「最近、裕也くんの様子がおかしいの」
二人と別れてからしばらく、目に入ったお店で洋服を物色していたとき。ワンピースのかかったハンガーを片手に、咲がポツリとつぶやいた。
「え…祐也さんが?」
唐突に言われて詩帆はポカンと口を開けた。分厚いレンズの向こうで咲が苦々しげに唇を結ぶ。生まれた時からの付き合いである彼女の表情は、今まで見たことのないほど暗いものだった。
詩帆はあらためて、先ほど彼女に紹介されたばかりの祐也の姿を思い浮かべる。自分よりずっと年上で大人で、頼りがいのある男性だと感じた。元気な彼女ともの静かな彼、両極端ではあるがお似合いの二人だろう。
しかし咲は真剣に悩んでいるようで、いつもの勢いもなくうなだれている。緩やかなウェーブのかかった髪が力なく揺れた。
「そう・・・なんていうか、最近すっごく優しいの。欲しいものいっぱい買ってくれたり、前はなかなか言ってくれかなかった甘い言葉もたくさん言ってくれたり、いっぱい甘やかしてくれるの」
「それは・・・別にいいことなんじゃ」
「そう、そうなの。ただ、いつもの裕也くんらしくないっていうか・・・なんだかすごく無理をしているような気がして」
「無理?」
「ときどき泣きそうな顔で抱きしめてきたり、何かあったの?って聞いても『なんでもない』としか言ってくれなくて。私ももう、どうしたらいいかわからないの」
それ以上は話すことができないようで、咲は口を閉ざした。震える肩が、彼女にとってどれだけ深刻な状況であるかを物語っていた。
「・・・・・・」
詩帆はしばらく思案した後、うつむいた彼女の左隣にそっと近づいた。
「大丈夫だよ、咲ちゃん。裕也さんは咲ちゃんのこと、すごく大切に思ってるから」
寄り添うようにそばに寄れば、自分とよく似た顔がすぐ隣に見える。
十数年という月日は、詩帆と咲の身長差をすっかり埋めてしまった。けれど、人生経験での差は今だどうしようもなく広がったままだ。一足早く大人になった彼女を助けられることが今の自分にあるとは思えない。
《けれど、これだけはわかる。》
あの人波の中、詩帆たち二人、もとい、咲を見つけた時のほっとした表情。
あきれたように、けれど楽しそうにやり取りを見守る姿。
咲の頭をなでる、優しい顔。
彼女に向けられたすべての表情から、祐也の彼女を大切に想う気持ちが伝わってくる。
「きっと何か理由があるんだよ。信じてあげたら?どうしても必要なら、きっと話してくれるよ」
「そう、かな」
「そうだよ!だって、咲ちゃんの好きになった人だもん」
詩帆は彼女に微笑みかけた。彼女が少しでも安心できるように、自信を持って。
その想いが伝わったのか、咲の表情に少しだけ笑顔が戻った。
「・・・そっか、ありがとう。私、信じてがんばってみるね!」
「うん、がんばれ!・・・ところで咲ちゃん、その丈がすごく短いワンピース、誰が着るの?」
「そりゃあもちろん!しほちゃんに決まってるじゃない〜」
「うえ!私?」
「偶然再会したかつての幼馴染・・・ふたたび燃え上がる二人の初恋。これはもう、偶然を運命にするっきゃないよね!」
「え、えっと咲ちゃん、私とマサにいはただの幼馴染で、だいたい私子どもっぽいし、マサにいと全然釣り合わないっていうか・・・」
「な〜にいってんの!昌紀くんはああ見えて純真で可愛い子がタイプなんだよ。それに、あれは絶対脈があるね。私の女のカンがギュルンギュルンいってるよ」
「な、なんかすごい不審な音がしてるよ!?咲ちゃんのカン大丈夫!?」
「大丈夫!お姉さんに任せなさいな。せっかく買い物に来たんだし、おもいっきりおめかししてびっくりさせちゃおうよ」
そういってあれこれ服を取り出しながら咲がはしゃぐ。いつも通りの彼女の笑みに詩帆は少しだけ胸をなでおろした。
「そうだ!確か下の階にアクセも売ってたよね。見に行こうよ」
「えっでも裕也さんたち『この階で待ってろ』って言ってたよ?」
「大丈夫だよ!ちょちょ〜っといって戻ってくればいいんだから!」
「ええ〜・・・待ってよお」
持っていた服を戻し、詩帆は足早にかけていく従姉を追いかけようと階段の手すりに手をかけた。
「―――え?」
乾いた音が聞こえ、視界がぐらりと揺らいだ。手元を見れば、てすりの柵は吹き抜けの階下へ落ちていき、詩帆自身もまた、空中へと身をゆだねようとしていた。
真上にあったはずの天井画が目の前に飛び込んでくる。
外界から照らされたステンドグラスは神々しく光り輝いていて。
まるで本当に神様が降りてきたみたいだ、と場違いなことを考えた。
「しほちゃん!!」
助けを求め、天に腕を伸ばしても、もちろん救いの手を差し出されることはなく。
抱き寄せられたぬくもりとともに、詩帆の身体は宙に投げ出された。
(――…つかれた)
「いや〜いいの見つかってよかったですね」
「……」
うん、と背筋を伸ばし、昌紀は意気揚々と店を出た。祐也はというと、ぐったりとしながらも置いていかれないようについていくので必死だ。本日何度目かという重いため息が、口から漏れてきた。
「昌紀…なにを勘違いしてるのかと思ったら、こういうことだったのかよ」
「はい?なんのことっすか?」
「こういうのは男同士でくるところじゃないだろ!?店の人、ものすごい目で俺たちの事見てたぞ!」
「あ〜…ものすごく暖かい目で見てましたね。まあ大丈夫でしょ」
「大丈夫なわけあるか!」
「まあまあ」
俺は頭を抱えながら、ちらりと腕時計を見た。咲たちと離れてからそろそろ三十分くらい経っている。
《マズイな…予想以上に時間がかかっちまった、早く戻らないと》
「それにしても、久しぶりに会ったと思ったらそんなこと考えてたなんて…先輩たちもすみに置けませんね、このう!」
内心焦っている祐也の心境などまったく気がつかない昌也は、けらけらと笑いながら祐也の頭を抑えこむように掴んできた。
「った、お前!」
「大丈夫ですよ。何を悩んでるのか知りませんが、先輩ならきっとうまくやれますって」
ポンポンと、まるで子どもをなだめるようにして昌紀は俺の頭を撫ぜた。
「きっと、幸せになりますから」
まるで祐也の中の不安をすべて見透かしているかの様に、まっすぐ祐也の方を見て笑った。憎たらしい後輩は屈託のない笑みを浮かべ、自分たちの未来を祝福してくれている。
試練の先の、祐也と咲の幸せを。
「…ああ、頑張るよ。ありがとうな」
ゲームのことばかりを考え、焦っていた気持ちが少し楽になったような気がする。目頭が熱くなるのを抑え、祐也は素直に礼を言った。
「…ところで、この態度は先輩にする態度じゃないよな、昌紀?」
「いや〜先輩って先輩ぽくないっていうか、見てるとつい手を貸したくなっちゃうんすよねえ、お〜よしよし」
「子供扱いすんな!俺よりちょっとデカイからって!!」
さらに頭を撫でてくる昌紀の手を思いっきり振り払い、みぞおちに向かって一発決めようと拳をふるう。けれど昌紀はそれを余裕でかわし、こらえきれない様子でけらけらと笑った。なんとも腹の立つ男だ。行き場のなくなった拳をポケットの中につっこみ、イライラしながらもエレベーター乗り場へと向かう。昌紀も笑いながら慌てて後をついてきた。
「いやいや、でも本当先輩って前から生き急いでるような危なっかしい感じがしてたんすよね。まじめで、見てるコッチが心配になっちゃうような」
「…そう、なのか?」
「そうっすよ!一人で考えて、一人で思いつめちゃうような性格じゃないっすか。きっと咲先輩も、そんな先輩がほっとけなかったんでしょうね。あの人お姉さん気質だから」
「は?まさか、むしろ俺が咲の暴走を抑えるのに必死になってたぞ」
「でも先輩、咲先輩とつきあい始めてからずいぶん丸くなりましたよ。取っ付き易くなったっていうか…」
そう言われて、大学時代のことを思い返してみる。確かに咲とつきあう前は成績で上位を取ることばかり気にしていて人付き合いもあまりしなかったし、遊んでばかりのクラスメイトたちを馬鹿にしていた節もある。さっきのように後輩と話すことも、笑うことすらもなかったかもしれない。
「咲先輩のおかげっすよ、きっと」
「…そうだな」
エレベーターの表示は上位の階を示しており、なかなか降りてこない。となりのエレベーターも同上で、こちらは地下の階で止まったままだ。
「それにしても、相変わらずの洞察力だな。さすが教師になるだけのことはあるよ」
なんともない調子で祐也がそう話すと、なぜか昌也は小首をかしげた。
「あれ?俺、先輩に就職決まったって言いましたっけ?」
「は?お前、前会ったときに言ってただろ?確か一年くらい前に」
「一年前!?ちょっと先輩、何勘違いしてんすか。俺が就職決まったの、先月の末ですよ。十一月!」
「…は?」
俺は妙な違和感を覚えた。春から高校の教師になるのだと、以前会ったとき確かに本人から聞いたはずなのだ。
しかし昌紀は、それはおかしいと言ってきた。
「確かに一年前、先輩とは文化祭で会いましたけど、その時はまだ教員免許すら取れてないし、第一、それ以来先輩とは連絡とってないじゃないですか。今日だってこうして偶然会ったくらいですし。他の人とごっちゃになってるんじゃないですか?」
「そ、そうだったか?」
「そうですよ!もうしっかりしてくださいよ」
そこで一旦話は終わり、昌紀はなかなか来ないエレベーターにしびれを切らし、ボタンを何度も押し始める。その間も祐也はひとり、ぬぐいきれない違和感を感じていた。
《いや、でも俺は確かに聞いたはずなんだ。確かまだ冬で、今日みたいに雪が積もってて…》
本人に否定されたもののどうにも納得ができず、頭を抱えてなんとか思い出そうとする。エレベーターの階層ランプがオレンジ色に点滅し、徐々に祐也たちの元に近づいてきた。
《オレンジ色、小さな火、ロウソク…》
「先輩、ようやく来ましたよ!早く行きましょう」
ボタンを押していた方と反対側の、つまり地下から上がってきたエレベーターのドアが開いた。昌紀が祐也に背を向け、さっそうと中に入った。
その昌紀の背中を見た瞬間、祐也の中で何かがつながった。
「・・・あ、」
《そうだ、あの時昌紀は背をむけて俺と話してた。ロウソクの火がたくさんついた中で》
「先輩?どうしたんですか?早く乗ってくださいよ」
先にエレベーターの中に入った昌紀が、訝しげに祐也を見る。早く乗らなければいけないのだが、どうにも足が動かなかった。
思い出してしまったのだ。
《俺が昌紀に話を聞いたのは、》
《――咲の、四十九日があった日だ!》
「・・・!」
戻ってきた現実の感覚に身体の芯から震えが走った。道理で覚えていないはずだ。咲の死んでいないこの世界では、四十九日が行われるはずがないのだ。当然、昌也から話など聞けるはずもないと、ようやく理解する。
咲がいなくなった時間軸の出来事を思い出し、祐也は妙な不安に駆られた。
《早く、早く咲たちのところに戻らないと・・・ん?》
あせる気持ちを抑えながら、祐也もまたエレベーターに乗り込もうとした時だった。一階ホールにいる客たちが妙にざわついていることに気づいた。
「おい、ちょっとあれ」
「ひぃっ・・・!」
なぜかみんな祐也の真上を見上げ、息を飲んだ表情になっている。後ろではじれた昌紀が祐也の元に駆け寄ってきた。
「もう先輩!何してんすか」
「悪い、でも何か周りの様子がおかしいんだ」
「まわりぃ?」
「なんか、みんな俺らの上を見上げて・・・」
祐也が一・二歩前に出て、上を見上げた時だった。
なにかが祐也の鼻先をかすめ、地面に叩きつけられる。
一瞬、にぶい音がホール一帯に響きわたった。
「え・・・?」
おそるおそる足元を見れば、白い大理石の床に赤黒い液体が広がりはじめていた。その血痕の元には、見慣れた服を着た小柄な人影が二人分倒れている。
制服の彼女がつけていたであろうメガネはフレームを残して粉々に砕けており、本人たちに起こった悲劇をまざまざと伝えていた。
「嘘だろ・・・?先輩、しほちゃん・・・っ!?」
「―――――――っ!!」
動かない祐也の横をすり抜け、昌也が人影に向かって駆け寄った。力なく顔を覗き込み、制服の彼女の体をゆする。固く瞳を閉じた彼女からの返答は、ない。
「しほちゃん、しほちゃん!!しっかりしてくれよ、なあ!?」
昌也の声が徐々に大きく、悲鳴混じりになっていく。周りの客たちも、次々と悲鳴を上げその場を離れるものや従業員を呼びに行こうとするもので大混乱になった。
祐也だけは目の前で起きた出来事を受け入れられず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。己の体から言葉にならない悲鳴が上がる。
「しほちゃん!!頼むから、返事をしてくれ!しほちゃん!!!!」
「――――――――ああああああああああああああああああ!!!!」
さきほどまで一緒にコーヒーを飲んでいたはずの咲と詩帆は、五階から落下し、祐也の足元で絶命していた。
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