9話


 

 こういう時、足が不自由なのは不便だ。
 一歩一歩階段をのぼるたびに、どんどん距離をはなされる。松葉杖が合わさる金属質の音がこもった階段の中で鈍く響き、後ろをつけている相手に気づかれないか、クロは内心ヒヤヒヤとしていた。幸い、シロの父親は何を考えているのか、重い足取りで一歩一歩足を進めて、一度も振り返らなかった。

 そして、長い階段を上りきった後、ようやく一番はじの部屋の前で止まり、シロの父親がノックもしないで中へと入っていった。
 音をたてないよう慎重に部屋に近づき、病室の名札を確認する。

 312号室 白山翔太

 どうやらシロは個室らしい。病室前のプレートにはシロの名前しかなかった。

 そのまま勢いでドアに手を伸ばすものの、ふと思いとどまる。 

《・・・今会って、何を話せばいいんだ》

 ビニール袋を握る手がじっとりと汗ばむ。伸ばした手は意味もなく空をかいた。
 確かに会いたいとは思っていた。けれどその機会があまりにも突然過ぎて、状況に心境が追い付いていかない。言葉をつむごうとする乾いた唇はパクパクと開閉するだけで何の声も出せない。

 それに今は中に父親がいる。ここで入って行ってもものすごく気まずいだけだ。

≪場所はわかったんだ、またあとで来ればいいか》
 そう思い直し、クロは自分の病室へ戻ろうとした。
 だが、目の前の病室からかすかに聞こえた声が、クロの足を引き留めた。


 誰かの、女の人の泣き声が聞こえる。

≪誰の声だ・・・?≫
 クロはその声の主が妙に気になって、そっとドアを開けて覗きこんだ。
 本来なら日当たりがいいであろうこの部屋は、カーテンを閉め切られた上に照明もついておらず、昼間なのにほんのりと薄暗い。そのカーテンに浮かび上がる、女性のシルエット。そばにはシロの父親らしき影がが女性の肩を抱くように立つ姿が見えた。
 手入れされているだろうロングの巻き髪、上品そうな服装には見覚えがある。

 シロの母親だ。

 
 記憶の中にある彼女の姿は、ものすごい勢いでシロとの仲を咎めたり、苦虫をかみつぶしたような顔で睨んでくるようなものばかりだ。 けれど目の前の母親はうつむいて肩を振るわせて泣いている。
 いったいどうしたのだろう。そう思っていると、なかから話し声が聞こえてきた。

「あれから、もう2週間はたったかな」

 シロの母親は答えない。 スチール製の簡素なイスに座って、手で顔を覆うようにしている。
「またあの子達から届け物がきたよ。いつもいつもありがたいね」
 父親は苦い笑みを浮かべ、ビニール袋を持ち上げた。あの袋には見覚えがある。シロに届けてほしいと、兄たちに渡したものだ。中身はなんだっただろうか。入院してからいろんなものを渡していたのでよく覚えていない。
 そのとき、母親がわずかに顔を上げる。入り口からは背を向けているので見えないが、あまりいい表情ではないだろう。父親の顔が苦い笑みから苦い顔になった。
「あの子のせいよ…」
  薄暗い部屋に、低く不気味な声が響く。 さっきまでの弱弱しい声とは違う、背筋も凍るような声色だった。
「おまえ
「あの子のせいよ。あんな子といっしょにいたから、こんなことに。だからイヤだったのよ」
「やめないか、全部が全部、黒山くんのせいじゃないだろう」
≪!?≫
 急に自分の名前をよばれ、おもわず杖を落としそうになる。
 きっと、だれかから事故の経緯を聞いたんだろう。こんなことになって、あの母親が何もいわないはずがない。それなりに覚悟はしていたつもりだったが、母親の言葉はやはりずいぶんと胸につきささった。なるほど、だから兄たちは部屋を教えなかったのだろう。さすがに真っ正面からいわれていたら堪えられなかったかもしれない。
 ドアの隙間を慎重に押し広げ、素早く中を見回す。二人以外の人影は見当たらない。ベットは壁に遮られてよく見えない。入り口から直接見えないようなつくりになっているのだろう。
 どうやらシロは部屋にはいないようだ。もしかしたら寝ているのかもしれないが、両親たちが大声で口論しているのでそれはないだろう。

≪・・・またあとでこよう》
 これ以上、聞いてはいけないのかもしれない。 この様子では部屋に入れないだろう。力なくすわりこむ母親のすがたに、胸の奥がひどく痛んだ。母親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そして、本当に申し訳ないとは思うが、こんなにも母親に想われているシロがうらやましく思えた。

「どうしてよ!どうしてこの子ばっかりこんな目に!!
「もうやめないか、そんなことをいってもどうしようもないだろう」
「どうして、どうしてこんな・・・

 また、部屋のなかからヒステリックな声がきこえてくる。もう聞いているのもつらくて、ドアを閉めようと力をこめた。



「翔太が・・・、この子がもう目を覚まさないかもしれないなんて・・・!!」
「・・・え、」



 言葉の意味が飲み込めず、しばらく扉の前で立ち尽くした。頭の中がまっ白になり、身体がこわばる。まるで誰かに殴られたみたいに、視界がぐるぐるとゆがんだ。 
シロが、目を覚まさない?嘘だ、だって兄ちゃんたちは、『ケガはしてるけど元気でいる』って・・・≫
≪もしかして、みんなが部屋を教えてくれなかったのは、本当の理由は、

 力の入らなくなった腕から、松葉杖がゆっくりとすべり落ちる。
 支えを失ったからだがゆっくりと倒れていくのを、どこか他人後のように感じていた。金属質の冷たい音が廊下中に響き渡る。完全に開かれたドアの向こうで、シロの父親が目を見開いていた。

「黒山君!?」
「っ・・・
「どうして。もしかして、今のはなし・・・
  父親がクロの名前を呼んだ途端、涙を流し肩を揺らしていた母親が、ぐるりと、ものすごい形相でこちらを振り向く。
 シロの母親はそのままカツカツとクツを踏み鳴らし、自力で立ち上がれないクロの腕をつかんできた。
・・・・・・ッ!!?」
「あんたが、あんたのせいでッ!!」
「ご、ごめんなさ・・・ッ!?」
 骨を折られるかと思うほど、ギシリと、強く握られる。あまりの強さに、本当に折られるかと思ったが、思い切り引っ張られ、そのまま病室のなかに連れ込まれた。足をひきずっていて立つことも出来ず、大した抵抗もできないまま病室へと入っていた。 床にたたきつけられる。
「黒山君、大丈夫かい!?」
 あわてたシロの父親に抱きかかえられた。安否を気遣われる声が聞こえてきたが、うまく耳に入らない。自分の視線は目の前の光景から目をそらせずにいた。母親の声だけが、頭の中で重く響いている。

「自分が何をしたのか、よく見てみなさいッ!!!」
「あ、あっ・・・!!」

 まさに、『白』だった。
  そこには、入り口から見えなかったベッドの部分が、露わになっていた。人工呼吸器だとかテレビで見たことのある機械がベットの周りを取り囲んでいた。そこからつながるたくさんの管は、ベットの上に横たわる、小さな体へとつながっていった。
 いつも自分を見つめてきた瞳は静かに伏せられ、その片方はガーゼで覆われている。自分を強く抱きしめてきた身体は全身を白い包帯で覆われていて、わずかにのぞいた右腕からは、赤黒い傷跡が痛々しく残っていた。呼吸の音もほとんど聞こえず、心臓の音を示す機械音がなければ生きているかさえ分からなかっただろう。

 シロの母親が、クロの肩を強くつかんだ。そして今までぶつけられなかった分の思いを吐き散らすように何度も、何度も、小さな身体を揺らし続けた。

「なんてことをしてくれたのよ。たいせつな、たった1人の息子を巻き込んで。しかも自分だけ、のうのうと目を覚まして!!」
「もうやめないか!こんな子供に聞かせる話じゃないだろう」
「翔太はもう、あんたみたいに起きないのかもしれないのよ!?もしかしたら、このまま・・・・・・あんたさえ、あんたさえいなければ、こんなことにならずにすんだのに!」

『あんたが目を覚まさなければ、』

『死ねば良かったのに!!』


 シロの母親は激しい感情を露にしてクロにいいつのる。その後の言葉はほとんど耳に入ってこない。父親も何か言っているようだったが、よくわからなかった。
 ただ、目の前の『白』から、自分のやってしまった『行為』から、
 目をそらすことができなかった。

 騒ぎを聞いた職員に部屋に連れ戻されるまで、ずっとシロのほうを見続けていた。そのときの自分は、いったいどんな顔をしていたんだろう。 ただ、頭のなかでずっと、シロのことを考え続けていた。
 クロにはもう、それしかなかったから。

≪ああ、そうか。そうなのか・・・≫
 きっともう、疲れきっていたんだと思う。
 最後にはじき出しされた答えは、どこかあきらめのようなものが含まれていた。


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