8話

 
「三百七十円のおつりです。ありがとうございました」
 売店のおばさんがお釣りを手に押し付けるように渡してくる。添えられたカサカサの指から伝わる熱に鳥肌が立ち、思わず袋を取り落しそうになった。訝しむように見つめるおばさんに軽くお辞儀をして、その場から逃げるように離れた。
 自分の歩みに合わせて、かかえた松葉杖の金属質の音が響く。ビニール袋を持った自分の右手を見つめて、クロはいまだ他人の体温になれない自分にため息をついた。

  目を覚ましてから数日、クロは一階の売店に来ていた。ガーゼで覆われた身体はいまだところどころ痛むものの、松葉杖を使えば一人で歩けるほどには良くなってきていた。兄弟たちの持ってきたゲームもマンガにも飽きてきた頃だったので、自分で動けるようになったときは本当に嬉しかった。
 平日の真昼間のこの時間は、兄弟たちはみんな学校で、クロは気がねなく院内を出歩くことができた。
 待合室をはさんだ向こうにある玄関からは、突き刺さるような陽射しがガラス張りの自動ドアから容赦なく差し込んでくる。外から来る人々はほぼ全員額に汗を光らせながら、クーラーの効いた院内の空気にほっと息をついていた。夏休み直前のこの時期、炎天下の中で登校することもクーラーもない施設で汗だくになって過ごすこともないのだから、自分はある意味ちょうどいい時期に入院したのかもしれない。

「・・・」

 がさりと、クロは片腕にひっかけたビニール袋を見つめる。中身は先ほど買ったビックサイズのシュウクリームが二つ。
 この夏バテしそうな暑いときに食べるものでもないのだろうが、ここはクーラーの効いた病院の中だ。甘ったるくて濃厚なカスタードクリームも人によっては食べられないこともないだろう。ましてやそれが、自分の好物ならばなおさらだ。
 こうやって買い物に来るのは、今日で三回目。だが、買ったものを食べたことは一度もない。
≪・・・シロ≫
 
 クロは自分を助けてくれた少年のことを想った。
 あれ以来、シロにはまだ会ってない。

 兄たちや看護師の人達にきいても“シロのほうはまだ安静にしてなければならないから出歩けない”ということしか教えてくれない。どこの階のどこの病室にいるとか、ケガの具合はどのくらいのものなのかとか聞いてみても皆口を濁すばかりだ。
なら自分のほうから会いに行くと言っても、今は面会禁止なのだとあわてて止められる。せめて、といままで買ったものはすべて、シロの元へと届けてもらっているのだが、行き場のない思いは、財布の中身を日々軽くしていくばかりだ。

 待合室の長椅子に腰かけ、軽く息を吐く。天井から釣り下がる古びたテレビからはニュースキャスターがで淡々とニュースを読み上げていた。それを真正面からみられるこの長椅子の位置は、玄関からの直射日光もクーラーの冷風も当たることなく、まさに特等席といったところだろう。
 松葉杖でささえていた腕をかるく揺らす。エレベーターを使っているとはいえ、なれない杖をついて出歩くのはずいぶんと疲れる。ギブスで動かせない手足はただの重荷でしかない。
 小学生である自分とは関わりのない事件のアナウンスを聞きながら、クロはビニール袋をとなりの席に置いた。シュークリーム二個分の重みが手のひらを抜け、するりと落ちていった。
 そう、二個分。

 クロははっ、と鼻で笑った。
 兄は言った。『ケガを負っているが、今は元気に療養しているのだ』と、『歩けるようになれば自分から会いに来るだろう』と。
 心配する気持ちはもちろんある。都合のいい考えであるのもわかっている。
 けれど心の奥底で自分は待ってるのだ。
 シロのほうから会いに来てくれるのを
 あの騒がしいシロがじっとしているはずがない。 もしかしたらクロのようにこっそり抜け出してくるかもしれない

『シュウクリームありがとう!ねぇ、ふたりで一緒に食べようよ』

 またあの気の抜けた、まぶしい太陽のような笑顔で、自分のもとへと駆け寄ってくるのを。
 その時にはちゃんと、彼の目を見ることができるだろうか。







「・・・ふぅ」

 その時、ガーという機械音とともに自動ドアが開かれた。病院に足を踏み出したのは、白いポロシャツを着た三十代くらいの男だった。しわの浮かんだその顔は随分と疲れ切っており、たまりきった疲れを出し切るように長い溜息をついていた。

≪あの人は・・・≫
 クロはおもわずソファの陰に隠れた。
 きびきびとした足取りで丁寧に切りそろえられた黒髪の揺れる後ろ姿。その姿には見覚えがあった。


 シロの父親だ。
 細身ながらがっしりとした身体からはあちこち汗の玉が浮かび、男は首筋やらを懸命にハンカチで汗をぬぐう。おそらくシロの着替えを持って来たのだろう。パンパンに膨らんだ大きめのボストンバックを肩にかけている。
 父親はこちらの視線にも気づかないまま、ひどく疲れた顔で柱の陰へと消えていった。
 気づかれなかったことに安堵し、身体の緊張を解く。

 クロはシロの両親、特にシロの母親が苦手だった。シロの母親は、施設に住むクロのことを軽蔑していたからだ。『本当の親に育てられていないのだから、まともな子に育つはずがない』と。根も葉もないいいがかりであるしシロがすぐにそんなことはないと反論してくれていたが、事実、全身まっ黒なすがたのクロは、彼女のいう『まともな子』ではなかっただろう。
 そんな子どもが自分の息子といっしょにいるのを、母親は特に嫌がっていたのだ。
『翔太、そんな子と友だちにならないの。あなた、もうウチの子に近づかないでちょうだい』
 そんな暴言を目の前で言われたのは、一度や二度のことではない。

 父親は、一応母親の意見に反論してはいるが、強く言えないらしく、申し訳なさそうな顔で見つめられた。どう答えればいいのかもわからず、クロもただ目をそらすことしかできなかった。

 シロの父親が隠れた柱のほうをじっと見ながら、クロはふと気づいた。

《あの人についていけば、シロの病室まで行けるんじゃないか?》


 施設の人や兄たちは差し入れを届けてはくれるものの、どこの病室かまでは教えてくれない。ここで病室の場所分かれば、こっそり会いにいくことが出来るだろう。

 クロはビニール袋をがさりと持ち直し、大急ぎで父親の後を追った。


 

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