幾筋ものまばゆいひかりの道をつけた。
 クロは、シロはいつもひかりの中にいて、常にだれかに愛されて、だからシロ自身もこの上なく幸せなんだろうと、ずっと思っていた。
 こんなふうに、顔をしかめて涙を流したりするような存在じゃあないと、ずっと思っていた。
 …
そして、クロ自身も。


「でも、こんなふうにわるいことばかり思い出して苦しんでるなんて、もっと嫌だよ」

「クロ、オレはね、クロといっしょに遊べてたのしかった。クロに『シロ』って呼んでもらえて、いっしょにいられて嬉しかった」
「だから、そんなふうに自分を追い込まないで。自分から『黒』になろうとしないで」

 シロは手を伸ばし、クロの前髪のなかへと差し入れる。
 目もとをぬぐう感覚にすくみ、再び目を開ければ、視界が幾分クリアになった。はじかれた水滴が、シロの指先でわずかに輝いていた。
 自分がこんなふうに、涙を流したりするような存在じゃあないと、ずっと思っていた。

「ちゃんと思い出して。大切な人たちのこと、オレのことクロ自身のこと。いままでのこと、全部」



「お願い、クロ。自分のなかの『白』に、ちゃんと気づいて」


 互いの目からあふれたひかりがはじけ飛び、部屋中の影と混じりあう。暗闇がほどけ、色鮮やかに戻る感情の渦。

 
 クロはそこに忘れていた記憶―――――この場所に来る、ほんの直前の記憶を見た。



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