「う~、やっぱりもう冬だね。さむいさむい」
数か月ぶりに見た彼女は、ショートボブを揺らして寒そうに震わせていた。
もともと身長が低いうえに童顔で小柄な体型の彼女は、十代の少女のように頼りない体つきだ。ひさしぶりにそのすがたをみても印象はかわらない。小さな手をすり合わせながら、彼女は裕也の前で息を吐く。白い蒸気がちいさな手のひらを包み込み、なんの未練もないかのようにすぐにかき消えた。そしてそのひざ上までのトレンチコートから伸びた手で足元の灰色猫を抱きかかえる。
幾何学模様のスカートからのぞく黒いタイツの足は跳ねるようにパンプスを脱ぎ捨て、そのままマットレスの上に飛び乗った。上機嫌な様子の彼女は厚手のマフラーを外し、黒いハイネックの胸元に愛猫を抱きよせる。猫の毛がつくからやめろといつもたしなめていたのに、改めようとする気は全くない。
「は~やっぱこの時期のグレイはあったかくていいわ。いいな~天然の毛皮!」
スリッパにはき直しながら、彼女は一歩一歩、裕也のいる部屋の前へ近づいてくる。床の軋む音がだんだん大きくなっていた。自分のそれよりも軽い、ぱたぱたと駆けるような早足で、その音は近づいてくる。
「今日も一緒に寝ようか。どうせ裕也くんなんて今日も・・・」
ぴたりと、足音は裕也の三歩前のところで止まった。大きな茶色い目が丸くなる。愛猫にすりよっていたやわらかな頬は、近くでみると寒さのせいで赤く上気していた。栗色のショートボブは暗闇の中でさらりと揺れ動き、桜色のぷっくりとした唇の上をすべっていく。
凍りついた空気の中、お気楽なグレイだけは彼女の腕の中で満足そうに喉を鳴らしていた。
「・・・帰ってたの。てっきり今日も遅くまで仕事だと思ってた」
それから数秒、すう・・・と、見開いた瞳が伏せられた。先ほどまでのグレイに対する態度とは打って変わって冷たいものへと変わっていく。
貼りついた喉でどうにか言い訳しようと、たどたどしく言葉をつなぐ。
「あ、今日は・・・たまたま、早く帰れて」
「そ」
だが、ようやく会えた彼女はそっけなく裕也の脇を通り抜けていく。
妙に早鐘を打つ自分の心臓の横、そのすぐそばを、栗色の髪がふわりと待っていった。なつかしいシャンプーのにおい。口元から吐き出される吐息のぬくもり。そしてそれが、徐々に薄れていった記憶も
裕也はようやく思い出した。
≪ああ、そうだった。俺たちはケンカをしていたんだ。ろくでもないことでケンカして、互いにすれ違ったまま、そのまま・・・――――≫
限界だった。
「って、ちょ、なにっ!?」
咲のあわてた声が、腕の中から聞こえる。その声を遠くで聞きながら、裕也は彼女の身体をきつく抱きしめた。足元では早々に咲の腕から抜け出したグレイが、文句ありげにうろうろとまわっていた。
コート越しに感じる彼女の体温。ぶ厚いカーディガンでは温めきれなかったぬくもりが、ようやく満たされたような気がした。
「・・・ッ!!」
目頭が一気に熱くなる。こらえようと目を閉じながら裕也は思わず彼女の肩に顔をうずめた。ぬくもりと一緒に鼻先から甘い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
「ちょっと裕也くっ、くるし・・・いたいって!」
「ごめん」
「え?」
「俺が悪かった。俺が意地なんて張るからいけなかったんだ。全部俺が悪かった」
「ちょ、裕也くん?」
「本当に、ごめん」
顔を見せないように、咲の肩に顔をうずめる。
あのとき、理由すら忘れるほどささいなケンカですれ違わなければ、この声を、体温を、失うことはなかったかもしれない。
こうして肌を触れ合っても、裕也の中にはぬぐいきれない後悔が渦巻いていた。
「・・・ううん、私こそゴメンね。わがままいっちゃって」
そんな裕也の心境も知らずに、咲は彼の背中に手をまわす。そしてまるで小さな子をあやすようにさするのだ。見た目や普段の行動は子供っぽいのに、ふいに年上らしい態度をしめすのだから自分としてはたまったもんじゃない。また目の奥が熱くなるだろうが。
「13日、仕事なんだもんね。しょうがないよ。わがままいって、ごめん」
咲のことばにようやくケンカの理由を思い出した。
(・・・記念日)
そうだ、12月13日は二人が付き合って7年目になる日だった。
毎年その日は一緒にすごそうと咲がいっていて、でも今年は仕事がはいったから咲が怒って“私と仕事どっちが大事なの”なんてベタな台詞を言って大ゲンカしてしまったんだった。
裕也はすこしだけ顔をあげて、腕の力をやんわりとほどく。腕を回す程度に力を緩めれば、コート越しのぬくもりがじんわりと身体にしみついていく。
目元をかすかにぬぐいながら、裕也は口元をゆるめる。
「その日、有給とるよ」
「えっ大丈夫なの?」
「ああ、もともと休む予定だったし、普段あんま休まないから多目に見てもらう」
「やった!」
深夜だというのに咲は裕也の腕を抜けてうれしそうに飛び跳ねる。下の階に響くからといえば、今度は自分から裕也の腕に飛び込んできた。
「えへへ」
自分の顔の下から聞こえる彼女のうれしそうな声。
なんだ、最初からこうしておけばよかったんだ。口を利かなくなって以来、ろくに顔を合わせようとしないで、ちゃんと話していればよかった。
そうしていればきっと、彼女をなくすことも、こうやってよろこぶ姿を見ることができたのに。
裕也はため息をついた後、目の前を見据える。
今この瞬間を生きている、彼女のすがたを焼き付けるように。
・・・まあいい。もう一度ここからやり直せばいいんだ。
今度こそ咲をなくさないように。
今度こそ、間違えないように。
足元ではグレイが主人たちを見比べて、所在なさげにうろうろしていた。
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それからの三日間はとてもおだやかな日々だった。
今までの隙間を埋めるように仕事も早めに切り上げて、なるべく彼女と一緒にいられる時間を作った。
準備期間である今はまだ何も起こらないとわかっていても、やはり不安はぬぐいきれなかった。気づけばいつも咲のすがたばかり目で追っていた。
以前よりもずっと、咲のことばかりを考えていた。
「・・・」
リビングのソファに座り、裕也は瞳を閉じる。朝日を遮断した瞼の裏はただの暗闇でしかない。
その中で反響する、アイツの不気味な声。
『言ったでしょ、ゲーム中は本来キミに干渉できないって。ボクはもとの時間軸で待ってるよ。ここから先は、キミ一人でゲームを続けるんだ。
―――願わくば、十二月十八日以降にまた会えるといいね』
死神。自分をこのゲームへと勧誘した張本人だ。グレイの姿でゆがんだ笑みをうかべた。
はっ、と裕也は鼻で笑う。
≪なにが“また会えるといいね”だ。だれが好き好んで会いに行くものか≫
「・・・ぇ、ねぇ。裕也くん」
≪俺はもう、失いたくないんだ。こんなゲーム、一回で終わらせてやる≫
「裕也くん、聞いてる!?」
「!え、ああ悪い」
彼女の呼びかけに意識をこちら側に戻す。横をみれば咲が頬を膨らませて二人用ソファの自分のすぐ右隣に座っていた。その膝の上には存分にえさを腹におさめた灰色猫がふてぶてしく眠っている。暖色の照明に照らされ黒い光沢のあるテーブルに写りこむ姿が少しぼやけてみえた。
そういえばグレイは咲の膝の上がお気に入りで、よくそこで丸くなって寝ていたように思う。裕也がむりやりどかそうとすると暴れてひっかかれた記憶がある。
また思考を遠くに飛ばしかけていた自分に、彼女はさらに距離を縮めて言う。
「だから~明日!・・・十三日のこと」
するりと彼女の口から出た言葉に、心臓が強く脈打った。
裕也の動揺に気づかない咲は楽しげに話を続ける。
「せっかく休みがとれたんなら、どこか出かけない?最近よさそうなお店見つけたの。ケーキのおいしいお店でね。裕也くんまた視力下がったっていうから、ブルーベリーのレアチーズケーキなんてどう?なーんてね」
あはは、と彼女が声をあげて笑う。
冗談だとわかっていても笑えなかった。
『彼女はその時、仲なおりのためにケーキを買っていたんだよね。その日は二人の記念日で、『目の悪いキミのために~』ってレアチーズにブルーベリー乗っけたやつをわざわざホールで。結局はねられたときにタイヤに轢かれてぐちゃぐちゃになっちゃったけど』
目の前の彼女と同じ、けれどまったく違う種類の笑顔で、死神が話した言葉が頭の中で何度も反響する。まるで現場を見てきたかのように話す口ぶりに、裕也もまた、見たことも見たくもない情景を頭の中で勝手に描き出す。
上機嫌でケーキの箱を持って歩く彼女。突然飛び出してきた猛スピードの大型トラック。宙を舞う身体。タイヤの下につぶされたケーキ。通行人の悲鳴。叩きつけられた地面に広がる赤い―――・・・。
そこまで想像して、手のひらをぐっと強く握った。胸の奥が急激に冷たくなる。動機が激しくなり、目の前が真っ白になった。どうにか落ち着こうと深く息を吸っても荒く吐き出されるだけで何の気休めにもならない。
「裕也くん?どうしたの、顔色悪いよ」
急に黙りこくった裕也の顔を、きょとんとした表情で覗き込む彼女。ファンデーション独特の香りと彼女のさらりと揺れる髪の匂いが鼻先をくすぐる。
≪落ち着け、大丈夫だ。ここにいる咲はそんなことにならない。させない。・・・死なせない≫
「いや、なんでもない。・・・あのさ、出かけるのは明後日からにしないか?」
裕也はどうにか取り繕いながら、彼女に提案した。
どうしても、明日出かけるわけにはいかない。
「え?なんで?」
「・・・むりやり休暇取ったから、出かけた先で同僚とかに会うと気まずいし。
明日は家でゆっくり過ごそう」
必死に頭をフル回転させ、言い訳を考える。まさか明日、お前が死ぬからだ、なんて言えないだろう。たとえ死神と約束していなくても。
「う~んでも今までもずっと家で過ごしてたし」
「じゃあ明後日!明後日ならどうだ?」
「何そんなムキになってるの?」
「い、いや別に」
「でも明後日は詩帆ちゃんと遊ぶ約束してたんだよね」
「え?しほちゃん、って。たしかお前のいとこの・・・」
咲の口から出た名前に、裕也は内心驚いた。
詩帆ちゃん、というのは、咲の母方のいとこのことだ。たしかまだ高校生くらいだったと思う。髪の毛が直毛であることと丸ぶちのメガネをかけていること以外顔だちも体格も咲にそっくりで、童顔のせいもあって初めて見たときには、中学生かと勘違いしてしまった。ただし、性格は全く正反対らしい。引っ込み思案でおとなしく、小さいころから咲の後ろに隠れてばかりいたんだ、と咲本人から聞いたことがある。
前の世界では、彼女と直接会うことはなかったけれど。
しかしまさか、生前咲と彼女が会う約束をしていたとは思わなかった。
「あれ、話したことあったっけ?そう、いとこの詩帆ちゃん。明後日で試験が終わるから、ぱーっと買い物に行こうって話してたんだ。」
咲は右手でグレイの頭を撫でてやりながらそう話す。リビングの窓から差し込む日差しにまどろみながら、灰色猫はごろろとノドを鳴らした。
「でも裕也くんがその日しか空いてないんなら・・・」
「いや、いいよ」
彼女のことばを途中で遮る。きょとんとした表情に裕也は笑みを取り繕いながら話を続けた。
「・・・そのかわり、明後日、俺もいっしょに行ってもいいか?」
「え?」
「俺も買いたいものがあるんだ。それに・・・明日から雪が降る。よかったらのせてってやるから」
「でも、確か明日は晴れじゃ」
「降るんだよ。大丈夫、二人の邪魔はしないからさ」
≪―――・・・会わせてあげたい≫
彼女を見たのは、咲の告別式の日だった。
自分が見た少女は、ひどく痛々しいすがたをしていた。咲の眠る棺桶にすがり、彼女は声を殺しながら泣いていたのだ。姉がわりのいとこを失う痛みを背負うのはようやく思春期を終えた少女にはあまりにも早すぎる。泣きながら咲に別れの言葉を告げる少女の背中が、ひどく脳内に焼き付いていた。
だからせめて、こっちの世界で約束を守ってあげられるのなら・・・―――。
「・・・裕也くんがいいならいいけど、ほんとにいいの?」
しばらくの思考の後、咲が申し訳なさそうに口を開いた。
「いいんだよ。それに・・・もうすぐクリスマスだろ。その時に2人で出かければいいし。明日も・・・これからもずっと、2人で過ごせるんだからさ」
「そ、そう?なんか悪いなあ。とりあえず、詩帆ちゃんにも伝えておくね」
裕也のことばにまだ納得しきれないながらも、咲は承諾する。
その様子を裕也は安堵の笑みで見届け、話題をずらすことに専念した。
この時の自分の考えが、どれほど浅はかなものだったのかと知らないままに。
明日に向けて灰色の雲がかかり始めた空を、灰色猫は睨みつけるように見つめていた。
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