03:死神
 

 

 床も、壁も、本棚もすべてが白く塗りつぶされた世界。

その本棚の列を、一人の少年が歩いていた。高校生くらいの大人しそうな少年は、収められた書物を何度も見比べながら、いそいそと本棚に手を伸ばしている。

「これと、これと、これもいいなあ」

 少年は分厚い書物を何冊も抱えると、一冊一冊中身を確認していく。時折ずれてくる分厚いメガネをかけ直しながら、少年は熱心に書物を読みすすめた。

 少年は体操服のジャージを身にまとっており、左胸のところには『福田』と刺繍が施されている。少年の体格にしてはやや大きめで、ひ弱そうな外見には少々不格好にも見えた。

 

“生命の図書館”

それが今、少年・・・福田光(ふくだひかる)が訪れている場所の通称だ。

床も、壁も、たくさんの書物を収めている本棚も、すべてが真っ白に覆われていた。天井からはステンドグラスに染められた七色の光が降り注ぎ、室内の隅々まで明るく照らされている。あまりの白さと眩さに、初めてこの場所を訪れた人の中には、まるで天国のようだと話す者もいた。

そう、天国。それは半分間違いであり、半分正解だった。

 この図書館は、亡くなったすべての命を管理する役割がある。死んだ人間の魂は、まずこの図書館へと運ばれ、生前の記憶だけを残し、来世へと旅立つ。その記憶を“記録”という書物の形にしたものを保管・管理しながら、必要とする人に貸し出すのが、この図書館の役割だった。ここの管理人は記録という言い方を嫌って“物語”と読んでいる。

 そして、その物語を求め訪れる人間は“利用者”と呼ばれている。

 彼もまた、その一人だった。

「ちょうどこの時代のアイディアが欲しかったんだよね。これで期限には間に合いそうだ」

 少年は安堵の息を漏らしながら、ずれたメガネをかけ直した。

 福田は都内の学校に通う高校生だった。この春見事に志望校に合格し、現在は演劇部に所属している。昔から小説を書くのが趣味で、その点を買われて今では演劇用台本の執筆担当に任命された。それ自体は別に苦ではないのだが、 少年の所属している演劇部はずいぶんと部活動に力を入れており、部長もまた活動に熱心な人だった。

そのため、途中までOKを出していた台本でも『やっぱりつまらん!』と判断されたものは、ばっさりと切り捨てられてしまう。それは台本を書く福田にとって何よりも恐ろしいものであった。

 生命の図書館に初めて訪れたのも、執筆作業に疲れて眠ってしまった時だった。図書館に収められている書物は、その時代を生きた人々の記録がそのまま収められており、福田にとっては最高の資料であった。古墳時代を題材にした台本に苦戦していた福田が泣いて喜んだのは言うまでもない。

 それから福田は、この図書館の常連となったのだ。

 今日訪れたのも、次の台本を書くための資料を探しにきたのだ。

「まあ、目が覚めたときに全部覚えてるわけじゃないけど。せめてある程度は把握しておかないと・・・・・・っと、すみません!」

 本の内容に熱中していた彼の視界のすみに、誰かの足が近づいてくるのが見えた。

赤いハイヒールを履いた、女性の足だった。

自分が長い間通路を塞いでいたことを思い出し、福田はあわてて伸ばした足を引っ込めようとする。

 だがそれよりも早く、ハイヒールがむき出しの少年の足を踏みつけた。

「いっ! ・・・・・・たくない?」

 福田は思わず身体を縮こまらせた。だが、いつまでたっても足に衝撃はこない。おそるおそる目を開けると、女性の姿はずいぶんと先の方まで進んでいた。

(おかしいな、確かに今・・・・・・あ、そうか、あの人)

 ずれたメガネをかけ直し、通り過ぎた女性をじっと観察する。

後ろ姿だったが、女性の格好は遠目から見てもわかるほど古めかしいものだった。足首まで伸びた白いワンピースに広がりはなく、胸元からストンと落としたようなデザインだった。おそらく少年の母親が若い頃に流行っていた頃のデザインだろう。髪型もふんわりとパーマがかけられており、どこか懐かしく感じられるものだった。

そしてなにより確信を得たのが、女性の姿が霞がかったように透明になっていた。

(あの人、“記憶”だ)

 むき出しになった細い腕を、ステンドグラスの光が何度も通り抜けていく。半透明の女性は、そのまま通路の果てに消えて行ってしまった。

 (前に聞いたような気がする)

 福田は静かに女性の姿を見送りながら、頭の片隅に意識を寄せる。

 書物のなかに収められた記憶たちに死んだ自覚はないらしい。開かれたページの中から物語が展開していくように、書物となった彼らは、書物の中で生き続けているのだそうだ。

普段は本棚の中で眠っている彼らも、ふとした拍子に目が覚め、館内を自由に動き回ることがあると、図書館の管理人に教えてもらったことを思いだした。

(要はあれって幽霊だよね? そう思うとちょっと怖いなあ。まあ、害はないって言ってたし大丈夫か)

そう思いながら、福田が再び書物を読み始めようとしたときだった。

「ん?」

「・・・・・・! ・・・・・・っ!!」

 福田の耳に、かすかな音が聞こえてきた。甲高い声色は、本棚をはさんだ向こう側の通路から乗り越えてきたようだ。

「なんだろう、誰かいるのかな・・・・・・?」

 本棚の隙間から覗こうとしたが、棚と棚の間はぴったりとくっついており、動かすことはできない。

辺りを見渡すと少し離れたところに向こう側に続く通路を見つけた。

福田はペタペタと素足の音を立てながら、音の聞こえた方に目を向ける。途端に、なにか動物の鳴き声が福田の耳に飛び込んでくる。

「フーッ!! にゃあ!」

「あれは・・・・・・ネコ?」

 そこには、見覚えのある灰色猫が、福田に背を向けていた。確か名前はグレイといっただろうか。管理人である少女のひざの上で丸くなっているのを何度か見たことがある。そのグレイが、何かに向かって毛を逆立てていた。

「いったい何が・・・・・・ひっ!?」

 少年の口から、思わず悲鳴がこぼれた。西洋の甲冑を身にまとった半透明の人物が、グレイの前に立ちはだかっていた。

 おそらくあれもまた、この図書館に収められた記憶なのだろう。鈍い光沢を放つスズの甲冑は指の先から頭まで覆われており、表情をうかがい知ることはできない。だが、逆手に握られたサーベルの先は、まっすぐグレイの方へと向けられていた。

『・・・・・・』

「にゃあ、にゃあ!!」

 甲冑の男(おそらく体格からして男だろう)は、無言のまま猫の身体にむかってサーベルを振り下ろした。灰色猫はすぐさま身を動かし、軽やかな動きで男の股下をくぐり抜ける。

刃の刺さった床には不気味な音を立ててヒビが走り、サーベルの刃が引き抜かれると、ぱらぱらと音を立てて破片をちらした。

 本棚の影に隠れるようにしながら、福田は静かに様子を伺う。書物を握りこんだ手のひらに汗がにじんでいくのがわかった。

(どうしよう、助けなくちゃ・・・・・・! でも、記憶って害がないものじゃなかったの? あんなもの向けられたらひとたまりもないよ!)

 床に走ったヒビを見ると足がすくんでしまい、動くことができなかった。

 その時、背を向けていたはずの男が突然少年の方を向いた。

 甲冑の奥に隠された瞳に睨まれたような気がして、福田の心臓は限界を迎えかけていた。

「ひゃっ ・・・・・・むぐ!?」

 思わず漏れそうになった悲鳴を、誰かの手のひらが押さえつけた。力強い手のひらは、そのまま少年の体を本棚の影へと引き寄せる。突然のことにあわてて振り払おうとすると、もう片方の腕でがっちり押さえつけられた。

 さらに気が動転していると、低い男の声が、頭上から聞こえてきた。

「暴れるな。あいつらに見つかるぞ」

「む、むう・・・・・・!」

 妙に落ち着いた声色に、視線だけを声の方へと向ける。男はすでにこちらを見ておらず、通路の様子を伺っている。

 福田はその横顔に見覚えがあった。

この図書館の司書である、タイガという名前の青年だった。

 短めに切られた黒髪にVネックとジャケットを羽織った姿は、一見どこにでもいそうな大学生に見える。だが彼もまた、この図書館で特別な役職につく人物であった。その証拠に彼の手には、特殊な光沢を持つ書物が握られていた。彼がいつも肌身離さず持ち歩いている、司書だけが持つ特殊な書物だそうだ。

 本人と話をしたことがないのでよくわからないが、管理人から聞いた話では自分よりも仕事をしている、いわば陰ながら図書館を支えている存在だというのだ。

 そんな青年は、甲冑の男が再び猫の方へ視線を向けたのを確認すると、ようやく福田の身体を開放した。

 まともに呼吸ができるようになると、何度も深呼吸を繰り返し、福田は青年にすがりついた。

「た、大変なんです。甲冑が、ネコが」

「そんなの見ればわかる。さっさと行くぞ」

 青年の無骨な手が、福田の腕をとって歩きだそうとする。何も言わずに連れて行こうとする青年に、福田は慌てて待ったをかけた。

「ちょっと待ってください。どこにいくんですか!?」

「決まってるだろ。お前を連れてここから避難する。俺はこの図書館の司書として、利用者であるお前を守る義務がある」

背後では相変わらず灰色猫と甲冑の男が紙一重の争いを続けている。だというのに、妙に落ち着いた様子の青年に、福田は思わず声をかけた。

「あの、いったい何が起こってるんですか?」

 青年は抱えていた書物を開き、片手で器用にページをめくりながら福田の質問に答えた。

「どっかのバカが禁書用の本棚から勝手に書物を持ち出そうとしたんだよ。おかげで仕事が余計に増えた」

「禁書、ってなんですか?」

「さっきの甲冑を見ただろう。アレみたいに人に害を与える可能性のある書物を禁書というんだ。ここに収められている記憶には死んだ自覚がない。例えば生前殺人鬼だったやつの物語だったら、生前の通りに人を襲う可能性がある」

「そんな、危ないじゃないですか」

「だから普段は厳重に管理してんだよ。それをどっかのバカが持ち出そうと本棚を開けたせいで、禁書の一部が一般の方にまで紛れこんてきたんだ。おそらくあの甲冑の男は、戦争中に極度の空腹で飢え死にした奴の記憶だな。だから今のアイツには、グレイは最高のご馳走ってとこだろう。減る腹もないっていうのに、ご苦労なこった」

「・・・・・・あの、助けないんですか? あの子」

 青年がようやく福田の方を向いた。鋭い視線が福田の顔に突き刺さる。一瞬、福田の身体が心臓ごと飛び跳ねそうになったが、それでも視線はそらさぬようにまっすぐ青年の目を受け止めた。

 青年はそのまま、灰色猫たちのいる通路へと向けられる。

 相変わらず灰色猫たちの争いは続いたままだ。灰色猫は軽快なステップで刃を避けているが、それがあとどれくらい続けられるのかわからない。心なしか、先ほどよりも動きが鈍くなっているような気がした。

 青年はため息をつくと、めんどうくさそうに頭をかいた。

「あいつなら大丈夫だ。お前が心配するようなことじゃない」

「そんな、いくらなんでもひどいですよ!」

 福田が抗議の声を上げた瞬間、何かが叩きつけらるような音が響いた。

 慌てて視線を向けると、灰色猫が本棚の下にうずくまっている。辺りには何冊かの書物が散らばっており、また一冊、本棚から書物が落ちてきた。

 どうやらグレイが甲冑の男に蹴り飛ばされたらしい。振り上げられていた足が、金属音を上げながらゆっくりと下ろされた。

男はゆっくりと刃を頭上にかかげる。

灰色猫は、ぴくりとも動かない。

「危ない!」

 思わず少年の口から声がこぼれた。だがその叫びは、男の動きを止めるには不十分だった。

 男が狙いを定めると、灰色猫の背中に向けて、サーベルを勢いよく振り下ろした――――。





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