2話



















『―――裕也くん!』

 


 彼…藤谷裕也(ふじたにゆうや)と彼女…篠原咲(しのはらさき)は大学時代からの付き合いだった。栗色の淡いショートボブをゆるく巻いた髪に、ナチュラルメイクにおだやかでやさしそうな見た目で、大学内でも一目置かれていた。そう、見た目だけはとてもよかった。実際の中身はなかなかに過激で、一言でいえば、ハムスターがちょろちょろ動き回っているような印象だった。

 とにかく何か気になったら一直線で周りへの迷惑など気にしない。かと思えば、妙に年上ぶる時もあり「お姉さんに任せなさい!」などとよく言って後輩である自分をひっぱりまわすことが多々あった。

 

 最初はただのはた迷惑な先輩という印象しかなかった。だが、自分でも悪趣味だと思うが、いつしか彼女の強引さにひかれはじめ、告白までしてしまった。

 それから残りの大学生活を一緒に過ごし、卒業と同時に同居を始め、数ヶ月前まで同じアパートで暮らしてきた。その同棲生活も、なかなかに過激なものだったと思う。

 

 グレイが我が家にきたときもそうだった。道端に捨てられていたグレイを、彼女が拾ってきたのだ。

 

『ねえねえ裕也くん、子ネコ!拾った!』

『ああ、そう…で?』

『飼っていい?』

『…』

『…ダメ?』

『いや、別にいいよ。うちペット可だし。ただおまえは何時になったら順序っていうのを覚えるんだ?普通家にあげた上にエサ・トイレ・オモチャに移動用のキャリーまで用意してから聞かないよな?』

『え、えへへ〜…ちゃんと私がお世話するから』

『当たり前だ!』

 

 

 付き合い始めて三年目、まどろむような暖かい春の日だった。








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「―――・・・うまいか?グレイ」

 

 裕也はひざを曲げ、組んだ腕で頬杖をつきながら飼い猫を見下ろす。一心不乱に食べる姿は、まるでがむしゃらに生にしがみつこうとしているようだ。猫のほうはそんな飼い主の思考に気づかず、ガツガツとエサ入れのキャットフードにかぶりついていた。

 

「自分が面倒みるっていってたくせに、全部俺に押し付けていきやがって。…ほんと、ひどい飼い主だよな」

 

 裕也は口元をうっすらあげるだけの笑みをうかべ、満足そうなグレイの背中をなぜながら、ポツリとこぼすようにつぶやいた。

 ネコの方はひとしきりなぜられたあと、満足したように合皮の淡いソファの、男からみて右側の方のクッションに飛び乗る。そして両足を投げ出したまま、すやすやと眠りについた。すすけた灰色の毛並みが黒いテーブルの上にうつりこみ、クリーム色の壁紙と相反してひときわ浮かびあがって見えた。

 

≪やれやれ、ネコは気楽でいいもんだな≫

 そう思いながらメタルフレームのそれを押し上げ、舌でピカピカに磨かれたえさ入れを片づけ、自室へと戻った。

 

 

 

 

 裕也の部屋はいたってシンプルだ。もともと部屋の中にごちゃごちゃ物が置いてあるのは嫌いなので、必要以上に家具やインテリアを置いていない。加えて、機能重視でメタリックな家具を選んでいるので、まるで会社のなかにあるようなひどく殺風景な部屋だった。寝ること以外にはほとんど使わない部屋なので本人は気にしていないのだが、彼女がはじめて部屋に入ってきたときはひどくびっくりしていたのを覚えている。それ以来無駄にかわいらしいインテリアや趣味の合わない置物を渡されるようになったことも。(大半は本当に嫌だったので突っ返した)

 

 

 このコルクボードもそうだ。裕也は入り口の真正面につけられたコルク板の前に立った。かつて無数に貼り付けられていた写真は、取り残されたように一枚だけ飾られていた。

 

 ある日、彼女がいきなり部屋に入ってきたかと思うと、『これで写真でも飾ったら雰囲気良くなるかも!』と百均で買ってきたソレを壁に取り付けたのだ。怒鳴って止めた時にはもう壁に釘が打ちつけられており、彼女もすでに飾り付ける写真を選びはじめていた。(賃貸・・・)

 もはや怒りを通り越してあきれと脱力のため息しか出なかった。そしてせめて自分の好きなように飾らせてくれ、と、彼女がとった写真の中から気に入った風景写真やグレイの写真を貼るようになったのが始まりだ。たしかに強引ではあったが、この一面だけで部屋の印象があかるく変わった。

 

 

 中央に一枚だけ残された写真に、指先で触れる。

 とても幸せそうにうつる、最後の笑顔の写真。

 

 彼女もまさか、これが自分の遺影に使われるとは思ってもなかっただろう。

 

 

 数ヶ月前、咲は突っ込んできたダンプカーにはねられて亡くなった。聖夜まで数週間、昨今では珍しい雪の積もった日だった。  

 最後に触れた彼女の手は、もう冷たくなっていて。

 仲直りすることも、温かい手を握ることも、永遠にできなくなってしまった。

 

「…だめだ」

 

 裕也はのどの奥から絞り出すように声を出した。胸を押さえ、細身ながらも広い背中を丸める。メガネの縁が起きたときより高くなった陽射しに照らされ、鈍く輝いていた。

 

 咲と裕也は事故より少し前からいつもどおりささいなケンカをした。内容はもう覚えていない。ただ、いつもはすぐ折れるはずの裕也が一歩も引かなかったために妙にこじれてしまい、それからずっと互いに口をきかない大ゲンカにまでなってしまったのだ。そして彼女はそのまま、帰らぬ人となってしまった。

 

 

「さき、サキ、咲」

 

 なんどもなんども忘れようとした。でも出来なかった。この部屋やグレイをはじめ、彼女はあまりにも自分の日常の中に強く存在しすぎていた。

 触れた写真の上で拳を強く握る。彼女がいなくなって以来、何度もわき上がる情動。喉元まででかかったそれを、歯を食いしばって耐えた。この行為が何の意味をもたないことを、何度も経験して知ったから。

 

 知ったところで耐えられるものではなかったけれど。

 

 

「咲」

 

 残るのは後悔と、途方もない“たられば”だけだ。

 もしもあの時、ささいなことでケンカなどしなければ。

 もしもあの時、でかけた彼女を引きとめていれば。

 

―――もしも、やり直せるなら。

 

 

 

『できるよ』

 

 

 

 妙にはっきりと響く、誰かの声。

 

「!?」

 あわてて周囲を見わたすも、もちろん周囲に人影はない。ひとり暮らしの、自室にいるのだから当たり前だ・・・そのはずなのだが。

「・・・だれかいるのか?」

 部屋の中の空気が一瞬で変わったような気がする。窓から差し込む暖かな日差しも緊張で冷えきった手には届かない。体中が妙に緊張し、こわばって動かなくなる。まるで体が自分のものではないような感覚だ。

 

≪気のせいか?・・・いや、≫

 

 無意識にコルクボードに背を向け後ずさる。向かい側にあるドアはしまっており、日の光でてらてらと輝いていた。

 ・・・ドアの向こうになにかがいる、ような気がした。

 

 がちゃり

 

「!」

 唐突にドアノブが動き、扉がギィィ・・・ときしみながら開いた。

 

 視線の先にいたのは―――。

 

 

 

「にゃあ」

 

「・・・なんだ、おまえか」

 ピンと伸ばしたしっぽをふりながら、とことことグレイが部屋の中にはいってきた。そしてそのまま裕也の目の前にぺたんと座りこみ、首をかしげるようにしながらこちらをみあげている。裕也は深く息を吐き、胸をなでおろした。先ほどまで緊張していた自分がバカらしく思えてしかたがない。

 

≪やっぱり、気のせいか?まだ寝ぼけてんのかな、俺は≫

「どうしたんだ、こっちに来いよ」

 

 とにかく今は安心できるぬくもりがほしかった。裕也はグレイを抱き上げようと、身をかがめて冷えた指先をのばした。目の前の灰色猫はいつものように口を開き、甘えたような声を・・・―――

 

 

『やりなおしたい?』

 

 

 さっき聞いたばかりの声が、猫のノドから男の鼓膜に響いた。息をのんだ裕也の手をすり抜け、のっそりとした様子でグレイが起きあがった。まるで人間のように2本の後ろ足だけで立ち上がる愛猫。

 そして無表情な顔を男に向け、

 

 にやり、と笑った。

 

「・・・ッ」

『ねぇ、やりなおしたい?』

 

 不気味な笑みを浮かべた猫はそう問いかけながら、一歩一歩進んでくる。

 裕也は突然の事態に腰を抜かしながらも壁のほうへ後ずさる。すぐ背中に当たった壁の感触を無情に感じながら、自分をなだめるようにずれたメガネを直した。そしてあらためて、目の前の異形に向き直った。

 

「おまえは、なんだ」

『ああ、そうだった。自己紹介がまだだったね』

 

 眼前まで迫っていた愛猫の顔がくるりと後ろを向き、ちょうど一歩分の距離をあけてむきなおった。そして猫のくせにかしこまった様子でうやうやしく一礼をする。

 

『それじゃああらためて。はじめまして、藤谷裕也くん。・・・ボクは、死神。今日はキミに、あるゲームの提案にきたんだ』

 

 

 窓からのぞく青空には、いつからか薄暗い雲がおおっていた。




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